第266話
西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を淡く照らしていた。
神崎隼人――“JOKER”は、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された神々のギャンブルの、その第二幕の始まりを静かに見つめていた。
彼の新たな相棒、【静寂の王】と名付けられた漆黒のハイスペックPC。その巨大な4Kモニターには、ギルド公式オークションハウスのライブストストリーミング映像が、滑らかに映し出されている。
先ほどの【アニマとアニムスの円環】を巡る4兆5000億円の狂騒。その興奮の余韻が、まだ彼の配信チャンネルのコメント欄には、熱病のように渦巻いていた。
『4兆5000億…。まだ、信じられん…』
『JOKERさんの言う通り、欲望の大きさだけで値が決まるテーブルだったな…』
『さて、次は何が来るんだ…?もう、心臓が持たねえよ…』
その熱狂の中心で、JOKERはただ静かに、新しいタバコに火をつけた。
彼の表情は、いつもと変わらないポーカーフェイス。
だが、その瞳の奥には、最高のテーブルの次なるディールを待つ、ギャンブラーだけが宿すことのできる、静かな、しかし獰猛な光が宿っていた。
オークションハウスの画面では、荘厳なファンファーレと共に、次の出品アイテムが、立体的なホログラムとしてラウンジの中央に映し出された。
それは、一本の、あまりにも素朴な白樺の木の枝のような絵筆だった。
何の飾りもない。何の魔力も感じられない。
だが、そのあまりにもシンプルな佇まいこそが、逆に、その奥に眠る計り知れない可能性を、雄弁に物語っていた。
「…さて、と」
JOKERの声のトーンが、変わった。
それは、もはやただの観戦者ではない。
この世界の誰よりも、このゲームのルールと、その奥にある人間の欲望を知り尽くした、プロのディーラーのそれだった。
「第二ラウンドの、始まりだ」
「次のカードは、【幻創の絵筆】。効果は、お前らも知っての通り、術者が思い描いたイメージを、実体を持たない幻として、この世界に描き出す。戦闘能力は、ゼロ。だが、その価値は、あるいは先ほどの指輪をも上回るかもしれねえな」
彼のその、あまりにも意味深な一言。
それに、コメント欄がざわめいた。
『え!?1兆円以上ってこと!?』
『ただの幻を描くだけだろ?なんで、そんなに価値があるんだ?』
その素朴な疑問に、JOKERは不敵に笑った。
「お前ら、分かってねえな。この筆が描くのは、ただの幻じゃねえ。『夢』そのものだ。そして、人間ってのはな、腹が満たされ、安全が保証されたその先に、必ず夢を求める生き物なんだよ」
「このオークションは、ただの金の殴り合いじゃねえ。二つの、巨大な『夢』の、代理戦争だ」
彼のその言葉を裏付けるかのように。
オークションの火蓋は、切って落とされた。
オークショニアを務める老紳士が、その甲高い、しかし威厳のある声で宣言した。
「――これより、【幻創の絵筆】のオークションを開始いたします!」
「開始価格は、1兆円より!」
その、もはや麻痺してしまった感覚で聞いてもなお、異常なまでの開始価格。
だが、その数字が表示された、そのコンマ数秒後。
モニターの入札額が、凄まじい勢いで跳ね上がり始めたのだ。
それは、もはや入札ではない。
ただの、数字の洪水だった。
【入札者:American Modern Arts Collective】
【入札額:1兆1000億円】
【入札者:Collegium Artium Romanum】
【入札額:1兆2000億円】
「…ほう」
JOKERの口元が、わずかに吊り上がった。
「いきなり来たな。アメリカ現代芸術家グループと、ローマ芸術クラブか」
彼の、そのあまりにも的確な解説。
それに、コメント欄がどよめいた。
『うおおおおお!いきなり、トッププレイヤーの登場か!』
『芸術家グループ!?なんだ、そりゃ!』
『ギルドじゃなくて、そういう連中が買うのか、これは!』
「当たり前だろ」
JOKERは、その声に答えた。
「この筆の本当の価値を理解しているのは、戦士でも、魔術師でもない。常に、新しい表現を渇望している、芸術家どもだ。そして、この二つのグループは、その頂点に立つ、二大巨頭よ」
彼の指が、モニターの入札者リストをなぞる。
「面白いじゃねえか。アメリカの現代芸術か、ローマの古典芸術か。どちらの『夢』が、この現実を侵食する権利を手に入れるのか。その勝負ってわけだ」
その、あまりにも壮大で、そしてどこまでも本質を突いた、戦いの構図。
それに、コメント欄が熱狂した。
だが、その熱狂の中で。
多くの視聴者は、その二つの芸術グループの、本当の意味を理解できずにいた。
『えっと…?現代芸術と、古典芸術って、そんなに違うもんなの?』
『どっちも、絵は絵だろ?』
その、あまりにも素朴な疑問。
それに、JOKERはふっと息を吐き出した。
そして彼は、ARカメラの向こうの、数十万人の無知な観客たちに、問いかけた。
その声は、最高のショーを、さらに面白くするための、道化師のそれだった。
「…俺も、分からん。芸術なんざ、クソの役にも立たねえと思ってたからな」
「だが、このテーブルには、その道のプロがいるはずだ」
「おい、そこのお前ら。詳しいやつ、解説を頼む」
彼の、そのあまりにも無茶苦茶な、しかしどこまでも魅力的な、丸投げ。
それに、コメント欄が爆発した。
そして、その熱狂の中から、一人の救世主が、名乗りを上げた。
そのハンドルネームは、彼の全てを物語っていた。
芸術家有志:
…呼ばれた気がした。
いいだろう。この愚かで、しかしどこまでも純粋な大衆に、そして何よりもあの無知で不遜な道化師に、芸術のなんたるかを少しだけ教えてやろう。
その、あまりにも気取った、しかし確かな知識と情熱を感じさせる書き出し。
それに、スレッドの全ての視線が集中した。
芸術家有志:
まず、理解しろ。
この二つのグループは、ただの芸術家の集まりではない。
二つの、全く異なる「思想」の、化身だ。
アメリカ現代芸術家グループ。彼らが信奉するのは、抽象表現主義、ミニマリズム、ポップアート。ジャクソン・ポロックの、ほとばしる情念。アンディ・ウォーホルの、冷徹な複製。彼らにとって、芸術とは、鑑賞者の理性に直接問いかける、知的な「概念」そのものだ。
もし、彼らがこの絵筆を手にすれば、どうなるか。
彼らは、東京の空に、モンドリアンの格子模様を描くだろう。渋谷のスクランブル交差点の真ん中に、巨大な、意味の分からない黒い立方体を、出現させるだろう。
それは、美しいか?否。
心地よいか?否。
だが、それは我々に問いかける。『これこそが、お前たちが生きる、この無機質で、空虚な世界の、真の姿ではないのか?』と。
彼らの芸術は、癒やしではない。挑戦だ。
その、あまりにも難解で、そしてどこまでも挑発的な解説。
それに、コメント欄の多くが、困惑の声を上げた。
『…えっと…』『つまり、どういうこと?』
その、あまりにも素直な反応。
それに、芸術家有志は、深くため息をついた。
そして彼は、もう一方の解説を始めた。
芸術家有志:
…まあ、いい。
次に、ローマ芸術クラブ。
彼らが信奉するのは、我々人類が数千年かけて築き上げてきた、美の王道。ルネサンス、バロック。ミケランジェロの、神々しい肉体。カラヴァッジョの、劇的な光と影。
彼らにとって、芸術とは、人の魂を直接揺さぶる、普遍的な「感動」そのものだ。
もし、彼らがこの絵筆を手にすれば、どうなるか。
彼らは、新宿の都庁の壁に、システィーナ礼拝堂の『最後の審判』を、原寸大で再現するだろう。皇居の上空に、ダ・ヴィンチの描いた飛空挺を、本当に飛ばせてみせるだろう。
それは、我々に問いかけない。
ただ、その圧倒的な美しさで、我々の心を奪い去るだけだ。
彼らの芸術は、挑戦ではない。救済だ。
その、あまりにも鮮やかで、そしてどこまでも対照的な二つの「夢」の形。
それに、コメント欄は、ようやくこの戦いの本当の意味を理解した。
これは、ただのオークションではない。
世界の「美」の、未来を決める、代理戦争なのだと。
そして、その白熱した議論の中で。
一人の、あまりにも正直なユーザーが、その魂の叫びを投下した。
『…詳しい解説、ありがとう。
でもさ、どっちが現実に投影してほしいかと言われると、若干ローマの芸術かなぁ。だって、アメリカの現代芸術って、つまらないし』
その、あまりにも身も蓋もない、しかしどこまでも本質を突いた一言。
それに、それまで真剣な顔で解説を聞いていたJOKERが、ついに耐えきれずに、噴き出した。
「ぶはっ…!はははははははははははははははっ!」
マイクが拾っているのも忘れて、彼は腹を抱えて笑った。
つまらない、ね。彼は、そう思いながら笑う。言ってくれる。
そのあまりにも人間的な、そしてどこまでも無邪気な反応。
それに、コメント欄もまた、この日一番の温かい笑いに包まれた。
「…はー、笑った」
彼は、涙を拭いながら言った。
「ははは、つまらないか。芸術、分からねえから、あんまり理解できねえが、芸術にもつまらないって概念があるのか。今まで、興味なかったけど、興味出てきたな」
彼の、そのあまりにも素直な一言。
それが、この狂乱のオークションの、本当の結末を、決定づけたのかもしれない。
◇
戦いは、熾烈を極めた。
3兆円、3兆5000億円…。
二つの芸術の化身は、一歩も引かなかった。
だが、その均衡が破られたのは、残り時間1分を切った、その時だった。
ローマ芸術クラブが、その最後の、そして全てを賭けた一撃を放った。
【入札者:Collegium Artium Romanum】
【入札額:4兆円】
その、あまりにも美しく、そしてどこまでも力強い数字。
それに、アメリカ現代芸術グループは、ついに沈黙した。
そして、運命のカウントダウンが、ゼロになる。
【【幻創の絵筆】は、Collegium Artium Romanum様によって、4兆円で落札されました】
その絶対的な結果。
それに、JOKERは、満足げに頷いた。
そして彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、告げた。
その声は、どこまでも楽しそうだった。
「おっ、希望通り、ローマの芸術が現実に投影されることが、確定したな」
「さて、と」
彼の瞳が、再びあのギャンブラーの輝きを取り戻す。
「次はお楽しみの、【時の残響を聴く懐中時計】だぜ?」
「さて、誰がこの過去探索ツールを落札するか、楽しみだぜ」
彼の、ギャンブルの夜は、まだ終わらない。
その瞳には、次なるテーブルへの、尽きることのない好奇心が、燃え盛っていた。