第270話
B級ダンジョン【古竜の寝床】。
その灼熱のカルデラと溶岩の洞窟は、もはや神崎隼人 "JOKER" にとって、完全に自らの庭と化していた。
あれほど彼を苦しめた古竜マグマロスとの死闘の記憶は、すでに遠い。
今の彼のネクロマンサービルドは、この場所において絶対的な安定性を誇っていた。
レベルは、地道な周回の果てに28へと到達。
彼の魂に宿るパッシブスキルツリーはさらに枝葉を伸ばし、彼の死者の軍団は、もはやB級の雑魚モンスターが束になってかかっても、傷一つ付かないほどの鉄壁の軍勢へと変貌していた。
その日の配信もまた、彼の日常をただ淡々と映し出す「作業」から始まった。
配信タイトルは、『【ネクロマンサーLv.28】古竜の寝床で雑談ファーム』。
「よう、お前ら。今日のBGMは、マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』だ。この混沌とした、しかしどこまでも美しいフリージャズの奔流。それが、この退屈な作業を、少しだけマシなものにしてくれる」
彼のそのあまりにも高尚で、そしてどこまでも難解な音楽談義に、コメント欄がいつものように和やかなツッコミと笑いに包まれる。
『出たwwwww JOKERさんのジャズ講座wwwww』
『もう何言ってるか全然分かんねえけど、とりあえずJOKERさんが退屈してるのだけは伝わってくる』
『この無敵の王者が、退屈そうに高尚な雑談しながら敵を蹂躙していくスタイル、最高にクールで好きだわ』
彼がそう語りながら、ひょいと溶岩の川に架かる石橋を渡った、その瞬間。
彼の目の前に、カシャカシャという金属音と共に、数体の【竜人族の精鋭部隊】が現れた。
だが、隼人はその雑談を止めることはない。
彼の右手は、もはや彼の意識とは別の生き物のように滑らかに動き、その腰に差された古びた骨のワンドを、軽く振るうだけ。
「――蹂躙しろ」
その短い、しかし絶対的な意志の力。
それに、彼の7体のゾンビ軍団が呼応した。
ウオオオオオオオオオオッ!!!
これまでとは比較にならない、力強い雄叫び。
彼らは、その腐った肉体をまるで鋼鉄のように硬質化させ、竜人たちの軍勢の中へと、一直線に突撃していった。
スプラッシュダメージと毒の連鎖によって、完璧だったはずの竜人たちの陣形は、わずか数十秒で完全に崩壊し、光の粒子となって消滅していく。
あまりにも、一方的な蹂躙。
彼は、ドロップした魔石を手早く回収すると、また次の獲物を求めて歩き出した。
その、あまりにも平和で、退屈な、しかし確実な「作業」の時間。
それが永遠に続くかと思われた、その時だった。
彼は、ついにこのダンジョンの最深部、あの灼熱のカルデラへとたどり着いた。
古竜マグマロスが、その巨体を休める玉座の間。
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、不敵に笑いかけた。
「さて、今日もマグマロス君をフルボッコタイムが来たぞ」
そのあまりにも不遜な一言。
それに、コメント欄が待っていましたとばかりに、温かい(あるいは不謹慎な)声援で溢れかえった。
『きたあああああ!本日のメインイベント!』
『まーたマグマロス君、毒地獄でボコられてしまうのか…』
『マグマロス君、涙目www』
『JOKERさん、たまには手加減してやれよw』
その熱狂をBGMに、彼はカルデラの中央へと、その一歩を踏み出した。
だが、その瞬間。
彼は、目の前の光景に、思わず足を止めた。
カルデラの中央では、すでに激しい戦闘が繰り広げられていたのだ。
とぐろを巻いていたはずのマグマロスが、その巨体を起こし、怒りの咆哮を上げている。
そして、その巨大な竜と、たった一人で対峙している、一つの小さな人影があった。
「おっ、誰か先に戦ってるぞ?」
隼人は、思わず呟いた。
「見学でもするか」
彼の、そのあまりにもマイペースな一言。
それに、コメント欄が爆笑の渦に包まれる。
彼は、その戦闘の邪魔にならないよう、カルデラの入り口付近の岩陰に身を隠した。
そして、その神々の戯れのような光景を、固唾を飲んで見守り始めた。
戦っているのは、一人の探索者だった。
その姿は、あまりにも異質だった。
小柄で、華奢な体躯。
その身を包んでいるのは、冒険者学校の真新しい制服。
そして、その顔立ちは、遠目からでも分かるほどに整っており、まるで物語の中から抜け出してきたかのような、美しい少女に見えた。
だが、その少女がその華奢な両腕で握りしめているのは、彼女の身長ほどもある、巨大な両手斧だった。
そのあまりにもアンバランスな光景。
「グルオオオオオオオオオオッ!!!」
マグマロスが、灼熱のブレスを放つ。
だが、少女はそれを恐れない。
彼女は、その小さな口を大きく開くと、竜の咆哮をもかき消すほどの、力強い雄叫びを上げた。
ウォークライ。
その咆哮と共に、彼女の全身から赤い闘気のオーラが迸り、その手に持つ巨大な斧が、まるで生き物のように脈打ち始める。
そして彼女は、その強化された一撃を、真正面から竜のブレスへと叩きつけたのだ。
【ヴォルカニック・フィッシャー】。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
凄まじい轟音と共に、彼女の斧が大地を砕く。
そして、その裂け目から、灼熱のマグマの奔流が、竜のブレスを逆流するかのように、その顎へと叩き込まれた。
あまりにも、暴力的。
あまりにも、美しい一撃。
その光景に、コメント欄の有識者たちが、戦慄と共にその正体を分析し始めた。
戦士有識者:
…嘘だろ。
両手斧を持ってるな、あの少女。
それにあれは、ウィークライで攻撃を強化して戦ってる。
戦士系のウィークライビルドか。あれも強いからなぁ…。
**しかも、ソロで。**B級のボス相手に、ソロで渡り合ってるのか…!?
その、神がかった戦い。
それに、隼人もまた、言葉を失っていた。
マグマロスは、完全に防戦一方だった。
少女の、尽きることのない闘志と、その圧倒的な火力。
それに、古竜の再生能力が、全く追いついていない。
そして、ついにその時は来た。
少女の、最後の一撃。
それが、マグマロスの心臓を、完全に粉砕した。
古竜は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その巨体をゆっくりと傾かせ、そして満足げな光の粒子となって、消滅していった。
あっさりと、負けたのだ。
静寂。
後に残されたのは、山のようなドロップアイテムと、そしてその中心で、荒い息をつきながらも、その瞳に確かな勝利の輝きを宿して佇む、一人の少女の姿だけだった。
そのあまりにも鮮やかな勝利。
それに、コメント欄が爆発した。
『つ、強ええええええ!』
『なんだ、あの子は…!』
『いやー、強いな。戦士系であれだけ強いのは、ビルドの完成度高いな』
その賞賛の嵐の中で、一人の視聴者が、その真実に気づいた。
『おい、待てよ…。あれは、冒険者学校の制服だし、学生か?』
『だとしたら…学生はまだC級だから、もしかして、初のB級達成者じゃないか?』
その、あまりにも衝撃的な仮説。
それに、コメント欄が、再び沸き立った。
そして、その熱狂の中心で。
隼人の心もまた、これ以上ないほど高揚していた。
面白い。
面白いじゃ、ねえか。
この世界の底は、まだ見えねえ。
「挨拶に行ってみるか?」
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、問いかけた。
その問いに、コメント欄が**「うん、行ってみよう!」**という同意の声で、埋め尽くされた。
彼は、その声援に背中を押されるように、岩陰からその姿を現した。
そして、その小さな、しかし偉大な勝利者へと、ゆっくりと歩み寄っていく。
「――よう。ボス、お疲れ様でした」
彼は、できるだけ穏やかな声で、言った。
「少し、話をしても良いかな?」
その声に、少女が振り返った。
そして、その顔が、隼人の姿を捉えた瞬間。
その、戦闘狂のようだった瞳が、一瞬で、ただのファンの、キラキラとした輝きへと変わった。
「――えっ!?うそ!?JOKERさんじゃないですか!?」
その、あまりにも嬉しそうな、そしてどこかあどけない声。
「ファンです!良いですよ!」
彼女は、その場でぴょんぴょんと飛び跳ね、その喜びを全身で表現していた。
そのあまりにも無邪気な姿に、隼人も思わず笑みを漏らした。
そして、彼女は深々と頭を下げた。
「あ、あの!僕、朱雀 湊と言います!よろしくお願いします!」
その、あまりにも礼儀正しい自己紹介。
だが、隼人の思考は、別の場所にあった。
僕?
男の子?
この、あまりにも可憐な、少女のような外見で?
「…もしかして、君、男の子?」
彼の、そのあまりにも素直な疑問。
それに、湊と名乗った少年の動きが、ぴたりと止まった。
そして彼は、ガーンという効果音が聞こえてきそうなほど、分かりやすくショックを受けた顔をした。
その瞳には、うっすらと涙すら浮かんでいるように見えた。
「……そうです…。みんなに、間違われるけど、男の子です、僕…」
その、あまりにもか細い、そしてどこまでも悲しげな声。
それに、隼人は慌てて、その大きな間違いを謝罪した。
「…すまん。女の子だと、思った」
「いえ、慣れてますし…」
湊は、そう言って力なく笑った。
そのあまりにも健気な姿。
それに、隼人の心も少しだけ痛んだ。
彼は、話題を変えるように言った。
「いや、それよりだ。コメント欄が、冒険者学校の生徒がC級だから、初B級達成者じゃないかって、騒いでるけど、マジ?」
その問いかけに、湊の顔が再びぱっと輝いた。
「はい!」
彼は、力強く頷いた。
「今日、初めて挑戦して、さっき、なんとか倒せました!多分、僕が一番最初じゃないかな…」
その、どこまでも誇らしげな言葉。
それに、隼人は心の底から感心した。
「…えっ、何歳?」
「16ですね。中卒冒険者だったので」
「まじか。すげーな」
隼人の口から、素直な賞賛の言葉が漏れた。
16歳で、B級の主を、ソロで。
この世界の未来は、明るいらしい。
その、隼人からの思いがけない賞賛の言葉。
それに、湊の顔が、これ以上ないほど真っ赤に染まった。
そして彼は、意を決したように、その大きな瞳で隼人を真っ直สุぐに見つめた。
その瞳は、もはやただのファンではない。
一人の、冒険者としての、純粋な憧れの光で、キラキラと輝いていた。
「あ、あの!LINE、交換してもらっていいですか!?」
その、あまりにも真っ直な、そしてどこまでも熱烈な、お願い。
それに、隼人は、少しだけ考え込んだ。
だが、彼はすぐに首を縦に振った。
「…いいよ」
その一言。
それに、湊の顔が、これ以上ないほどの、満開の花のような笑顔になった。
「――やったー!」
彼は、その場で子供のように、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
そのあまりにも無邪気な姿。
それに、隼人もまた、思わず笑みを漏らしていた。
彼の、退屈だった日常。
それが、ほんの少しだけ、色づき始めた瞬間だった。