第262話
カチャリと。
静かな電子音と共に、玄関のスマートロックが解除される音がした。
その音に、隼人の肩がわずかにピクリと動く。
そして、パタパタという軽い足音と共に、一つの明るい声がリビングに響き渡った。
「――ただいまー!」
そのあまりにも待ち望んでいた声。
それに、隼人の常にポーカーフェイスを保っていたはずの口元が、わずかに、しかし確かに緩んだ。
彼はソファからゆっくりと立ち上がると、その声の主を出迎えた。
「――おかえり」
彼のその不器用な、しかしどこまでも優しい声。
それに、玄関に立っていた少女…神崎美咲は、満面の太陽のような笑顔で応えた。
「うん、ただいま、お兄ちゃん!」
彼女は、冒険者高等学校の真新しい制服に身を包み、その背中には、まだ教科書やノートで膨らんだ小さなリュックサックを背負っている。
その姿は、どこにでもいるごく普通の、元気な女子高生だった。
だが、その瞳の奥に宿る光だけが、彼女がもはや「普通」ではないことを雄弁に物語っていた。
一年以上に及んだ闘病生活。その影は、もはやどこにもない。
そこにあるのは、新たな世界への期待と、そして自らの手で未来を切り拓いていくという、揺るぎない決意の輝きだけだった。
「どうだった、今日は?」
隼人は、キッチンでコーヒーを淹れながら尋ねた。
その声は、できるだけ平静を装っていたが、その奥には兄としての隠しきれない心配の色が滲んでいた。
新しい環境。
新しい人間関係。
彼女が、うまくやっていけるだろうか。
そんな親のような心配を、彼はしていた。
だが、その心配は杞憂に終わる。
「うん!すっごく楽しかったよ!」
美咲は、リュックをソファの上に放り投げると、弾むような声でその一日を語り始めた。
その声は、彼女がこの新しい世界を心の底から楽しんでいることを、何よりも雄弁に物語っていた。
「今日はクラフトの講義だったけど、お兄ちゃんのユニークスキルがどれだけインチキか思い知ったよ!」
「は?」
隼人は、そのあまりにも唐突な一言に、思わずコーヒーを淹れる手を止めた。
「なんだ、そりゃ」
「だって、そうじゃない!」
美咲は、頬をぷくりと膨らませながら続けた。その姿は、昔と何も変わらない、兄に甘える妹のそれだった。
「今日の講師の先生、金定さんっていう有名なクラフト職人さんだったんだけどね。その人が、クラフトの基本を教えてくれたの!」
彼女は、身振り手振りを交えながら、その日の講義の内容を熱っぽく語り始めた。
「アイテムにはプレフィックスとサフィックスがあって、レア等級には最大で6つもMODが付くんだって!それでね、ノーマルのアイテムをマジックに変える【変質のオーブ】とか、レアに一気に変えちゃう【錬金術のオーブ】とか、色々見せてもらったんだけど…」
彼女はそこで一度言葉を切ると、いたずらっぽく笑った。
「その金定先生が言うにはね、『クラフトは沼だ』って。良いMODが付く確率は、天文学的に低いんだってさ。だから、普通の人は何百、何千っていうオーブを溶かして、ようやく一つの装備が完成するかどうかなんだって」
「でもね、先生最後にこう言ってたの」
彼女の声のトーンが変わる。
それは、純粋な尊敬と、そして畏敬の念に満ちていた。
「『だが、この世界には常に例外が存在する。神々に愛された、あるいは悪魔に魂を売った、特別な才能を持つ者たちが。彼らは、クラフトが良い結果が付くというユニークスキルを持っていて、我々凡人が一生かかってもお目にかかれないような奇跡の産物を、いともたやすく生み出していく』って…」
彼女は、そこで一度大きく息を吸い込むと、その大きな瞳で兄を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、絶対的な確信の光が宿っていた。
「――それって、絶対お兄ちゃんのことだよね!?」
そのあまりにもストレートな、そしてどこまでも純粋な問いかけ。
それに隼人は、思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
「ははは、そうか?」
彼は、なんとかそう言って笑ってみせた。
だが、その笑顔の裏側で。
彼の脳内では、常識を超えた速度で思考の歯車が回転を始めていた。
(…なるほどな。俺の【運命の天秤】は、世間ではそういう風に認識されてるのか)
(確かに、結果だけを見ればそうだろうな。だが、あれはただの幸運じゃねえ。俺の全てを賭けた、ギャンブルの結果だ)
彼は、自らの力の源泉を再認識しながら、目の前の愛する妹に、最高のカウンターを叩き込んだ。
「俺からしたら、美咲の方がインチキだと思うけどな」
その、あまりにも予想外の切り返し。
それに、今度は美咲の方がきょとんとした顔をした。
「え?」
「考えてもみろよ」
隼人は、コーヒーカップをテーブルに置き、彼女へと向き直った。
その瞳には、A級のトップランカーとしての、そしてこの世界の理を知り尽くしたゲーマーとしての、鋭い光が宿っていた。
「俺のクラフトは、ギャンブルだ。成功することもあれば、失敗することもある。1%の確率を、10%に引き上げることはできても、決して100%にはできねえ。そこには、常にリスクがある」
「だが、お前の【雷神】は、どうだ?」
彼は、続けた。
「全ての雷属性のダメージロールが、常に最大値になる。分かるか?その意味が。お前の攻撃には、『下振れ』という概念が存在しねえんだよ。それは、もはやギャンブルじゃねえ。世界のルールそのものを、お前の都合のいいように書き換えてるだけだ。それこそが、本当の『インチキ』ってもんだろ」
そのあまりにも的確で、そしてどこまでも本質を突いた分析。
それに美咲は、ぐうの音も出なかった。
そして彼女は、数秒後。
ぷっと、吹き出した。
「…ふふっ」
「…あははははっ!」
彼女の、鈴を転がすような笑い声が、広すぎるリビングに響き渡る。
それにつられるように、隼人もまた、心の底から楽しそうに笑った。
笑いあう、二人。
そのあまりにも穏やかで、そしてどこまでも幸せな時間。
それが、彼が本当に守りたかったものなのだと、彼は改めて実感していた。
やがて、笑い声が収まる頃。
隼人は、話題を変えた。
「それで、ダンジョンは?」
「うん!」
美咲は、待っていましたとばかりに、その瞳をキラキラと輝かせた。
「アメ横で、アメジストのフラスコを買って、E級ダンジョン【毒蛇の巣窟】に行ったよ!」
「ほう、いきなりE級か。大丈夫だったのか?」
「へっちゃら!」
美咲は、自信満々に胸を張った。
「コボルトが、毒の矢をいっぱい撃ってきたんだけどね。静ちゃんのオーラがすごくて、全然痛くなかった!でも、私のスパークで一撃だったから、結局フラスコは使わなくてすんだんだ」
「それにね!」
彼女は、最高の笑顔で報告した。
「レベルも7に上がったんだよ!」
その、あまりにも順調すぎる、そしてどこまでも圧倒的な成長報告。
それに隼人は、呆れたように、しかしどこまでも誇らしげに、息を吐き出した。
「ほら、やっぱり美咲の方がインチキじゃないか」
彼は、その小さな頭を、不器用な手つきで、しかしどこまでも優しく撫でた。
「そのうち、俺より強くなるかもな」
その、兄からの最高の褒め言葉。
それに美咲は、これまで見せたことのないほど、その顔を真っ赤に染めた。
「えへへ…」
彼女は、照れくさそうに、そして心の底から嬉しそうに、はにかんだ。
そのあまりにも初々しい反応。
それに隼人の心も温かくなる。
そして彼は、兄として、そしてこの世界の先輩として、一つの重要なアドバイスを彼女に授けることにした。
彼の表情が、再びA級探索者のそれへと戻る。
「美咲。お前のスパークは、確かに強い。だがな、この先、B級、A級とステージが上がっていけば、それだけじゃ通用しなくなる時が必ず来る」
「え…?」
「敵の中にはな、特定の属性に対して、異常なまでの耐性を持ってる奴らがいるんだ。お前の雷も、そいつらの前では半減、いやそれ以下にされてしまうだろう」
「じゃあ、どうすれば…?」
「答えは、簡単だ」
隼人は、ニヤリと笑った。
「敵の耐性を、こっちから無理やりこじ開けてやればいい」
「じゃあ、次は【自動呪言】と、【伝導の呪い】を買うと良いぞ」
そのあまりにも的確で、そして彼女の未来を完璧に見据えたアドバイス。
「これで、敵の雷耐性を下げて、ダメージを入れやすくするんだ」
「…なるほど!」
美咲は、そのあまりにもクレバーな戦術に、目を輝かせた。
「分かった!じゃあ、明日アメ横で買うね!」
その、あまりにも素直な返事。
それに隼人は、満足げに頷いた。
そして彼は、最後に一言だけ付け加えた。
その声は、どこまでも優しかった。
「…まあ、金なら心配すんな。俺が、いくらでも出してやるから」
「ううん、大丈夫!」
美咲は、力強く首を横に振った。
「私、自分で稼ぐ!雷帝ファンドの100万もあるし、今日のダンジョンでも結構稼げたんだから!」
彼女はそう言って、誇らしげに自らのインベントリを開き、その日の戦果である数万円の魔石を、兄に見せつけた。
その、あまりにも健気で、そしてどこまでも真っ直ぐな姿。
それに隼人は、もう何も言うことはなかった。
ただ、その愛する妹の輝かしい未来を、心の中で祈るだけだった。