第243話
午後の柔らかな日差しが、西新宿のガラス張りの摩天楼に反射して、きらきらと輝いていた。
日米合同冒険者高等学校の荘厳な校門から、希望と、そしてわずかな疲労をその顔に浮かべた数百人の若者たちが、一斉に解き放たれる。
午前中の濃密な講義。
そこで語られた、この世界の「始まり」の物語。
その壮大な歴史の奔流に、誰もが心を揺さぶられ、そして自らがその物語の新たな一ページを担うのだという、確かな自覚を胸に刻んでいた。
その熱気に満ちた人の波の中で。
桜潮静と神崎美咲は、二人並んで、ゆっくりとその流れに身を任せていた。
「はぁ…。なんだか、すごかったね、今日の授業…」
美咲が、その大きな瞳をどこか遠い場所へと向けながら呟いた。
「うん。本当に…」
静もまた、深く頷いた。
彼女たちの頭の中では、まだあの石川講師の静かな、しかしどこまでも重い言葉が反響していた。
『奇跡の一週間』。
名もなき無数の先人たちの、勇気と犠牲。
そのあまりにも大きな物語の上に、自分たちのこのささやかな日常が成り立っている。
その事実が、彼女たちの胸を温かく、そしてどこか引き締めるような、不思議な感覚で満たしていた。
「ねえ、静ちゃん」
美咲が、ふとその足を止めた。
そして彼女は、最高の笑顔で静へと向き直った。
その瞳には、もはや講義の後の感傷はない。
ただ、次なる冒険への純粋な期待だけが、キラキラと輝いていた。
「――行こうよ!」
「え?」
「決まってるでしょ!アメ横だよ!」
彼女はそう言って、静の手をぐいと引いた。
「私達も早く、『制服』手に入れなきゃ!」
そのあまりにも力強い一言。
それに、静の心もまた確かな光を取り戻した。
そうだ。
感傷に浸っている暇などない。
私達の物語は、まだ始まったばかりなのだから。
「うん!」
静は、力強く頷いた。
そして二人は、その足で電車へと乗り込んだ。
目指すは、上野。
あらゆる欲望と奇跡が取引される、究極のテーブル。
冒険者たちの聖地へ。
◇
JRの高架下。
太陽の光が、ほとんど届かない薄暗い一角。
そこは、相変わらず混沌としたエネルギーに満ち溢れていた。
ベンダーたちの怒号。
「さあ、買った買った!今日採れたてのゴブリンの耳だよ!一個100円!」
探索者たちの、真剣な値切り交渉の声。
「オヤジ、このレアアックス、もう少しどうにかならねえか?こっちの懐も、寂しいんだよ」
そして、そこかしこから漂ってくる、得体のしれない食べ物の匂い。
串焼きの香ばしい醤油の香り。
謎の緑色の液体の、甘ったるい匂い。
そのあまりにも猥雑で、そしてどこまでも生命力に満ち溢れた光景。
それに、美咲はその大きな瞳をこれ以上ないほど見開いていた。
「わあ…!すごい…!ここが、アメ横…!」
彼女は、まるで初めて遊園地に来た子供のように、きょろきょろと周りを見渡している。
静もまた、その熱気に少しだけ気圧されそうになっていた。
彼女たちが、その人の波をかき分けるようにしてフリマの入り口へと足を踏み入れた、その瞬間。
彼女たちの目に、一つのあまりにも見慣れた、そしてどこか懐かしい光景が飛び込んできた。
一つの露店の前に、ひときわ大きな人だかりができていた。
その中心で、一人の威勢のいい、しかしその目の奥が全く笑っていない商人が、声を張り上げている。
「さあ、来たよ来たよ!冒険者学校の新入生さん、いらっしゃい!あんたたちのための『制服』、ここに用意してあるぜ!」
そのあまりにも商魂たくましい口上。
その彼の目の前に、山のように積まれているのは、二つの小さな箱。
その中身を、静も美咲も誰よりもよく知っていた。
【清純の元素】と、【元素の円環】。
「さあ、買った買った!これさえあれば、あんたも今日から一人前の冒険者だ!さあ、悩んでるそこのお嬢ちゃんたち!あんたたちもどうだい!」
その商人の声に誘われるように。
彼女たちと同じ冒険者学校の制服を着た新入生たちが、その露店にむらがっていた。
彼らは皆、希望に満ちた目をしていた。
この投資が、自らの未来を変えてくれると信じて。
「わあ、本当に制服みたいだね」
美咲が、感心したように言った。
二人は、その行列の最後尾に並んだ。
そして、彼女たちはその行列の中で交わされている会話に、耳を澄ませた。
それは、彼女たちがこれから直面するであろう、この世界の厳しい「現実」だった。
「…おい、マジかよ。このセット、15万円もするのかよ…」
一人の少年が、その値札を見て青ざめている。
「数ヶ月前は、4万円で揃ったらしいぜ?先輩が言ってた」
「まじかよ、やばすぎる…。雷帝ファンドの100万、ほとんどこれで消えちまうじゃねえか…」
「まあ、補助金で7万5千円は戻って来るけど…。それにしても、初心者向け装備の高騰、やばすぎるだろ…」
そのあまりにもリアルな悲鳴。
それに、美咲は少しだけ不安そうな顔を浮かべた。
だが、静はその隣で、冷静にその状況を分析していた。
(…なるほど。JOKERさんの、影響か)
彼女は、思った。
彼がネクロマンサービルドを始めたことで、初心者向けの装備の需要が爆発的に高まった。
その結果、市場の価格が高騰している。
一人の英雄の、気まぐれな一手。
それが、こうして名もなき新人たちの懐を直撃している。
その世界の皮肉な仕組み。
それに、彼女はただ静かにため息をついた。
やがて、彼女たちの番が来た。
二人は、そのなけなしの、しかし自らの力で稼いだF級ダンジョンの戦果と、雷帝ファンドからの軍資金の一部を支払い、その二つの小さな、しかし彼女たちの未来を大きく変えることになるであろうユニークアイテムを手に入れた。
そして彼女たちは、ギルドに提出するための「領収書」を、忘れずに受け取った。
「…よしっ!第一関門突破だね!」
美咲が、その二つの箱を宝物のように抱きしめながら言った。
「じゃあ次は、本格的な装備を探しに行こう!」
「うん!」
静も頷いた。
だが、このあまりにも広大で、そして混沌とした市場の中で。
どこに、自分たちのそのあまりにも特殊なビルドに合った装備が売っているのか。
彼女たちには、見当もつかなかった。
二人が途方に暮れていた、その時。
静の脳裏に、一つの記憶が蘇った。
それは、あのA級探索者JOK-ERが、配信の中で言っていた言葉だった。
『アメ横で迷ったら、まず案内所に行け。あそこのオヤジは、口は悪いが腕は確かだ』
「…美咲お姉様」
静が言った。
「案内所に行ってみよう」
◇
アメ横の喧騒から少しだけ離れた、薄暗い一角。
そこに、その案内所はひっそりと、しかし確かな存在感を放って佇んでいた。
そこは、観光客向けの綺麗なカウンターではない。
ただ、古びた長机が一つ置かれ、その上には、おびただしい数のダンジョンマップや手配書の類が、山のように積まれているだけ。
そして、その情報の山の向こう側で。
一人の元B級探索者だという、眼帯をつけた初老の男性が、面倒くさそうに新聞を読んでいた。
静と美咲は、そのあまりにも威圧的なオーラを放つ男の前に、おずおずと立った。
「…あの」
静が、声をかける。
それに、男は新聞から目を離すことなく答えた。
「…なんだい、お嬢ちゃんたち。道でも聞いたのかい?」
「いえ、そうじゃなくて…」
美咲が、勇気を振り絞って言った。
「私達、装備を探しに来たんです!」
「ほう?」
男は、初めてその鋭い片目を彼女たちへと向けた。
「どんな装備をだい?」
「えっと…」
美咲が、説明する。
「私は、盗賊なんですけど、スパークを使うビルドで…」
「そして、この子は無職で、オーラ特化のサポーターで…」
そのあまりにもセオリーから外れたビルドの説明。
それに、男の片眉がぴくりと上がった。
彼は、新聞をテーブルの上に置くと、その大きな体で彼女たちをじろじろと、値踏みするように眺め始めた。
その視線に、二人は少しだけ身を縮こまらせる。
やがて、男はふっとその口元を緩ませた。
その顔は、もはやただの怖いオヤジではない。
この市場の全てを知り尽くした、プロの顔だった。
「…へっ。面白いな、あんたたちは」
「最近のひよっこどもは、みんな教科書通りのビルドしか組まねえ。だが、あんたたちは違うらしいな」
彼はそう言うと、一本の吸いかけのタバコをその口に咥えた。
そして彼は、一つの方向をその無骨な指で指し示した。
「…それなら、あそこに行け」
「三番通りの突き当たり。一番古くて、一番汚ねえ店だ。店主のジジイは、偏屈で無愛想だが、あそこのガラクタの中には、たまに面白い『掘り出し物』が眠ってる」
「あんたたちみてえな『変わり者』には、お似合いの店だろうよ」
そのあまりにも不器用な、しかしどこまでも的確なアドバイス。
それに、二人は顔を見合わせた。
そして彼女たちは、最高の笑顔でその男に、深々と頭を下げた。
「――ありがとうございます!」
◇
教えられた通り。
三番通りの、一番奥。
そこに、その店はあった。
他の店のような、派手な装飾は一切ない。
ただ、古びた長机の上に、無数のガラクタ同然のローブやワンドが、山のように積まれているだけ。
店主は、カウンターの奥でうたた寝をしている、一人の親父だった。
その顔には深い皺が刻まれ、その手は、長年何かを作り続けてきたであろう職人のそれだった。
静と美咲は、その親父の前に立った。
そして、静が代表して声をかけた。
「…こんにちは」
「…んあ?」
親父は、眠たげな目をこすりながら顔を上げた。
そして、目の前の冒険者学校の制服を着た二人の少女を一瞥すると、面倒くさそうに言った。
「…なんだい、お嬢ちゃんたち。冷やかしかい?」
「いえ、買い物です」
静は、単刀直入に言った。
「私達のビルドに合った装備を、一式揃えたいんです」
「ほう?」
親父の目に、わずかに興味の色が浮かんだ。
「どんなビルドだい?」
美咲が、誇らしげに答える。
「私は、スパーク使いの盗賊です!」
静が、続ける。
「私は、オーラ特化の無職です」
その二人の答え。
それに、親父は驚いたように目を見開いた。
そして彼は、ニヤリと笑った。
その顔は、もはやただの眠たげな老人ではない。
この市場で何十年も生き抜いてきた、プロの商人の顔だった。
「…へっ。面白いな、あんたたちは」
「その歳で、もう自分の道が見えてるのかい」
彼はそう言うと、カウンターから立ち上がった。
「分かった。その心意気に免じて、俺が最高の『掘り出し物』を見繕ってやるよ」
彼はそう言うと、店の奥のガラクタの山を漁り始めた。
そして彼は数分後、九つの、みすぼらしい、しかし確かな魔力を秘めた装備を、カウンターの上に並べた。
頭、胴、手、足の革鎧とローブ。
そして、静のための小さな円形の盾。
「ほらよ。こいつらはどうだい?」
「どれも、基礎性能は大したことねえ。だがな、隠しMODで、回避とESとHPと、そして全耐性+5%が付いてやがる」
「…すごい」
静が、感嘆の声を漏らした。
「でもこれ、お高いんじゃ…?」
美咲が、心配そうに尋ねる。
「ああ」
親父は、頷いた。
「最近のインフレでな。このクラスの装備も、馬鹿みてえに値上がりしてやがる。普通なら、一部位1万円は下らねえな」
その言葉に、二人の顔が曇る。
9部位で、9万円。
彼女たちのなけなしの軍資金では、ギリギリだ。
だが、親父はそこで、ニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「…だがな」
「あんたたちみてえな面白いひよっこから、ふんだくるほど俺も落ちぶれちゃいねえよ」
彼はそう言うと、その無骨な指で一つの数字を示した。
「9部位で9万円だけど、まけて8万5千円で良いよ」
「その代わり」と、彼は続けた。
その瞳には、厳しい、しかしどこまでも温かい光が宿っていた。
「――冒険者、頑張ってね」
そのあまりにも不器用な、しかしどこまでも優しいエール。
それに、二人の瞳がわずかに潤んだ。
そして彼女たちは、最高の、そして心からの元気な声で答えた。
「――はいっ!」
二人は、そのなけなしの、しかし大きな、大きな軍資金を支払い、その九つの宝物を受け取った。
彼女たちの本当の冒険が、今、始まった。
その輝かしい未来の始まりを、彼女たち自身だけがまだ知らない。