第27話
神崎隼人は、西新宿の夜景を背に、タバコの紫煙をくゆらせていた。
彼の目の前のARウィンドウには、16万5千円という、数日前までの彼では想像すらできなかった金額が表示されている。そしてその下には、彼の問いかけに応える数千の視聴者たちの熱狂的なコメントが、滝のように流れ続けていた。
『武器を新調しろ!』
『いや、防具が先だ!』
『クエストでパッシブポイントを稼ぐべき!』
無数の戦略。無数の正義。
誰もが、自分が最高の軍師であると信じ、JOKERという最強の駒をどう動かすべきか、熱弁を振るっている。
隼人は、そのカオスな、しかし不思議と心地よい熱狂の渦を、静かに眺めていた。
まるで、巨大なカジノの喧騒。
誰もが、次の出目を必死に予想している。
やがて、コメント欄の流れに、一つの新たな大きなうねりが生まれ始めた。
視聴者A: ていうか、もうF級ダンジョンは卒業でいいだろ。
視聴者B: 確かにな。今のJOKERさんなら、E級でも余裕っしょ!
視聴者C: E級に挑戦しながら雑談配信とかどうよ?新しい敵も見たいし!
その提案に、コメント欄が一気に沸き立った。
そうだ、もうゴブリンの顔は見飽きた。
もっと強い敵と戦うJOKERが見たい。
彼のあの神がかった立ち回りが、より格上のダンジョンでどこまで通用するのか、見てみたい。
その期待感が、コメント欄の総意となっていく。
視聴者D: いいね!E級挑戦配信!
視聴者E: JOKERさんの動きは、もうD級でも通用するレベルだろ。E級なんて、楽勝だって!
視聴者F: あの神回避とカウンターの精度は、異常だもんな。
だが、その楽観的なムードに待ったをかける、冷静な意見も現れ始めた。
それは、これまで何度も隼人を的確な知識で導いてきた、ベテラン探索者たちの声だった。
ハクスラ廃人: いや、待てお前ら。E級をなめるな。確かに、JOKERのプレイヤーとしての腕は本物だ。だが、それだけじゃ越えられない壁がある。
元ギルドマン@戦士一筋: その通りだ。E級からは、敵の数も硬さも、そして何より攻撃のいやらしさが、F級とは比較にならん。囲まれてスキルを連打されたら、いくらJOKERでも避けきれんぞ。
ベテランシーカ―: 問題は、火力と手数の絶対的な不足です。今の彼の攻撃手段は、【パワーアタック】ただ一つ。あれは確かに強力ですが、単体の敵にしか効果がない。E級の物量作戦の前では、いずれジリ貧になります。
そのベテランたちの的確な指摘に、楽観ムードだったコメント欄が、少しずつ冷静さを取り戻していく。
そうだ、今の彼は、あまりにも攻撃手段が乏しすぎる。
では、どうすればいいのか。
答えは、一つしかなかった。
ハクスラ廃人: 流石にそろそろ、サポートスキルを拡充するべきだ。あの魔法使いの動画を忘れたのか?スキルは、サポートジェムで改造してこそ、初めて真価を発揮するんだ。
元ギルドマン@戦士一筋: 全くだ。【ヘビーストライク】に【範囲攻撃】のサポートを付けるだけでも、世界が変わるぞ。まずは、それを手に入れるのが先決だ。
サポートスキル。
その言葉は、隼人の心に深く突き刺さった。
彼の脳裏に、あの衝撃的な映像が蘇る。
たった一発の【火の玉】が、指数関数的に増殖し、千を超えるモンスターの軍勢を一瞬で蒸発させた、あの理不尽なまでの光景。
あれこそが、この世界の「力」の本質。
個人の技量や反射神経だけでは、決してたどり着けない圧倒的な殲滅能力。
彼はこれまで、自分のプレイヤースキルに絶対的な自信を持っていた。
どんな強い敵が相手でも、動きを見切り、隙を見つけ、カウンターを叩き込めば勝てると。
だが、それはある種の傲慢だったのかもしれない。
この世界は、彼が思っているよりももっと深く、もっと広大で、そしてもっとシステム的にできている。
個人の技量という「アナログ」な力だけでは、いずれ限界が来る。
そのアナログな力を、何倍、何十倍にも増幅させる「デジタル」な力。
それこそが、サポートスキル。
ベテランたちの声は、彼にその当たり前の、しかし最も重要な事実を再認識させてくれた。
「…サポートスキルか」
隼人は、静かに呟いた。
その声には、自らの未熟さを認め、そして新たな高みへと目を向けた者の覚悟が滲んでいた。
彼はタバコの火を携帯灰皿に押し付けると、カメラの向こうの数千人の軍師たちに向かって宣言した。
その顔はもはや、迷いを振り切った決意に満ちていた。
「…分かった。お前らの言う通りだ」
「E級に挑戦するのは、まだ早い。今の俺のままじゃ、いずれ壁にぶつかるだろう」
「よし、決めた」
彼はそこで一度言葉を区切ると、高らかに宣言した。
「この16万5千円は、全てスキルジェムの強化に使う」
「次の配信の目標は、E級ダンジョンへの挑戦だ。だがその前に、俺は俺だけの最強の必殺技を作り上げる。あの魔法使いが見せたような、理不尽なまでの殲滅スキルを、この俺の剣で再現してやる」
【結】ショーの終わりと新たなショーの始まり
その力強い宣言。
それは、彼の次なるショーの幕開けを告げる、最高のファンファーレとなった。
コメント欄は、彼のその決意表明に、この日一番の熱狂で応えた。
『うおおおおおお!それでこそ、俺たちのJOKERだ!』
『スキルクラフト配信!最高に面白そうじゃねえか!』
『物理版のあの殲滅魔法を作るってのか!胸が熱くなるな!』
『金ならある!最高のサポートジェムを買い漁ってくれ!』
『俺が知ってる最強の戦士のスキルコンボ、教えてやるよ!』
もはや、そこに意見の対立はない。
全ての視聴者が、「JOKERのオリジナル必殺技の創造」という、一つの共通の夢に向かって心を一つにしていた。
隼人はその熱狂を満足げに眺めると、静かに配信の終了ボタンを押した。
「じゃあな、お前ら。次のショーで会おう」
西新宿の冷たい夜風が、彼の火照った体を優しく撫でていく。
彼の頭の中は、すでに次なる計画でいっぱいだった。
サポートジェムを、どこで買うか。
どのスキルを、ベースに改造していくか。
そして、どんな組み合わせで誰も見たことのない、奇跡のコンボを生み出すか。
彼のギャンブルは、まだ終わらない。
いや、むしろここからが本当の始まりなのかもしれない。
神崎隼人は、配信終了のボタンを押すと、大きく息を吐き出した。指先が、まだ興奮の余韻でわずかに震えている。
16万5千円。
そのあまりにも現実的な数字が、彼の脳内で確かな重みを持っていた。
そして、その大金を全てスキルジェムの強化に注ぎ込むという、自らの宣言。
コメント欄は、彼の決意にこの日一番の熱狂で応えてくれた。
『JOKERの必殺技創造』。
それはもはや、彼一人の目標ではない。数千人の視聴者たちの、共通の夢となったのだ。
「…さてと」
彼は空になったタバコの箱をくしゃりと握りつぶし、ポケットの携帯灰皿にねじ込んだ。
冷たい夜風が、火照った彼の頬を撫でる。眼下に広がる、西新宿の宝石箱のような夜景。数日前までは、自分とは無関係な遠い世界の光だと思っていた。だが今は、違う。あの光の中に、確かに自分の、そして妹の未来があるのだと、彼は信じることができた。
やるべきことは、決まった。
スキルジェムの強化。
そのための情報収集。そして、最高の素材の買い付け。
彼の頭の中は、すでに次なる計画でフル回転していた。
その時だった。
「――配信、お疲れさまです」
背後から不意に、凛とした、しかしどこか心安らぐ声がかけられた。
隼人は、驚いて振り返る。
そこに立っていたのは、彼の予想だにしない人物だった。
ギルドのきっちりとした制服ではなく、白いブラウスにベージュのロングスカートという、柔らかな私服に身を包んだ水瀬雫だった。
彼女の手には、湯気の立つ二つの紙コップが握られている。
「み、水瀬さん…?なんで、あんたがここに…」
「ふふっ、あなたの配信、いつも見ていますから。最後の雑談配信の場所、ここの屋上だろうなって、見当をつけていたんです」
彼女は、悪戯っぽく笑った。
「それにあなた、配信が終わった後、いつも一人でこうして考え事をしているでしょう?なんだか、放っておけなくて」
雫はそう言うと、持っていた紙コップの一つを、そっと隼人に差し出した。
甘く、香ばしいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
「これ、どうぞ。温かいカフェラテです」
「…あ、ああ…」
隼人は戸惑いながらも、その温かい紙コップを素直に受け取った。指先に、じんわりと温もりが伝わってくる。
「…どうも」
彼がぶっきらぼうに礼を言うと、雫は本当に嬉しそうに微笑んだ。
二人はしばらく言葉もなく、並んで夜景を眺めていた。
先に沈黙を破ったのは、隼人の方だった。
彼は、意を決したように口を開いた。
「…なあ、水瀬さん」
「はい、なんでしょう?」
「あんたなら分かるだろ。俺が、次に何をすべきか」
彼のそのあまりにもストレートな問いかけ。それは、彼が目の前の女性をただのギルドの受付嬢としてではなく、信頼できる先輩探索者として、そして共に戦う「軍師」として認めている、何よりの証拠だった。
雫は、その彼の真剣な眼差しを、真っ直ぐに受け止めた。
「…配信、拝見しました。E級ダンジョンへの挑戦のために、スキルを拡充すると。素晴らしいご決断だと思います」
彼女は一口カフェラテを飲むと、そのプロフェッショナルな思考のスイッチを入れた。
「では、JOKERさん。あなたがこれから作るべき必殺技について、私なりの考えをお話ししてもよろしいでしょうか?」
「…頼む」
雫は、まるでチェスの盤面を思い浮かべるかのように、静かに語り始めた。
「まず、JOKERさんが最低限用意すべきスキルは、二つです」
「二つ?」
「はい。一つは、MP消費が極めて少ない、通常攻撃に代わるメインウェポンです」
彼女は、隼人の目を見つめた。
「E級ダンジョンでは、F級とは比較にならないほどの数の雑魚モンスターが出現します。それらをいちいち、あなたの素の剣技だけで倒していては、時間がかかりすぎる。だからこのスキルは、**『雑魚敵を一撃で倒せること』**が、最低限の基準になります」
「そして何よりも重要なのが、そのMP消費。あなたのMPの自然回復量が、そのスキルの消費量を上回るように調整する必要がある。つまり、無限に撃ち続けることができる燃費のいい主力技。これこそが、あなたの探索の安定性を支える土台となるんです」
無限に撃てる、主力技。
そのあまりにも魅力的な響きに、隼人はゴクリと喉を鳴らした。
「そして、もう一つ」
雫の声に、熱がこもる。
「それとは全く逆の思想。MP消費が極めて大きい、しかしそれに見合うだけの絶大なリターンを持つ必殺技です」
「このスキルに求められるのは、二つの要素。一つは、ボスやエリートモンスターのような強敵に対して、大量のダメージを与えること。そしてもう一つは、ダメージを与えた上で、相手を気絶させたり、吹き飛ばしたりして、確実に『隙』を作り出すこと」
「なぜなら、その『隙』こそが、次の一手を生み出すからです。上手くいけば、その隙にもう一度同じ必殺技を叩き込むことができる。あるいは、安全にポーションを飲む時間も稼げる。必殺技を連続で叩き込み、相手に何もさせずに殲滅する。これこそが、格上の敵を倒すための、勝利への方程式です」
隼人は、彼女のそのあまりにも合理的で、完成された戦術論に、ただ聞き入っていた。
それは、彼が漠然と頭の中に思い描いていた理想の戦い方を、完璧に言語化したものだった。
「そして…」
雫はそこで一度言葉を切ると、少しだけ申し訳なさそうに付け加えた。
「本当は、もう一つあります。攻撃スキルではありません。サポート技…つまり、防御系のスキルです」
「防御…?」
「はい。JOKERさんは、ゴブリンの洞窟で【パリィ】のスキルジェムを拾われましたよね?あれは、素晴らしいスキルです。ですが、今のままではただ敵の攻撃をいなすだけ。それでは、E級では不十分です」
彼女は、隼人の驚く顔を楽しむように続けた。
「考えてもみてください。もし、パリィやブロックに成功したその瞬間に、自分のHPやMPがわずかに回復するとしたら、どうでしょう?」
「…なんだと?」
「サポートジェムの中には、そういった特殊な効果を持つものが存在するんです。『ガード時にライフ回復』、『ブロック時にマナ回復』といったものです。それらを、あなたのパリィやブロックのスキルにリンクさせる」
「そうすれば、あなたは敵の攻撃を受け流せば受け流すほど、逆に強くなっていく。わざわざ危険を冒してポーションを飲む、あの致命的な『隙』を、完全に無くすことができるんです」
その、あまりにも画期的な発想。
攻撃は、最大の防御。だが、その防御すらも、次なる攻撃と回復へと繋げる。
一切の無駄がない。完璧に、計算され尽くしたビルドの思想。
隼人は、目の前のこの穏やかな女性の、その底知れない知識と戦術眼に、もはや戦慄すら覚えていた。
「通常攻撃、必殺技、そして回復能力を兼ね備えた防御技」
雫は、静かに結論を告げた。
「この三つの歯車が完璧に噛み合った時、初めてあなたはE級ダンジョンへの挑戦権を手に入れることができる。――これが、E級で生き残るための**『最低限』**です」
その言葉は、優しく、しかしどこまでも厳しく、隼人の心に響いた。
彼は、手の中のぬるくなったカフェラテを、一気に飲み干した。
そして、決意を新たにした。
やるべきことは、明確だ。
この三つのスキルを、創造する。
そのために、あの16万5千円という大金を、全て注ぎ込む。
彼の次なるギャンブルのテーブルは、決まった。
それは、スキルジェムとサポートジェムが、無数に並ぶ「市場」という名の戦場だ。




