第255話
【日米合同冒険者高等学校 - 大講義室】
西新宿の空から差し込む午後の柔らかな光が、巨大な階段教室の窓を白く染めていた。
数百人の若者たちの視線が、教壇に立つ一人の初老の男性へと注がれている。
歴史学者であり、元A級探索者でもある石川講師。彼の静かな、しかしどこまでもよく通る声が、生徒たちの知的好奇心を刺激していた。
「――さて、昨日の続きだ」
石川はARパネルを操作し、巨大なホログラムモニターに一枚の古びたグラフを映し出した。
「昨日、我々は『奇跡の一週間』と、その後の【公式探索者ギルド】の設立について学んだ。政府とギルドによる買い取り制度が確立され、冒険者という職業はようやく『日給10万円』という、安定した収入を得られるようになった。誰もが夢を見た。誰もが、このゴールドラッシュが永遠に続くと信じていた」
彼はそこで一度言葉を切ると、そのグラフの、ある一点を指し示した。そこから、赤い線が異常なまでの角度で、天を突き刺すかのように伸びている。
「だが、自由市場という名のテーブルは、常に牙を剥く。今日話すのは、その最初の『牙』…黎明期に起こった、二つの大暴騰事件と、その影で生まれた混沌についてだ」
講義室の空気が、わずかに引き締まる。
モニターの映像が切り替わり、一枚のボロボロの羊皮紙の画像が映し出された。
【ポータル・スクロール】。
「まず、最初の事件は**『ポータル・ショック』**と呼ばれている」
石川は、静かに語り始めた。
「今の君たちにとって、ポータルはダンジョンから安全に帰還するための、当たり前の生命線だ。マーケットに行けば、数千円でいつでも手に入る。だが、当時は違った。D級ダンジョンが発見されるまで、ポータルスクロールは、E級ダンジョンの深層で、ごく稀にしかドロップしない、まさに奇跡のアイテムだったのだ」
「そして、その戦略的価値にいち早く気づいた者たちがいた。当時、まだ黎明期だったいくつかの富裕層プレイヤー…後の大手ギルドの母体となる者たちだ。彼らは、その潤沢な資金を使い、市場に出回るポータルスクロールを、全て買い占め始めた」
そのあまりにもクレバーな、しかしどこまでも悪辣な戦術。
それに、教室のあちこちから「うわ…」という声が漏れた。美咲も隣の静の袖をきゅっと握りしめる。
「結果、どうなったか。価格は、一日で10倍、一週間で100倍以上にまで跳ね上がった。一枚50万円。当時の探索者の、5日分の稼ぎに匹敵する額だ。もはや、一般の探索者には到底手の届かない、高級品と化した」
「多くの者が、ダンジョンの奥深くで孤立した。帰るための『鍵』を、失ったのだ。彼らに残された選択肢は、ただ一つ。自らの足で、入り口まで帰ることだけ。もちろん、それで命を落とすようなことはなかった。フラスコシステムのおかげで、生存だけは保証されていたからな。だが、数時間の探索の後に、さらに数時間かけて危険なダンジョンを歩いて帰るという、途方もない手間が発生した。時間という、探索者にとって最も貴重なリソースが、無慈悲に奪われていったのだ」
石川の声には、その時代を知る者だけが持つことのできる、確かな実感がこもっていた。
彼は、モニターに当時のSeekerNetの掲示板のログを映し出した。
『【悲報】ポータル、高すぎて買えないんだが…』
『マジかよ、昨日まで5000円だったのに、今50万になってるぞ!』
『ふざけんな!これじゃ、家に帰れねえじゃねえか!』
『誰だよ、買い占めてるの!出てこい!』
その、あまりにも生々しい悲鳴の数々。
それに、生徒たちはゴクリと喉を鳴らした。
「この混乱を収拾させたのは、皮肉にも、さらなる『発見』だった。D級ダンジョンの出現だ。そこで、ポータルスクロールをドロップするモンスターが大量に発見され、供給が一気に安定した。だが、この事件は我々に一つの重要な教訓を残した。たった一つのアイテムが、いとも簡単に探索者間の『格差』を生み出すという、この世界の残酷な真実をな」
彼は、モニターの画像を切り替える。
次に表示されたのは、一本の錆びついた鉄の剣と、いくつかのマジック等級の防具だった。
「そして、次に訪れたのが**『装備インフレ地獄』**だ」
「ポータル・ショックから数ヶ月後。クラフトという概念が生まれ、プレイヤーたちは気づき始めた。『強い装備』こそが、この世界を支配するのだと。そして、需要は爆発した。より良いMODが付いたマジック装備。HPやMP、耐性といった純粋なステータスを補強してくれる装備の価値は、絶対だった。当時、少しでも有用なMODが付いた装備は、10万円から100万円という、今の君たちの感覚からすれば信じられないほどの高値で、当たり前のように取引されていた」
その数字に、美咲が小さな声で「ひゃくまんえん…」と呟いた。静も、その隣で驚きに目を見開いている。
「だが、その熱狂は、新たな格差を生み出した。金を持つ者は、より強い装備を手に入れ、さらに多くの金を稼ぐ。金のない者は、いつまで経っても鉄パイプとゴブリンの布切れから抜け出せない。その格差は、日に日に広がっていった」
「各地のギルド支部には、抗議のデモが殺到した。『俺たちにも、まともな武器をよこせ!』と。まさに、一触即発の状態だった」
その、あまりにも生々しい歴史の真実。
それに、生徒たちはただ黙って聞き入っていた。
そして石川は、その時代の空気感を伝えるために、再び当時の掲示板のログを映し出した。
『【愚痴】もう無理。装備が高すぎて、心が折れた』
『分かる。日給10万稼いでも、防具一つ買ったらほとんど消える。やってらんねえ』
『金持ちだけが強くなるクソゲーかよ、この世界は…』
「だが、その絶望の中から、新たな希望が生まれた」
石川の声が、わずかに熱を帯びる。
「それは、雷帝のような戦闘の英雄ではない。名もなき、無数の『職人』たちだ。彼らは、自らの鑑定スキルとクラフトスキルだけを武器に、日夜ガラクタと向き合い続けた。そして、安価で、しかし確かな性能を持つマジック装備を大量に生産し、市場へと供給し始めたのだ」
「彼らの地道な、しかし尊い仕事のおかげで、装備の価格は安定し、全ての探索者が等しく『強くなる機会』を得られるようになった。君たちが今、アメ横であれほど安価に装備を揃えられるのも、全てはこの名もなき英雄たちの、功績なのだ」
その温かい言葉に、静と美咲は深く頷いた。
昨日、あの無愛想だが優しい親父さんから装備を譲ってもらった時の、あの温かい記憶が蘇る。
この世界は、英雄だけでは成り立たない。
無数の名もき人々の営みによって、支えられているのだ。
「…さて」
石川は、そこで一度言葉を切ると、その表情をわずかに引き締めた。
「だが、光が生まれれば、必ず影も生まれる。ここからが、今日の本題だ」
「公式な市場が、その秩序を確立していくその裏側で。もう一つの、無法の市場が、その勢力を拡大していった」
彼は、モニターに一つの禍々しい文字を映し出した。
【闇市】
「鑑定スキルを持たない、あるいは持てない者たち。公式マーケットの高騰についていけない者たち。彼らが、安価な装備を求めて流れ着いた先。それが、闇市だ。そして、そこはあらゆる詐欺師と悪党が跋扈する、無法地帯だった」
「まず、横行したのが装備品詐欺だ。何の能力も持たないノーマル等級の剣に、金色のスプレーを吹きかけ、『これは伝説のユニークソードのレプリカだ!HP+50が付いている!』と偽って売りつける。鑑定スキルを持たない新人には、その真贋を見抜く術はない」
「次に、フラスコ詐欺。ただの色水を瓶に詰め、『これは最高級のライフフラスコだ』と偽る。そして、それを信じた者が、戦闘中にその『聖水』を飲み干し、何も起こらずに命を落とす。これは、最も悪質な詐欺の一つだった」
「そして、ジェム詐欺。ただのガラス玉を磨き上げ、『これは【火の矢】のスキルジェムだ』と偽る。新たな力を夢見てそれを魂にセットしようとし、何も起こらずにただ砕け散るガラス玉を前に、呆然と立ち尽くす。そんな若者たちが、後を絶たなかった」
そのあまりにも陰湿で、そして残酷な手口の数々。
それに、教室のあちこちから、怒りと嫌悪の声が上がった。
美咲もまた、その小さな拳を強く握りしめていた。
「…ひどい」
「ああ、ひどい話だ」
石川は、静かに頷いた。
「だが、驚くべきことに、実際にこれらの稚拙な詐欺に引っかかる探索者は、ごく少数だった」
「え?」
生徒たちが、意外そうな声を上げる。
「そうだ。当時の探索者たちは、君たちが思っているよりも、遥かにクレバーで、そして慎重だった。誰もが、自分の身は自分で守るしかないという、この世界の冷徹な真実を、その肌で理解していたからだ。彼らは、互いに情報を交換し、怪しい商人の噂を共有し、自衛のためのコミュニティを形成していった」
「だが、それでもだ」と彼は続けた。
「この詐欺の横行は、冒険者社会全体に、深刻な『病』をもたらした。それは、『不信感』という名の病だ」
「そして、その病が最も大きな社会問題となったのが、あの二つのアイテムを巡る詐欺だった」
彼は、モニターにあの二つのユニークアイテムの画像を映し出した。
「【清純の元素】と、【元素の円環】。この、初心者にとっての『制服』とも言える二つのアイテム。そのあまりにも高い需要に目をつけた詐欺師たちは、精巧な偽造品を大量に生産し、闇市へと流した」
「本物と見分けのつかない、ただの首輪と指輪。だが、先ほども言った通り、これに引っかかる者は少なかった。だが、その『偽物が存在するかもしれない』という事実そのものが、市場を麻痺させたのだ。誰もが、取引相手を疑い、誰もが、アイテムの真贋を疑う。その結果、健全な取引は停滞し、冒険者たちの成長は、大きく阻害されることになった」
その、あまりにも陰湿な、社会への影響。
それに、静の胸が締め付けられるように痛んだ。
「この一連の詐欺事件が、ギルドを、そして国を動かした」
石川の声が、再び力強さを取り戻す。
「ギルドは、この状況を打開するための、一つの画期的な『解』を、生み出した。それは、魔法ではない。テクノロジーの力だった」
彼は、モニターに一枚の設計図のような画像を映し出した。
それは、一枚のコンタクトレンズと、スタイリッシュなメガネの画像だった。
「――鑑定スキルを、付与したARコンタクトレンズ、及びARメガネの開発だ」
「当初は、軍事用に開発されていたこの技術。それを、ギルドは莫大な資金を投じて民間へと転用し、そして全ての探索者に、安価で供給することを決定した。これには、アメリカ政府も全面的に協力した。なぜなら、彼らもまた同じ問題に直面していたからだ」
「そして、このアイテムが普及し始めた、その日。世界のルールは、再び変わった」
彼は、そこで一度言葉を切ると、その歴史の転換点を告げた。
「――これで、冒険者全員が、鑑定スキルを使えるようになったのです」
「闇市の詐欺師たちは、その一夜にして、その商売道具を失った。そして、我々探索者は、不信感という名の呪いから、ようやく解放されたのだ」
その、あまりにも劇的な、そしてどこまでも希望に満ちた逆転劇。
それに、講義室は大きな、そして温かい拍手に包まれた。
静と美咲もまた、その歴史の大きなうねりに、ただ心を震わせていた。
やがて、講義の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
石川は、その静かな、しかし力強い声で、その日の授業を締めくくった。
「――今日の授業は、ここまで。午後は自由行動だ。ダンジョンに行くもよし、仲間と語り合うもよし。好きに過ごせ」
「ただし」と、彼は最後に付け加えた。
その瞳には、厳しい、しかしどこまでも温かい光が宿っていた。
「――ダンジョンの外にも、モンスターはいる。最も恐ろしいのは、人の心の闇だということを、決して忘れるなよ、ひよっこども」