第267話
西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を淡く照らしている。
神崎隼人――“JOKER”は、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された神々のギャンブルの、その最終幕の始まりを静かに見つめていた。
彼の新たな相棒、【静寂の王】と名付けられた漆黒のハイスペックPC。その巨大な4Kモニターには、ギルド公式オークションハウスのライブストリーミング映像が、滑らかに映し出されている。
先ほどの【幻創の絵筆】を巡る4兆円の狂騒。その興奮の余韻が、まだ彼の配信チャンネルのコメント欄には、熱病のように渦巻いていた。
『4兆円…。もう、俺の金銭感覚、完全にバグったわ…』
『芸術家たちの執念、恐るべし。でも、ローマ芸術クラブが勝ってくれて、正直ちょっと嬉しい』
『JOKERさんの「つまらない」発言が、流れを変えたなwww』
その熱狂の中心で、JOKERはただ静かに、新しいタバコに火をつけた。
彼の表情は、いつもと変わらないポーカーフェイス。
だが、その瞳の奥には、最高のテーブルの、最後のディールを待つギャンブラーだけが宿すことのできる、静かな、しかし獰猛な光が宿っていた。
オークションハウスの画面では、荘厳なファンファーレと共に、最後の出品アイテムが、立体的なホログラムとしてラウンジの中央に映し出された。
それは、一つの美しい、しかしどこか物悲しい銀細工の懐中時計だった。
文字盤には針がなく、ただその中央で、世界の全ての記憶を吸い込んだかのような深淵が、静かに広がっている。
「…さて、と」
JOKERの声のトーンが、変わった。
それは、もはやただの観戦者ではない。
この世界の誰よりも、このゲームのルールと、その奥にある人間の欲望を知り尽くした、プロのディーラーのそれだった。
「最終ラウンドの、始まりだ」
「最後のカードは、【時の残響を聴く懐中時計】。効果は、お前らも知っての通り、過去を『観測』する力。戦闘能力は、ゼロ。だが、その価値は、あるいはこれまでの二つを、遥かに凌駕するかもしれねえな」
彼のその、あまりにも意味深な一言。
それに、コメント欄がざわめいた。
『え!?10兆円以上ってこと!?』
『ただ、過去を見るだけだろ?なんで、そんなに価値があるんだ?』
その素朴な疑問に、JOKERは不敵に笑った。
「お前ら、分かってねえな。この懐中時計が見せるのは、ただの過去じゃねえ。『真実』そのものだ。そして、人間ってのはな、この世のどんなお宝よりも、真実を渇望する生き物なんだよ」
「このオークションは、もはやただの金の殴り合いじゃねえ。それぞれのプレイヤーが、その魂の全てを賭けて、自らが求める『答え』を奪い合う、究極の心理戦だ」
彼のその、あまりにも本質を突いた解説。
それに、コメント欄の有識者たちが、深く頷いた。
そして、運命のカウントダウンが、ゼロになる。
オークションの、火蓋が、切って落とされた。
オークショニアを務める老紳士が、その甲高い、しかし威厳のある声で宣言した。
「――これより、【時の残響を聴く懐中時計】のオークションを開始いたします!」
「開始価格は、1兆円より!」
その、もはや聞き慣れてしまった天文学的な数字。
だが、その後の展開は、誰もが予想だにしなかった。
開始のゴングが鳴り響いた、そのコンマ数秒後。
画面の入札額が、いきなり、その数字を、ありえないほど変えたのだ。
【入札者:Anonymous_Legacy_EU】
【入札額:10兆円】
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
配信画面のコメント欄の動きが、完全に止まった。
数十万人の視聴者たちが、一斉に自分の目を疑った。
今、何が起こった?
開始価格、1兆円。
それが、なぜ、いきなり10兆円に?
そのあまりにも桁違いなジャブ。
それに、オークション会場も、そしてJOKERの配信を見ている全ての人間が、固まった。
「……………は?」
JOKERの口から、素っ頓狂な声が漏れた。
彼は、その数字を何度も、何度も見返した。
だが、その数字は変わらない。
10兆円。
それは、もはや入札ではない。
ただの、宣言。
『このテーブルに、お前らが座る席はない』という、絶対的な王者の、宣告だった。
「おいおい、いきなりトップギアの野郎がいたもんだな」
彼の、その震える声。
それが、引き金となった。
コメント欄が、爆発した。
『は!?』
『じゅ、10兆!?!?』
『嘘だろ!?開始1秒で、10兆!?』
『なんだよ、これ!なんだよ、これ!』
『誰だ!?誰が10兆円投げ込んだんだ!?』
スレッドは、もはや制御不能の熱狂と、そして純粋な恐怖の坩堝と化した。
その混乱の渦の中で、JOKERは、ただ一人、冷静にその入札者の名前を、分析していた。
Anonymous_Legacy_EU。
匿名の、遺産、ヨーロッパ。
彼の、ギャンブラーとしての脳が、その断片的な情報から、一つの答えを導き出す。
そして、その彼の推測を裏付けるかのように。
コメント欄の、あの情報屋A級が、一つの衝撃的な情報を投下した。
815: 名無しの情報屋A級
…見つけたぞ。
こいつだ。
間違いない。
EUの、メディア王。アルフレッド・フォン・シュタインベルクだ。
御年、92歳。一代で、ヨーロッパの情報網の全てを支配した、生きる伝説。
818: 名無しのビルド考察家
シュタインベルクだと!?
なぜ、彼がここに…!
821: 名無しの情報屋A級
818
理由は、一つしかねえだろ。
彼の妻だ。
30年前に、謎の失踪を遂げた、彼の最愛の妻。
警察も、ギルドも、その行方を掴めなかった。
彼は、その人生の最後の最後に、その「答え」を知るために、ここに全てを賭けに来たんだ。
見てみろよ、これ。
オークションが始まる直前に、彼が発表した、事前インタビューの声明文だ。
その書き込みと共に、一枚のテキスト画像がアップロードされた。
そこに記されていたのは、一人の老人の、あまりにも切実な、魂の叫びだった。
『――私は、富も、名声も、もはや何も望まない。ただ、もう一度だけ、彼女に会いたい。いや、会えなくともいい。彼女が、その最後の瞬間、どんな顔で、何を思っていたのか。その真実を知ることができるのなら、私は、この人生で築き上げてきた全ての資産を、投げ打つ覚悟がある』
その、あまりにも重く、そしてどこまでも純粋な愛の言葉。
それに、スレッドの空気が一変した。
先ほどまでの熱狂は嘘のように消え去り、後に残されたのは、静かな、そしてどこまでも深い感動だった。
それに、一気にしんみりとなる主人公。
「…なるほどな。亡くなった妻か…」
JOKERは、静かに呟いた。
その声には、これまでにないほどの、深い共感の色が滲んでいた。
「まあ、気持ちは、よく分かるな」
彼は、ARカメラの向こうの、数十万人の観客たちに、初めて自らの過去の一端を、語り始めた。
「親父とお袋に、今の俺の姿、見てもらいてえって、何度思ったか」
「ダンジョンで、死にかけた時。初めて、デカいユニークを拾った時。そして、美咲が、退院できた、あの時も。一番に、報告したかったのは、あの二人だった」
「まあ、もう叶わねえ夢だがな」
彼の、そのあまりにも人間的な、そしてどこまでも寂しげな告白。
それに、コメント欄が、「JOKER…」としんみりする。
『JOKERさん…』
『そんな過去が、あったのか…』
『泣けるぜ…』
その、温かい、しかしどこか物悲しい空気。
それを断ち切ったのは、オークションの、新たなる動きだった。
10兆円という、絶対的な壁。
それを、打ち破る者が現れたのだ。
【入札者:American_Dream_Inc】
【入札額:11兆円】
「…動いたか」
JOKERの声のトーンが、再びギャンブラーのそれへと戻る。
「**アメリカの大富豪が、11兆円か。**こいつは、思い出に浸りに来たんじゃねえ。ビジネスをしに来たんだ。面白い。面白くなってきたじゃねえか」
その言葉通り、戦いは再び熱を帯び始めた。
【入札者:Anonymous_Legacy_EU】
【入札額:12兆円】
EUの大富豪が、即座に12兆円で返す。
1兆円単位の、壮絶な殴り合い。
13兆、14兆、15兆…。
モニターの数字は、もはや現実感を失い、ただの記号の羅列のように、その価値を増していく。
「おいおい、15兆超えたぞ?」
JOKERも、そしてコメント欄も、その狂乱の光景に、もはや言葉を失っていた。
そして、そのチキンレースは、さらに加熱する。
16兆、17兆…。
そして、ついに。
アメリカの大富豪が、その最後の、そして最大の勝負を仕掛けた。
【入札者:American_Dream_Inc】
【入札額:18兆円】
その、あまりにも重い一撃。
それに、EUの大富豪の動きが、止まった。
オークションハウスのライブ映像が、彼の苦悩に満ちた表情を、アップで映し出す。
その額には、玉のような汗が浮かび、その唇は、固く結ばれている。
彼は、深く、深く悩んでいた。
自らの、思い出のために。
これだけの、富を、投げ打っていいのかと。
その、あまりにも人間的な葛藤。
それを、世界の全ての人間が、固唾を飲んで見守っていた。
そして、彼は決めた。
彼は、その震える指で、入札端末に、最後の数字を打ち込んだ。
それは、彼の人生の、全てだった。
【入札者:Anonymous_Legacy_EU】
【入札額:20兆円】
その、あまりにも気高く、そしてどこまでも愛に満ちた、最後の一撃。
それに、アメリカの大富豪は、ついに沈黙した。
勝負は、決した。
EUの大富豪の、勝利。
オークションハウスのライブ映像が、その安堵の表情を映し出す。
彼は、その場で崩れ落ちるように、椅子に深く身を沈め、そしてその手で顔を覆った。
その肩は、小さく震えていた。
泣いているのか。
あるいは、笑っているのか。
それは、誰にも分からなかった。
その、あまりにも感動的な、そしてどこまでも人間的な結末。
それに、JOKERは、思わず呟いていた。
その声には、心からの、祝福の響きがあった。
「――奥さんに、会えると良いな」
その、あまりにも優しい一言。
それに、コメント欄もまた、同意の言葉で埋め尽くされた。
『ああ、本当にそうだな…』
『最高のショーだったぜ…』
『泣いた。マジで、泣いた』
その温かい空気の中で。
JOKERは、静かに、そして満足げに、頷いた。
「さて、と。オークションは、終了したな」
彼は、そう言うと、配信の終了ボタンへと、その指を伸ばした。
彼の、ギャンブルの夜は、終わった。
そして、彼は勝ったのだ。
この世界の、誰よりも鮮やかに、そして美しく。
彼の本当の「物語」が始まるのは、彼がこの神々のテーブルで得た、あまりにも大きな「気づき」を、自らの人生へと、どう活かしていくのか。
その、もう少しだけ先の話。