第265話
西新宿の空を貫くかのようなタワーマンションの最上階。
その広大なリビングの、床から天井まで続く巨大な窓からは、宝石箱をひっくり返したかのような東京の夜景が一望できた。
神崎隼人――“JOKER”は、その光の海に背を向け、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアにその身を深く沈めていた。
彼の新たな相棒、【静寂の王】と名付けられた漆黒のハイスペックPC。その巨大な4Kモニターに映し出されているのは、ダンジョンの殺伐とした風景ではない。
ギルドが運営する、公式オークションハウスの、ライブストリーミング映像だった。
黄金の荘厳な紋章が輝く、バーチャルな演台。その中央に、厳重なマナ・シールドに守られたガラスケースが鎮座し、その中には、白金と黒金が完璧な二重螺旋を描く一つの指輪が、静かにその時を待っていた。
彼の配信チャンネルには、すでに十数万人という、異常な数の観客たちが殺到していた。彼らは皆、この歴史的なギャンブルの目撃者となるために集まってきたのだ。
配信タイトルは、シンプルに、そしてどこまでも挑戦的だった。
『【神々の遊び】兆単位のチップが飛び交う夜【JOKERと高みの見物】』
コメント欄は、もはや制御不能。期待と、興奮と、そしてどこか下世話な好奇心が入り混じった、熱狂の坩堝と化していた。
『きたあああああああ!世紀のオークション!』
『歴史的瞬間を見に来たぜ!』
『一体、いくらまで行くんだよこれ…』
『JOKERさん、今日はダンジョンじゃないのか!最高の企画だ!』
その熱狂の渦の中心で、JOKERはただ静かに、タバコの紫煙をくゆらせていた。
彼の表情は、いつもと変わらないポーカーフェイス。
だが、その瞳の奥には、最高のテーブルを前にしたギャンブラーだけが宿すことのできる、静かな、しかし獰猛な光が宿っていた。
「よう、お前ら。見ての通り、今日は観戦モードだ」
彼は、ARカメラの向こうの十数万人の観客たちに、気だるそうに語りかけた。
「俺たちのギルドが、先日解禁した三つの神話級アーティファクト。そのうちの一つが、今夜、このテーブルに賭けられる。世界の富豪たちの、醜い欲望のショーを、お前らと一緒に高みの見物を決め込もうじゃねえか」
そのあまりにも不遜な物言い。
それに、コメント欄がいつものように温かいツッコミと笑いに包まれる。
『言い方www』
『高みの見物決め込んでる場合かよ!あんたも、そのテーブルの参加者の一人だろうが!』
『JOKERさん、最近金持ちになったからって調子に乗ってんなw』
「はっ、うるせえよ」
彼はそう悪態をつきながらも、その口元は確かに笑っていた。
オークションの画面では、荘厳なファンファーレと共に、最初のアイテムの詳細な情報が、改めて表示されていた。
【出品アイテム:アニマとアニムスの円環】
【オークション時間:1時間】
【開始価格:1兆円】
「さて、と」
JOKERの声のトーンが、変わった。
それは、もはやただの配信者ではない。
この世界の誰よりも、このゲームのルールを知り尽くした、プロのディーラーのそれだった。
「最初のカードが、配られたな。【アニマとアニムスの円環】。効果は、お前らも知っての通り、自在な性転換だ。正直、戦闘能力には一切関係ねえ。だがな、だからこそ、このオークションは面白いことになる」
「なぜなら、このテーブルで問われるのは、純粋な『欲望』の大きさだけだからだ。見栄も、戦略も、ギルドの未来も関係ねえ。ただ、欲しいか、欲しくないか。その一点だけで、兆単位の金が動く。最高のショーだろ?」
彼のその、あまりにも本質を突いた解説。
それに、コメント欄の有識者たちが、深く頷いた。
そして、運命のカウントダウンが、ゼロになる。
オークションの、火蓋が、切って落とされた。
開始のゴングが鳴り響いた、そのコンマ数秒後。
画面の入札額が、いきなりその数字を、変えた。
【入札者:Anonymous_Tycoon_EU】
【入札額:1兆5000億円】
「…ほう」
JOKERの口元が、わずかに吊り上がった。
「いきなり、5000億のレイズか。威嚇射撃としては、上等だな。ヨーロッパの、無名の富豪か。面白い」
だが、その威嚇は、全く意味をなさなかった。
その入札から、わずか数秒後。
画面が、再び更新される。
【入札者:Royal_Family_MidEast】
【入札額:2兆円】
「出たな。中東の王族だ。こいつらは、金の使い方が派手だからな。テーブルを、荒らしに来やがった」
JOKERの解説通り、そこから戦いは一気に加速していく。
2兆1000億。
2兆2000億。
2兆3000億。
1000億単位のチップが、まるで冗談のように飛び交っていく。
オークション開始から、わずか15分。
価格は、あっさりと3兆円の大台を突破した。
そして、その勢いは、そこでぴたりと止んだ。
まるで、嵐の前の、静けさ。
「…なるほどな」
JOKERは、その沈黙の意味を、正確に読み解いていた。
「3兆。それが、最初のふるいだ。ここから先は、本気でこの指輪が欲しいと思ってる、本物の『プレイヤー』だけのテーブルになる。面白い。実に、面白いじゃねえか」
彼のその言葉を裏付けるかのように。
残り時間1分を切った、その時だった。
それまで沈黙を保っていた入札履歴に、新たな動きがあった。
【入札者:Anonymous_Tycoon_EU】
【入札額:3兆5000億円】
「動いたな」
JOKERの瞳が、鋭く光る。
「**終了間際に、勝負を仕掛けてきたな。**あの中東の王族が降りるのを、待っていたのか。あるいは、これが奴の最後の弾丸か…」
だが、その甘い観測を、中東の王族は、一瞬で叩き潰した。
【入札者:Royal_Family_MidEast】
【入札額:4兆円】
一気に、5000億の上乗せ。
絶対的な、王者の風格。
その、あまりにも暴力的なジャブの応酬。
それに、コメント欄が絶叫した。
『うわあああああ!まだ、行くのかよ!』
『4兆円!?もう、国家予算じゃん!』
だが、本当の地獄は、ここからだった。
残り時間、30秒。
ヨーロッパの富豪が、執念を見せる。
彼は、これまでの5000億単位のレイズではない。
もっと、陰湿で、そして相手の心を折るための、一撃を放った。
【入札者:Anonymous_Tycoon_EU】
【入札額:4兆1000億円】
「…ほう」
JOKERが、感心したように言った。
「**刻んできたか。**面白い。これは、心理戦だ。『俺にはまだ、余裕があるぞ』という、無言のメッセージだ。だが、その手が、王族相手に通用するかどうか…」
その答えは、すぐに出た。
【入札者:Royal_Family_MidEast】
【入札額:4兆2000億円】
全く、動じない。
相手の土俵には、乗らない。
ただ、自らのペースで、チップを積み上げていくだけ。
その、あまりにも揺るぎない王者の風格。
それに、ついにヨーロッパの富豪の心が、折れた。
残り時間、10秒。
入札履歴は、もう動かない。
9、8、7、6、5、4、3、2、1…。
『――オークション終了』
モニターに、最終落札価格が表示された。
その数字は、4兆2000億円でもなく、4兆3000億円でもなかった。
【最終落札価格: 4兆5000億円】
【落札者: Royal_Family_MidEast】
最後の、最後。
残り1秒を切った、その刹那。
中東の王族は、ダメ押しとばかりに、さらに3000億円を上乗せしていたのだ。
勝者の、余裕。
そして、敗者への、無慈悲なまでの宣告。
その、あまりにも美しく、そしてどこまでも残酷な幕切れ。
それに、コメント欄は、もはや言葉を失っていた。
「…ふぅ」
JOKERは、深く、そして重いため息をついた。
「**第一ラウンド終了か。**見事な、勝ちっぷりだったな」
彼は、そう言ってタバコの煙を吐き出した。
その、祭りの後の、静寂。
その中で、コメント欄が、少しずつその機能を取り戻し始めていた。
『…終わったな』
『ああ、終わった。とんでもねえ、戦いだった』
『4兆5000億…。もう、俺たちの金銭感覚じゃ、理解できねえ…』
『しかし、なんでそこまでして、あの指輪が欲しかったんだろうな。異性に成りたい金持ちかな?』
その、あまりにも素朴な疑問。
それに、JOKERは、ふっと息を吐き出すと、答えた。
その声は、どこまでも穏やかだった。
「そうだなー。まあ、俺は異性に成りたいと思ったことないから、分からんが。多様性の時代だからなぁ」
その、あまりにもJOKERらしい、どこか他人事のような感想。
それに、コメント欄の視聴者たちもまた、それぞれの意見を述べ始めた。
『まあ、普通はそうだよね。でも、それを望む人は、意外と多いって聞くよ。自分の魂と、体の性が一致してないっていう、苦しみを抱えてる人も、この世界にはたくさんいるから』
『なるほどな…。そういう人たちにとっては、1兆や2兆なんて、安いもんなのかもしれねえな…』
『あるいは、もっと単純な理由かもよ?**一度なら、試しに…って思う人、いそうだね。**金持ちの、究極の道楽としてさ』
その、あまりにも多様な、そしてどこまでも人間的な欲望の形。
それに、JOKERは、ただ静かに頷いた。
「なるほどね。まあ、人それぞれだからな」
彼は、そう結論付けた。
そして彼は、その思考を切り替えるように、モニターに新たに表示された次の出品アイテムへと、その視線を向けた。
「さて、次のオークションだ」
「【幻創の絵筆】は、誰が落札するかな?」
彼の、ギャンブルの夜は、まだ始まったばかりだった。
その瞳には、次なるテーブルへの、尽きることのない好奇心が、燃え盛っていた。