第244話
【物語は10年前ダンジョンが現れる当日に戻る】
その日の東京は、いつものように退屈だった。
梅雨明けを宣言されたばかりの空は、白く、そしてどこまでも眠たげに、アスファルトの熱気で陽炎を立てるコンクリートジャングルを、見下ろしていた。
人々は、いつもと同じように満員電車に揺られ、いつもと同じように上司に頭を下げ、そしていつもと同じように、この終わりのない日常が明日も明後日も、永遠に続くと信じて疑わなかった。
日本最大の匿名掲示板**『2ch』**。
その無数に存在するスレッドの森の中。
一つのあまりにも平和で、そしてどこまでも不毛なスレッドが、いつもと同じようにそのログを積み重ねていた。
スレッドタイトル:【悲報】ワイ、今期アニメも豊作すぎて睡眠時間が足りない Part. 128
1: 名無しの週末アニメ評論家
スレ立て、乙。
いやー、今期ヤバすぎだろ…。異世界転生モノが5本もあって、全部面白いとかどういうことだよ。
物理的に、時間が足りん。
2: 名無しのラノベ主人公志望
1
分かる。俺も、毎日寝不足だわ。
特にあの『ダンジョン・シーカーズ』。あれ、マジで神アニメだろ。
主人公が最弱スキルから成り上がっていくところとか、胸が熱くなる。
俺も、あんな世界に行って無双してえなあ…。
3: 名無しの現実主義者
2
お前、まだそんな夢見てんのかよ。
アニメはアニメ、現実は現実。
明日も朝早くから満員電車に揺られて、会社に行くだけの退屈な日常が待ってるだけだぜ。
諦めろ。
そのあまりにもありふれた、日常の会話。
それが、唐突に一つの奇妙なノイズによって断ち切られた。
47: 名無しの渋谷ウォッチャー
…ん?
なんか、ハチ公前のスクランブル交差点のど真ん中に、変なのができたんだが。
48: 名無しの週末アニメ評論家
47
どうせまた、どっかの企業のゲリラ広告だろ。
無視、無視。
49: 名無しの渋谷ウォッチャー
いや、それが違うんだよ。
なんて言うか…空間そのものが、ぐにゃぐにゃに歪んで、その奥がなんか洞窟みたいになってる。
CGか?でも、あまりにもリアルすぎる…。
警察も来てて、なんか騒然としてる。
ちょっと、写真撮ってくるわ。
50: 名無しの現実主義者
49
釣り、乙。
どうせ、ブレブレの写真上げて終わりだろ。
飽きたよ、そういうの。
その誰もが、いつもの「釣り」だと信じて疑わなかった書き込み。
だが、その数分後。
事態は、急変する。
65: 名無しの新宿都庁職員
おい、釣りじゃねえぞ。
都庁の前にも、出てる。
黒い渦みたいなのが、空間に口開けてる。
やばい、なんか空気がおかしい。頭が、痛くなってきた…。
68: 名無しの秋葉原の住人
アキバ中央通りにも、出た。
なんか、ゲームのイベントかと思ってオタクたちが集まってきてる。
俺も、その一人なんだがwww
72: 名無しの池袋乙女ロード
池袋にも…。
これ、マジで何が起きてるんだ…?
東京各所。
渋谷、新宿、秋葉原、池袋…。
その全てで、同じ現象が同時に発生している。
そのあまりにも異常な事態。
それに、スレッドの空気が一変した。
skepticismは、急速に困惑と、そしてわずかな恐怖へとその姿を変えていく。
そして、一人の名もなきユーザーが、その歴史の転換点を告げる新たなスレッドを立てた。
【緊急速報】東京各所に謎のゲートが出現 Part.1
1: 名無しの予言者
祭りだ。
これは、祭りだ。
何かが、始まる。
そのあまりにも中二病的な、しかしどこまでも本質を突いた一言。
それが、この新たな時代の本当の始まりの合図だった。
スレッドは、爆発した。
日本中の、いや世界中の全ての視線が、この一つの電子の海へと注がれていく。
5: 名無しのゲーマー
ダンジョン来たー!
マジで、ダンジョン来たー!
俺たちの時代が、ついに来たんだ!
8: 名無しの現実主義者
だから、落ち着けって。
どうせ、大規模なプロジェクションマッピングとか、そういうオチだろ。
政府が、黙ってるわけがねえ。
12: 名無しの実況民A
おい!テレビ見てみろ!
NHKが、緊急速報出したぞ!
『現在、東京の都心部を中心に、原因不明の空間の歪みが多数確認されています。専門家によりますと…』
これ、マジのやつだ!
その書き込みと同時に。
スレッドの勢いは、もはや誰にも止められない情報の津波と化していた。
そして、その混沌のまさにその中心で。
最初の「目撃者」が現れる。
56: 名無しの渋谷ウォッチャー
うわああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!
出た!出たぞ!
ゲートの中から、なんか出てきた!
緑色の、ちっこいおっさんみてえなのが!棍棒持ってる!
57: 名無しのゲーマー
ゴブリンだ!
間違いねえ!ゴブリンだ!
61: 名無しの新宿都庁職員
こっちもだ!
半透明の、プルプルしたゼリーみてえなのが!
ゆっくり、こっちに向かってくる!
62: 名無しのゲーマー
スライムだ!
うおおおお!スライムとゴブリン!
王道すぎるだろ!最高かよ!
そのあまりにもゲーム的な現実。
それに、恐怖よりも先に興奮を覚える者たち。
だが、そのお祭りムードは長くは続かなかった。
88: 名無しの渋谷ウォッチャー
やばい!やばい!やばい!
警官が、撃った!
ゴブリンに向かって、威嚇射撃した!
そしたら、ゴブリンがキレた!
警官に、襲いかかってる!
うわあああああ!血が出てる!これ、本物だ!
そのあまりにも生々しい実況。
それに、スレッドが凍りついた。
そして、次に投下されたのは、一枚のあまりにも鮮明な画像だった。
警官の腕に食らいつく、ゴブリンの醜い顔。
その口元から滴り落ちる、真っ赤な血。
それは、もはやゲームではなかった。
紛れもない、「現実」だった。
101: 名無しの現実主義者
…逃げろ。
渋谷にいる奴、今すぐ逃げろ。
これは、祭りじゃねえ。
戦争だ。
その一言。
それが、この狂乱の夜の本当の始まりだった。
スレッドは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
だが、その絶望の淵で。
一つの小さな、しかし確かな希望の光が灯された。
215: 名無しの実況民B
おい!見たか!?今のニュース映像!
機動隊が、突入したぞ!
ジュラルミンの大盾を構えて!
ゴブリンの群れに、正面から突っ込んでいった!
そして、その盾の隙間からサブマシンガンを乱射してる!
218: 名無しのミリタリーオタク
MP5か。
9mmパラベラム弾じゃ、貫通力は低い。
だがあの至近距離からの連射なら…!
225: 名無しの実況民B
倒した!
倒したぞ!
銃で、なんとか倒した!
ゴブリンが、光の粒子になって消えていった!
そして…
…ん?
なんだ、あれ…?
ゴブリンが消えたその場所に、何か落ちてる…。
紫色の石と…あと、汚ねえ布切れみたいなのが…。
そのあまりにも奇妙な報告。
ドロップ品。
その概念の、誕生だった。
スレッドの空気が、再び変わる。
恐怖と絶望の闇の中に、一つの強烈な欲望の光が差し込んだのだ。
そして、その欲望の炎に油を注ぐかように。
新たな「奇跡」の報告が投下された。
301: 名無しの選ばれし者
…おい、お前ら。
ちょっと聞いてくれ。
俺、今、自分の部屋にいるんだが。
さっきから、なんか頭の中に変な文字が浮かんでくるんだ。
目の前のペットボトルに意識を向けると、『ただの水』って。
机の上のPCモニターには、『少しだけ埃をかぶったモニター』って。
これ、なんだ…?俺、おかしくなっちまったのか…?
305: 名無しのゲーマー
301
鑑定スキルだ!
間違いねえ!鑑定スキルに目覚めたんだよ、お前は!
うおおおお!羨ましすぎる!
308: 名無しの選ばれし者
305
か、鑑定…?
じゃあ、ちょっと試してみる。
このスキルそのものを、鑑定してみる。
ええっと…。
『鑑定スキルを鑑定する』…。
…出た。
マジで、出たぞ。
『スキル名:鑑定』
『レアリティ:F級ユニークスキル』
310: 名-無しのゲーマー
wwwwwwwwwwwwwwwwww
F級ユニークスキルwwwwwwwww
自分で自分を鑑定してやがるwwwwwwww
最高かよwwwwwwwwwww
そのあまりにも間の抜けた、しかしこの世界の理を決定づけた一言。
それに、スレッドは爆笑の渦に包まれた。
恐怖は、完全に消え去っていた。
後に残されたのは、ただ目の前に現れたこのあまりにも巨大で、そしてどこまでも面白い「ゲーム」への、純粋な熱狂だけだった。
祭りだ。
これこそが、本当の祭りの始まりだった。
スレッドは、もはやただの掲示板ではない。
この新しい時代の、最初の、そして最も混沌とした攻略サイトへと、その姿を変えようとしていた。