第264話
東京、横田空域に隣接する、日米合同ダンジョン管理委員会の極秘カンファレンスルーム。
この「日米ダンジョン定例委員会」は、表向きは両国のダンジョンに関する情報交換と、協力体制の確認を目的としている。
だが、その水面下では、この「ダンジョン」というあまりにも巨大なパイを巡る、熾烈な国家間のマウントの取り合いが、常に繰り広げられていた。
今日の議題は、一つ。
数日前に国際公式ギルドが全世界に向けて同時公開した、三つの未知なる神話級アーティファクト。
その「処遇」についてだった。
重い沈黙を破ったのは、日本側の坂本大臣だった。
彼の声は穏やかだったが、その奥には、揺るぎない覚悟が滲んでいた。
「――では、始めよう」
彼は、手元のARパネルを操作した。
円卓の中央に浮かぶ地球儀が、一つの美しい指輪のホログラムへとその姿を変える。
白金と黒金が、完璧な二重螺旋を描く、あの指輪。
「予定通り公開された【アニマとアニムスの円環】と【幻創の絵筆】と【時の残響を聴く懐中時計】の処遇に対する担当者レベル会議を開始します。では、意見をどうぞ」
坂本のその、あまりにも事務的で、しかしどこまでも重い開会宣言。
それに、アームストロング長官が、その美しい顔にビジネスライクな笑みを浮かべて応えた。
その声は、まるでシルクのように滑らかだった。
「ええ、では発言させていただきますわ、坂本大臣」
「まず、この【アニマとアニムスの円環】についてですが。我が国としての見解は、極めてシンプルです」
彼女は、その指輪のホログラムを、まるで愛おしい芸術品でも見るかのように、うっとりと見つめた。
「素晴らしい。実に、素晴らしいアーティファクトですわね」
彼女は、感嘆のため息を漏らした。
「個人の『在り方』そのものに、絶対的な自由を与える。これこそ、我々が建国以来、掲げ続けてきた理想の、一つの完成形と言えるでしょう」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、その青い瞳で坂本を真っ直ぐに見つめた。
「したがって、我が国の結論は一つ。このアーティファクトの市場流通は、完全に自由とすべきです。いかなる組織も、国家も、個人の自己実現の権利を、制限することは許されない。ギルドが下した脅威レベルEという評価も、極めて妥当なものと判断します」
その、あまりにもアメリカ的で、そしてどこまでも力強い意見。
それに、坂本は静かに頷いた。
「…同感です、アームストロング長官」
彼の声には、安堵の色が滲んでいた。
「我が国としても、このアーティファクトが持つ文化的、思想的な価値を、高く評価しています。戦闘能力に一切寄与しないこの力を、我々が管理下に置く理由はない。市場の自由な取引に、委ねるべきでしょう」
最初の議題は、驚くほどあっさりと合意に至った。
二つの大国は、この神話級のアーティファクトを、「完全に安全な嗜好品」として扱うことで、完全に意見が一致したのだ。
だが、それはこれから始まる本当の戦いの前の、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
「では、次に参りましょう」
坂本は、モニターを切り替える。
次に表示されたのは、一本の素朴な白樺の木の枝のような絵筆だった。
【幻創の絵筆】。
「これについても、我が国の見解は、先ほどの円環と、ほぼ同じです」
坂本は、続けた。
「究極の芸術創造ツール。戦闘への応用は、不可能。その用途は、完全に平和的なものに限られる。ギルドの評価も、脅威レベルE。これもまた、自由な市場流通を認めるべきだと、我々は考えます」
「ええ、もちろん」
アームストロングもまた、即座に同意した。
だが、彼女の瞳には、先ほどとは違う、冷徹な資本家の光が宿っていた。
「**これは芸術に大きな影響がある一品ですよ。はい。**その文化的価値もさることながら、私はその経済的なポテンシャルに、注目しています」
「この絵筆一つから生まれる、新たなエンターテイメント市場。その規模は、おそらく数兆ドルでは済まないでしょう。この金のなる木を、規制するなど、あまりにも愚かな選択です。むしろ、ギルドは積極的にその活用法を研究し、新たな産業を創出するための支援をすべきだとすら、考えていますわ」
その、あまりにも前向きで、そしてどこまでも貪欲な提案。
それに、坂本の隣に座っていた文部科学省の官僚が、わずかに眉をひそめた。
だが、坂本はそれを手で制すると、静かに頷いた。
「…長官の、おっしゃる通りです。その点については、今後のギルドの課題として、我々も検討していく必要があるでしょう」
二つ目の議題もまた、驚くほどスムーズに合意に至った。
だが、その合意の裏側で。
二つの国の、根本的な思想の違いが、わずかに、しかし確かにその姿を現し始めていた。
日本は、その文化的な価値を重んじ、慎重な管理を望む。
アメリカは、その経済的な価値を最大化し、自由な競争を望む。
その、わずかな亀裂。
それが、次の議題で、決定的な断絶へと変わることになる。
「――では、最後です」
坂本の声が、わずかに重くなった。
モニターに、最後に映し出されたのは、一つの美しい、しかしどこか物悲しい銀細工の懐中時計だった。
【時の残響を聴く懐中時計】。
「…これは、大変興味深い品ですね」
アームストロングが、初めてそのポーカーフェイスを崩し、純粋な好奇の色をその瞳に浮かべた。
「過去映像を幻影として体験出来るなどと…。」
「ええ」
坂本は、頷いた。
「そして、長官。あなたもご存知でしょう。我々探索者の間で、まことしやかに囁かれている、あの噂を」
「巷では公然と、公式ギルドが若返りの薬や女神の涙なんてS級ダンジョンではハズレなどと言われていましたが、まんざら嘘ではなかったみたいですね」
「S級、SSS級という神々の領域。そこでは、戦闘用のユニーク装備など、もはや何の価値も持たない。彼らが本当に求めているのは、こういう、世界の理そのものに触れるような、哲学的なアーティファクトなのだと…」
その、世界の裏側の真実。
それに、アームストロングもまた、深く、そして静かに頷いた。
「ええ。まさに、夢のようなアーティファクトです」
「ですが」と、坂本は続けた。
彼の表情が、これまでにないほど険しいものへと変わる。
「この夢の道具は、同時に、世界を悪夢へと突き落としかねない、あまりにも危険な『刃』でもある」
彼は、その懐中時計が持つ、本当の恐ろしさについて語り始めた。
「このアーティファクトは、過去を『知る』力をもたらす。それは、時にどんな核兵器よりも、強力な武器となりうる。失われた古代文明の超兵器の設計図。伝説級アーティファクトの隠し場所。あるいは、敵対国家の、決して表に出ることのなかった、不都合な真実。その情報一つで、世界のパワーバランスは、完全に崩壊する」
その、あまりにも重い、指摘。
それに、アームストロングの表情もまた、ビジネスウーマンのそれへと戻っていた。
「…それで、大臣。あなた方の、提案は?」
その問いかけを、待っていましたとばかりに。
坂本は、その真の「切り札」を提示した。
「我が国としては、このアーティファクトの個人所有は認める。だが、その『使用』に関しては、ギルドによる厳格な管理下に置くべきだと考える」
「具体的には、この懐中時計の使用を希望する者は、事前にギルドへその目的と場所を申請し、許可を得る。そして、その使用によって得られた全ての情報は、ギルドの最高幹部会へと報告することを、義務付ける。これこそが、この危険な力の暴走を防ぐ、唯一の道だと、我々は信じている」
その、あまりにも中央集権的で、そしてどこまでも管理主義的な提案。
それに、アームストロングは、その美しい顔に、氷のような笑みを浮かべた。
その瞳には、明確な「拒絶」の色が宿っていた。
「――面白い冗談ですわね、坂本大臣」
彼女は、そう言って冷たく笑った。
「あなたのその提案は、あまりにも社会主義的で、そしてどこまでも我々の理念に反する」
「『真実』を、ギルドというたった一つの組織が独占し、管理する?それは、あまりにも危険な思想です。それは、自由な探求の精神を殺し、世界の停滞を招くだけでしょう」
「それに」と彼女は続けた。
その声は、もはや外交官のそれではない。
ただ、自国の利益を追求する、冷徹な戦略家のそれだった。
「このアーティファクトを手に入れた探索者が、もしアメリカ国民であったなら。その彼、あるいは彼女が得た情報は、当然、我が国の国益のために使われるべきだ。それを、なぜ国際的な組織であるギルドに、明け渡さなければならないのですか?」
その、あまりにも剥き出しの、国家エゴイズム。
それに、坂本の表情もまた、険しいものへと変わる。
「…長官。それは、あまりにも危険な賭けだ。もし、その情報が世界を戦争へと導くものであったとしても、貴国はそれを独占すると?」
「ええ、もちろん」
アームストロングは、即答した。
「我々は、自由を信じている。そして、その自由には、責任が伴うことも理解している。我々は、その情報を正しく使うことができると、自負していますわ」
二人の視線が、火花を散らす。
会議室の空気は、もはや「平和」ではなかった。
静かな、しかし絶対的な、イデオロギーの戦争。
その、息が詰まるような沈黙。
その言葉の、本当の重み。
それに、会議室の誰もが、改めて戦慄していた。
坂本は、深く、そして重いため息をついた。
そして彼は、最後の、そして唯一の妥協案を提示した。
「…分かりました、長官。あなたの国の、その『自由』への渇望。それを、我々も尊重しましょう」
「では、こうするのはどうですかな」
「このアーティファントの使用に関する、ギルドへの報告義務は、撤回する。だが、その代わりに。ギルドは、このアーティファクトがもたらす『情報』によって、世界の秩序に重大な危機が生じたと判断した場合にのみ、介入する権利を持つ。そのための、新たな監視部門を設立する。…これならば、いかがですかな?」
その、あまりにもクレバーな、そしてどこまでも現実的な落とし所。
それに、アームストロングは数秒間、沈黙した。
そして彼女は、その美しい顔に、最高のビジネスウーマンの笑みを浮かべた。
「…面白い」
彼女は、言った。
「実に面白い提案だ、坂本大臣。その話、詳しく聞かせてもらおうか」
その言葉。
それが、この歴史的な会議の、全てを決定づけた。
二つの大国は、その日、世界の未来を賭けた、新たなゲームのルールを、共に作り上げたのだ。
その、あまりにも静かで、そしてどこまでも熾烈な戦いの終わりを。
窓の外の、東京の空だけが、静かに見下ろしていた。