第259話
彼は、その灼熱のカルデラを、慎重に、しかし確かな足取りで進んでいく。
そして彼は、ついにその場所へとたどり着いた。
広大な、円形の玉座の間。
その中央に、まるで小山のように巨大な影が、とぐろを巻いていた。
それは、竜だった。
全長は、50メートルを優に超えるだろうか。
その全身を覆う鱗は、火山岩のように黒く、そして硬質で、ところどころひび割れたその隙間からは、まるでマグマのような赤い光が漏れ出している。
背中には巨大な翼が折り畳まれ、その長い首の先にある頭部には、鋭い角が何本も天を突くように生えていた。
そして、その閉ざされた瞼の奥で、一つの巨大な生命が静かに、しかし確かに脈打っている。
【古竜マグマロス】。
このダンジョンの、主。
「…さて、ネクロマンサービルドがどこまでやれるか…」
コメント欄もまた、その期待と不安で揺れていた。
彼がカルデラの中央へと一歩足を踏み入れた、その瞬間。
それまで眠っていた巨大な竜が、ゆっくりとその重い瞼を持ち上げた。
現れたのは、溶けた黄金のように輝く巨大な瞳。
その瞳は、侵入者である隼人を一瞥すると、まるで取るに足らない虫けらを見るかのように、気だるそうに細められた。
「グルオオオオオオオオオ」
地響きと共に放たれたのは、咆哮。
そして、マグマロスは動いた。
その初手は、彼が戦士として対峙したあの時と、全く同じだった。
彼はその長い首をゆっくりと持ち上げると、部屋の壁際をぐるっと一周するように、灼熱の炎を吐き出したのだ。
ゴオオオオオオオオオオオオッ!
紅蓮の炎の津波が、カルデラの外周を焼き尽くしていく。
それは、直接的な攻撃ではない。
だが、それ故に悪質だった。
「――やはり、開幕はこれか」
隼人は舌打ちしながら、炎の壁が迫ってくるその直前で、カルデラの中央へと飛び退いた。
炎の壁は、彼を中心として巨大な円を描き、そして消えることはなかった。
床が熱せられ、赤く輝き始める。
彼の退路は、完全に断たれた。
このリングの上で、死ぬまで踊り続けろと、王は告げていた。
だが、隼人は動じない。
彼の瞳には、恐怖の色はない。
ただ、冷徹な指揮官の光だけが、宿っていた。
彼は、自らの魂に命令を下した。
「――ゾンビ達、常に攻撃せず付いてこい」
彼の足元の影から、ずるりと七体のおぞましい姿が現れる。
彼の魂とリンクした、ゾンビミニオンたち。
彼らは、主の命令通り、その腐った肉体を壁とするように、彼の周囲を固めた。
完璧な、防御陣形。
マグマロスは、その小さな軍団を、その黄金の瞳で一瞥すると、まるで取るに足らない虫けらでも見るかのように、気だるそうにその巨体を起こした。
そして、四本の太い足で大地を踏みしめ、隼人へと歩み寄ってくる。
その一歩一歩が、地響きを立てる。
「さて、これからが本番だ…!」
隼人の、その一言。
それが、このB級のテーブルにおける、彼の新たな戦いの、始まりの合図だった。
彼は、その骨のワンドを天へと掲げ、そして叫んだ。
その声は、もはやただのプレイヤーではない。
死者を率いる、王のそれだった。
「――いけ、ゾンビ軍団!」
その絶対的な命令。
それに、七体のゾンビ軍団が呼応した。
ウオオオオオオオオオオッ!!!
これまでとは比較にならない、力強い雄叫び。
彼らは、その腐った肉体をまるで鋼鉄のように硬質化させ、巨大な竜の、その足元へとなだれ込むように殺到していく。
だが、それだけではない。
隼人は、その背後で、完璧なサポートを、開始していた。
彼は、素早くデセクレートを唱える。
彼の足元に、禍々しい紫色の魔法陣が広がり、そこから数体の死体が、その骨の手を天へと突き出した。
そして、彼はその死体を供物として、次なる詠唱を始めた。
「――喰らえ」
スキル**【フレッシュオファリング】**。
死体が、赤い光と共に爆ぜる。
そして、その生命の奔流が、彼の七体のミニオンたちへと注ぎ込まれた。
その瞬間、彼の軍団が変貌した。
彼らの動きが、明らかに速くなる。
その腐った腕を振るう速度が、神速の領域へと達する。
ミニオンにアタックスピード20%増加が付与された。
ミニオンにキャストスピード20%増加が付与された。
ミニオンに移動スピード20%増加が付与された。
これらの効果が、ゾンビ達に付与される。
そして、その加速した軍団の牙が、ついに古竜の硬い鱗を捉えた。
ガキンッ、ゴキンッ、バキンッ!
ゾンビたちの、骨の剣と腐った爪が、マグマロスの巨大な足首を、容赦なく打ち据える。
だが、その手応えは、あまりにも軽い。
彼の視界に表示された、ボスの巨大なHPバー。
その赤いゲージは、彼の軍団の猛攻を受けてもなお、ほとんど動く気配を見せない。
しかし、ダメージは1割削れたかどうか、といったところだった。
『うわ、硬ええええ!』
『さすがに、B級ボス!ゾンビの攻撃じゃ、歯が立たないのか!?』
『ダメだ!このままじゃ、ジリ貧だ!』
コメント欄が、絶望の声で埋め尽くされる。
だが、その中で。
隼人は、ただ一人、静かに笑っていた。
彼の口元には、全てを見透かしたかのような、獰猛な笑みが浮かんでいた。
彼は、ARカメラの向こうの、絶望する観客たちに、そしてこの世界の全てのプレイヤーに、語りかけるように言った。
その声は、最高のイカサマを披露する、ギャンブラーのそれだった。
「…お前ら、まだ分かってねえな」
「俺の本当の切り札は、物理ダメージじゃねえんだよ」
彼が、そう言った、その瞬間。
マグマロスの、巨大なHPバーに、異変が起きた。
これまで、びくともしなかったその赤いゲージが、ゆっくりと、しかし確実に、その輝きを失い始めたのだ。
その巨体を、緑色の毒々しいオーラが包み込んでいる。
毒状態がスタックし、HPがどんどん減っていく。
『え!?』
『なんだ、これ!?ボスのHPが、勝手に減ってるぞ!』
『毒だ!スプラッシュダメージで、毒がスタックしてやがる!』
コメント欄が、そのあまりにも地味で、しかしどこまでも悪質なダメージソースの正体に気づき、どよめいた。
そうだ。
彼の本当の狙いは、そこにあった。
【暗黒の玉座】と、二つのアビスジュエルがもたらす、スプラッシュ攻撃に乗る、毒ダメージ。
一体一体のダメージは、微々たるもの。
だが、それが七体のミニオンによって、毎秒、何十回と叩き込まれればどうなるか。
その毒は、致死量を超え、古竜の生命そのものを、内側から蝕んでいく。
まさに、蟻が象を殺す、究極の持久戦。
「うん、毒状態にするアビスジュエル買ってたのは、正解だったな」
隼人は、その光景に満足げに頷いた。
「毒が、強いわ、これ」
彼の、その冷静な分析。
それに、コメント欄の有識者たちが、戦慄と共に同意の声を上げた。
元ギルドマン@戦士一筋:
…なるほどな。
そういうことか。
彼は、最初から火力で押し切るつもりなどなかったのだ。
ただ、ひたすらに時間を稼ぎ、この毒で殺し切る。
なんと、クレバーで、なんと悪辣な戦術だ…。
ハクスラ廃人:
ああ、間違いないな。
これなら、確かに勝てる。
時間が、かかりすぎるがな。
問題は、それまで彼の軍団が、そして彼自身が、持つかどうかだ。
その、ハクスラ廃人の言葉を裏付けるかのように。
自らの生命が、見えざる毒によって削り取られている事実に気づいたマグマロスが、怒りの咆哮を上げた。
「グルオオオオオオオオオオッ!!!」
その黄金の瞳が、憎悪の炎を燃え上がらせる。
そして、彼はその怒りの全てを、彼の足元でうごめく、忌々しいゾンビの軍団へと向けた。
嵐のような、猛攻。
その一撃一撃が、ゾンビたちの体を容赦なく砕き、吹き飛ばしていく。
だが、隼人は動じない。
一体が倒されれば、彼は即座にデセクレートで新たな死体を生成し、そして新たなゾンビを召喚する。
彼の軍団は、決して減らない。
不死の、軍勢。
やがて、その長い、長い消耗戦の末。
ついに、その時は来た。
マグマロスの巨大なHPバーが、5割を切った。
そして、ボスの第二形態が、その牙を剥いた。
カルデラ全体が、灼熱の炎に包まれる。
床が炎上し、彼の足元から、チリチリと肉が焼ける音が聞こえてくる。
「おいおい、ヤバいな」
彼は、そう言いながらも、その表情に焦りはない。
彼のHPが、急速に減っていく。
だが、彼の驚異的なHPリジェネが、それを相殺する。
そして、彼はベルトに差されたライフフラスコを、ただ静かに見つめていた。
まだだ。
まだ、使う時ではない。
ギリギリまで、ライフフラスコは節約する。
彼の心は、絶対的な静寂に包まれていた。
そして彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、そして目の前の古竜に、宣言した。
その声は、絶対的な自信に満ち溢れていた。
「これは、チキンレースだな」
「こっちのHPが切れるか、お前の体力を削り切るかだ」
その言葉と同時に、彼は再びデセクレートとフレッシュオファリングを唱え、自らの軍団を鼓舞する。
そして、その長い、長い死闘の果てに。
ついに、その時は来た。
彼のHPが、2割を切った。
その瞬間、彼は初めて、その最後の生命線を呷った。
ライフフラスコを飲み、一旦HPが全回復する。
そして、その回復した数秒の間に。
彼のゾンビ軍団が、最後の一撃を叩き込んだ。
毒に蝕まれ、弱りきっていたマグマロスの巨体。
それが、ついに限界を迎えた。
その巨体は、ゆっくりとその場に崩れ落ち、そして満足げな光の粒子となって、消滅していった。
静寂。
後に残されたのは、おびただしい数のドロップ品と、そしてその中心で、荒い息をつきながら、しかし確かな勝利を噛みしめる、一人の指揮官の姿だけだった。
その直後。
彼の全身を、これまでにないほど強く、そして荘厳な黄金の光が包み込んだ。
B級の主を討伐した、莫大な経験値。
それが、彼の魂と肉体を、一気に次のステージへと引き上げたのだ。
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
祝福のウィンドウが、彼の視界に立て続けに五度ポップアップする。
彼のレベルは、20から25へと一気に上昇した。
「ふー、ギリギリだったな」
彼は、安堵の息を吐いた。
その、あまりにも人間的な一言。
それに、コメント欄が、万雷の拍手喝采で応えた。
その賞賛の嵐の中で、一人のひときわ気品のある、しかしどこか見下したようなコメントが投下された。
投稿主は、S級ネクロマンサー『骸の女王』だった。
骸の女王:
レベル25、おめでとう。
B級に挑むのは、ギリギリだと思ってたけど、案外行けるものね。
**本来、B級到達の28になってから教えるつもりだったけど、**まあいいわ。
しばらくレベリングして、28まで上げなさい。
その時、あなたに本当の「力」を授けてあげる。
スペクター蘇生と、アニメイトガーディアンが、ついに解禁よ。
その、あまりにも思わせぶりな、そしてどこまでも期待感を煽る、女王からの言葉。
それに、隼人の瞳が、キラリと輝いた。