第268話
【物語は一時3ヶ月後に移る】
カチャリと。
静かな電子音と共に、玄関のスマートロックが解除される音がした。
そして、パタパタという軽い足音と共に、一つの明るい声がリビングに響き渡った。
「――ただいまー!」
そのあまりにも待ち望んでいた声。
それに、隼人の常にポーカーフェイスを保っていたはずの口元が、わずかに、しかし確かに緩んだ。
彼はソファからゆっくりと立ち上がると、その声の主を出迎えた。
「――おかえり」
彼のその不器用な、しかしどこまでも優しい声。
それに、玄関に立っていた少女…神崎美咲は、満面の太陽のような笑顔で応えた。
「うん、ただいま、お兄ちゃん!」
「どうだった、今日の授業は?」
「うん!すごかったよ!今日は、A級のヒーラーの先生が来てくれてね。『パーティにおける、ヒーラーの立ち回り』っていう、すごく実践的な講義だったんだ!」
彼女は、リュックをソファの上に放り投げると、弾むような声でその一日を語り始めた。
そのあまりにも頼もしい成長の報告。
それに、隼人の心も温かく満たされていく。
そして彼は、本題を切り出した。
「…そういや、美咲。今日からだろ?例の、アレ」
「うん!」
美咲は、待っていましたとばかりに、その瞳をキラキラと輝かせた。
「ローマ芸術クラブの、【幻創の絵筆】を使った、世界初のアートインスタレーション!都庁の前で、今日から一週間限定で公開されるんだよね!クラスのみんなも、絶対見に行くって、大騒ぎしてた!」
「…そうか」
「ねえ、お兄ちゃんも行こうよ!今から!」
そのあまりにも無邪気な誘い。
それに、隼人は少しだけ面倒くさそうな顔をした。
「いや、俺はいい。人混みは、嫌いだ」
「えー、そんなこと言わないでよー!お願い!」
美咲が、その大きな瞳で彼を見つめる。
その、あまりにも強力な「兄キラー」の一撃。
それに、隼人は観念したように、深くため息をついた。
「…はぁ。分かった、分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」
「やったー!」
◇
その日の夜。
新宿都庁前の、広大な都民広場は、これまでにないほどの熱狂と、そして静かな感動に包まれていた。
数万、いや数十万という人々が、ただ空を見上げ、息を呑んでいる。
子供も、大人も、老人も。
探索者も、一般市民も。
国籍も、人種も関係なく。
その全ての視線が、ただ一つの「奇跡」へと注がれていた。
都庁の、巨大な二つの塔。
その間に広がる夜空が、巨大なキャンバスと化していた。
そこに、描かれていたのは、ミケランジェロの最高傑作。
システィーナ礼拝堂の、天井画『最後の審判』。
その、原寸大の、幻だった。
「……………」
隼人は、言葉を失っていた。
彼の隣で、美咲と、彼女に誘われて合流した静もまた、そのあまりにも神々しい光景に、ただ呆然と立ち尽くしている。
それは、もはやただの絵画ではなかった。
【幻創の絵筆】が生み出した幻は、視覚だけでなく、音や香り、そして空気そのものまでもを、完璧に再現していた。
どこからか聞こえてくる、荘厳なグレゴリオ聖歌の調べ。
ほのかに漂う、古い教会の、蝋と香の匂い。
そして、肌を撫でる、ひんやりとした、神聖な空気。
彼らは、まるで本当に、バチカンのあの礼拝堂の、その天井の下に立っているかのような、錯覚に陥っていた。
中央に描かれた、威厳に満ちたキリストの姿。
その周りを、天使たちと聖人たちが、渦を巻くように舞い踊る。
天国へと昇っていく、祝福された魂たち。
そして、地獄へと堕ちていく、断罪された魂たち。
その、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも美しい、神々のドラマ。
それに、広場に集まった全ての人々が、心を奪われていた。
「…すごい…」
美咲の口から、感嘆のため息が漏れた。
「きれい…」
静もまた、その瞳に涙を浮かべていた。
その時だった。
「――あらあら。皆さん、お揃いですわね」
背後から、不意に、優雅で、そしてどこか悪戯っぽい声がした。
隼人が振り返ると、そこには見慣れた二人の女神の姿があった。
青と白のドレスアーマーに身を包んだ、鳴海詩織。
そして、その隣で静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ、ゴシックドレスの冬月祈。
彼女たちもまた、この奇跡の噂を聞きつけて、やってきたらしかった。
「詩織さん!祈さん!」
雫が、嬉しそうな声を上げる。彼女もまた、仕事帰りにこの場所へと駆けつけていた。
こうして、奇しくも、六人の規格外たちが、この場所に集結した。
彼らは、しばらくの間、言葉もなく、ただその神々しいまでの芸術を、その目に焼き付けていた。
やがて、その沈黙を破ったのは、詩織だった。
彼女は、その慈愛に満ちた瞳で、天上の絵画を見上げながら、静かに言った。
「…素晴らしいですわね」
「これこそが、人の『創造』の力。ダンジョンがもたらしたのは、ただの破壊だけではなかった。こうして、新たな美を生み出す、可能性をも、私達に与えてくれた」
その、あまりにも哲学的で、そしてどこまでも温かい言葉。
それに、雫も、静も、そして美咲も、深く頷いた。
だが、一人だけ、違う感想を抱いている者がいた。
冬月祈だった。
彼女は、その感情の読めない紫色の瞳で、その壮大な幻を、ただ冷徹に分析していた。
「…なるほど」
彼女は、その抑揚のない静かなソプラノの声で、告げた。
「マナの消費効率、極めて高いですわね。この規模の幻影を、12時間も維持するとは。あのローマ芸術クラブ、相当な『使い手』を、揃えましたわね」
その、あまりにも専門的で、そしてどこまでもズレた感想。
それに、隼人は思わず吹き出してしまった。
「ははっ。あんたは、そっちかよ」
「? 何か、おかしなことでも?」
祈が、こてんと不思議そうに首を傾げる。
その、あまりにも噛み合わない、しかしどこか心地よいやり取り。
それに、詩織と雫も、くすくすと楽しそうに笑った。
そして、隼人。
彼もまた、この光景に、自らの哲学を重ね合わせていた。
彼は、天上のキリストの、その威厳に満ちた瞳を見つめながら、思う。
(…面白い)
(芸術家は、筆でこれを描いた。俺は、カードでこれをやる)
(テーブルの上で、敵の魂を断罪し、勝利という名の天国と、敗北という名の地獄を、作り出す)
(やってることは、同じじゃねえか)
彼の口元に、獰猛な、そしてどこまでも楽しそうな笑みが浮かんだ。
その、あまりにも不遜な思考。
それを、隣にいた詩織が見透かしたかのように、悪戯っぽく彼の脇腹をつついた。
「…また、不謹慎なことを考えているお顔ですわよ、JOKERさん」
「…うるせえ」
その、あまりにも平和で、そしてどこまでも温かい時間。
それが、永遠に続くかのように思われた。
やがて、美咲が、その大きな瞳をキラキラと輝かせながら言った。
その声は、純粋な夢と希望に満ちていた。
「――ねえ、みんな!」
「**いつか、本物を見に行きたいね!**イタリアの、バチカンに!」
その、あまりにも無邪気な提案。
それに、その場の全員が、顔を見合わせた。
そして、彼らは同時に、最高の笑顔で頷いた。
「ええ!素敵ですわね!」
詩織が、声を弾ませる。
「行きましょう!私が、最高のツアーをアレンジしますわ!」
「わあ、本当ですか!?」
雫が、目を輝かせる。
「イタリアのジェラートは、評価が高いですわね」
祈が、どこまでもマイペースに呟く。
静もまた、その瞳に確かな光を宿していた。
「…はい!行ってみたい、です…!」
その、あまりにも希望に満ちた、未来の約束。
その中心で、隼人は、やれやれと肩をすくめながら、しかしその口元には、これ以上ないほどの優しい笑みを浮かべていた。
「…はぁ。面倒くせえな」
彼は、そう悪態をつきながらも。
その瞳は、確かに、その輝かしい未来を、見据えていた。
その日の東京の夜は、いつもよりも少しだけ、温かく、そして優しく、彼ら六人の、ささやかな、しかし確かな絆を、照らし出しているかのようだった。
彼の、ギャンブルの夜は、まだ終わらない。
だが、そのテーブルの隣には、いつの間にか、最高の仲間たちが座っていた。
その事実に、彼の心は、これ以上ないほどの、温かい何かで満たされていた。