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第249話

 翌日の朝。

 西新宿の空は、厚い雲に覆われ、梅雨明け前のじっとりとした湿気が、アスファルトの匂いを濃くしていた。

 日米合同冒険者高等学校の巨大な階段教室。その空気は、昨日とはまた違う、静かな、しかし確かな熱気に満ちていた。

 昨日、この世界の「始まり」の物語を目の当たりにした数百人の若者たち。彼らの瞳には、もはや入学式の日のはしゃいだような光はない。自らが足を踏み入れたこの世界が、どれほど過酷で、そしてどれほど奇跡に満ちているのか。その真実の一端に触れた者だけが持つことのできる、真摯な、そしてどこまでも真剣な探求の光が宿っていた。


 桜潮静と神崎美咲は、昨日と同じように隣同士の席に座り、その静かな熱気の中で、講義の開始を待っていた。


「…おはよう、美咲お姉様」

「うん、おはよう、静ちゃん」


 交わされる、ささやかな挨拶。

 だが、その声の響きには、昨日までとは違う、確かな絆の色が滲んでいた。

 昨日の午後、二人はアメ横の喧騒の中で、自らの最初の「軍資金」を手にし、そして最初の「装備」を揃えた。その共同作業は、彼女たちの友情を、ただのクラスメイトから、共に戦う「相棒」へと、その関係性を確かに進化させていた。

 美咲の腰には、盗賊クラスの証である軽やかな革のベルトが巻かれ、その手には、雷の魔力をわずかに帯びた初心者向けのワンドが握られている。

 静の背中には、彼女の身を守るための小さな円形の盾が背負われ、その首元には、これから彼女たちの生命線となる【清純の元素】が、静かな輝きを放っていた。

 彼女たちは、もはやただの少女ではない。

 世界の理不尽に、その小さな体で立ち向かうことを決意した、二人の若き「冒険者」だった。


 やがて、講義の開始を告げるチャイムが鳴り響く。

 教壇に立ったのは、昨日と同じ、あの白髪の歴史学者、石川だった。

 彼は、その静かな、しかしどこまでもよく通る声で、その日の授業を始めた。


「――さて、昨日の続きです」


 彼は、ARパネルを操作し、講義室の巨大なホログラムモニターに、一枚のグラフを映し出した。

 それは、ダンジョン出現後、最初の数ヶ月間における、全世界の探索者の「死者数」の推移を示す、生々しいデータだった。

 生徒たちが、息を呑む。

 誰もが、そこに表示されるであろう、おびただしい数の犠牲を覚悟していた。

 だが、石川が示したグラフは、彼らの予想を完全に裏切るものだった。


「世界はもちろん、混乱はありました。未知の脅威、未知の法則。その中で、多くの勇敢な者たちがその命を落とした。それは、紛れもない事実です」

 彼の声には、深い哀悼の念が滲んでいた。

「ですが、驚くべきことに。この今年度の全世界の冒険者の死者数は、わずか2000人。これは、日本の年間の交通事故死者数と、同レベルか、それより少ない数字です」


 そのあまりにも意外な事実。

 それに、講義室がどよめいた。

「え…?」「嘘だろ…?」「もっと、何万人も死んでるのかと…」


「ええ、信じられないかもしれませんね」

 石川は、頷いた。

「この脅威的な生存性が、統計的に証明され、世間に広く認知されるのは、もう少し後の話になります。ですから、当初、冒険者という職業は、常に死と隣り合わせの、極めて危険な命がけの職業と見られていました」

「ダンジョンは、それまでライトノベルやゲームの中だけの、空想の産物でしたからね。そういうフィクションの世界に憧れていた人達が、その危険性を顧みず、初期のダンジョンへと殺到したと記録されています」

「だが、結果として、彼らの多くは生き残った。なぜか」

 彼は、生徒たちへと問いかけた。

 そして彼は、自らその答えを告げた。


「それは、この世界の理そのものが、我々人類に対して、あまりにも『優しすぎた』からです」

「ただレベル2になれば、全ての者にステータスとクラスが付与される。それだけで、人間の身体能力は常人の数倍にまで跳ね上がる。このあまりにも強力なセーフティネットのおかげで、初期の死者数は驚くほど少なかったと、記録されています」


 その世界の、根源的な「ルール」。

 それに、静と美咲は深く頷いた。

 そうだ。

 昨日、自分たちも経験した。

 レベルが上がった、あの瞬間の万能感。

 あれがあれば、確かにF級のゴブリンごときに殺される気はしない。


「そして、その黎明期の混乱の中で、世界を導いた光がありました」

 石川の声のトーンが変わる。

 それは、歴史を語る学者のそれから、一つの神話を語る吟遊詩人のそれへと。

「今、SSS級と呼ばれている神々の活躍も、この頃から始まっています。彼らは、まだ誰もが手探りだったこの世界で、その圧倒的な才能と力で道を切り拓き、我々凡人に進むべき道を示してくれたのです」

 モニターに、数人の若き日の英雄たちの姿が映し出される。

 その中に、ひときわ眩い雷光をその身に纏う、一人の青年の姿があった。

 “雷帝”神宮寺猛。

 そのあまりにも若く、そして荒々しい、しかしどこまでも真っ直ぐな瞳。

 それに、生徒たちが感嘆の声を漏らした。

 美咲もまた、その隣で、兄であるJOKERがこの光に憧れて、あの世界へと足を踏み入れたのだという事実を思い出し、その胸を熱くさせていた。


「そうして、スキルジェムやフラスコ、そしてポータルスクロールが次々とドロップし始め、徐々に冒険者の環境は改善されていきました」

「スキルを使用すれば、敵を倒す効率も上がりますからね。そして、ヤバい時はポータルでダンジョンの外に逃げる。その戦法も、この時に確立されました」

「当初、ドロップ品の買い取り制度というものは、まだ存在しませんでした。政府が、冒険者たちの活動を支援するための一時金を給付し、報酬を出していたのです。ドロップ品もまた、我々一般の探索者の手には渡らず、政府機関がその全てを研究材料として独占していた段階ですね」


 彼の講義は、続く。

 その内容は、もはやただの歴史の授業ではなかった。

 この世界の「常識」が、いかにして築き上げられていったのか。

 その壮大な物語だった。


「さて、そうして日本とアメリカでF級ダンジョンが次々とクリアされるようになると。次に、世界は新たなステージへと移行しました」

 モニターの映像が切り替わる。

 そこに映し出されたのは、F級のただの洞窟とは明らかに違う、より複雑で、そして悪意に満ちたダンジョンの光景だった。

「E級ダンジョンの出現です。これには、当時の我々も大変驚いたと、記録が残っています。ダンジョンは一つではない。その難易度は、無限に上がっていくのだと、誰もが悟ったのです」

「そして、このE級ダンジョンのドロップ品を研究し、装備の『クラフト』が始まったのも、この時期ですね」

 彼は、ARパネルを操作し、一枚の設計図のような画像を表示させた。

 それは、何の変哲もないノーマル等級の鉄の剣のデータだった。

 そして、その横に、一つの青白いオーブの画像が追加される。


「皆さんが、おそらくこれからお世話になるであろう装備品。そのほとんどは、鍛冶屋がゼロから作り出すものではありません」

「このダンジョンからドロップする、何の能力も持たないノーマルアイテムをベースとして。我々探索者自身、あるいは専門の職人たちが、各種のクラフトオーブを使い、その性能を引き上げていくのです」

「そして、そのクラフトという行為もまた、一つの『才能』でした」

「中には、『クラフト結果が良くなる』というユニークスキルを持つ者たちが現れた。彼らが、日夜その才能と資産を使い、オーブを消費し、装備品を生産しているからこそ。君たちが今、アメ横であれほど安価に、そして安定して装備を手に入れることができるのです」

「ですが、当初はそんな便利な職人たちもいませんでした。だから、装備の値段は非常に高価だったと、記録されています」


 そのあまりにもリアルな、経済の成り立ち。

 それに、静と美咲は深く頷いた。

 そうだ。

 昨日、自分たちがあの親父さんから8万5千円で譲ってもらった、あの装備一式。

 あれもまた、名もなき誰かの地道な「仕事」の賜物なのだ。

 その当たり前の、しかしこれまで考えてもみなかった事実に、彼女たちの胸に、温かい感謝の念が込み上げてくるのを感じていた。

 この世界は、英雄だけでは成り立たない。

 無数の名もなき人々の営みによって、支えられているのだ。


 やがて、講義の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。



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