第242話
翌日の朝。
西新宿の空は、厚い雲に覆われ、梅雨明け前のじっとりとした湿気が、アスファルトの匂いを濃くしていた。
桜潮静と神崎美咲は、臨時学生寮となっているビジネスホテルの豪華なラウンジで、朝食をとっていた。
目の前には、ギルド所属の栄養管理士が監修したという、彩り豊かなビュッフェが並んでいる。温かいパンの香ばしい匂いと、新鮮なフルーツの甘い香り。昨日までの入院生活では決して味わうことのできなかった、ささやかな、しかし確かな贅沢。
「わあ、パンケーキがある!静ちゃん、見て!」
美咲が、子供のようにはしゃぎながら、焼きたてのパンケーキが山と積まれた皿を指さす。
「ふふっ、本当に美味しそうだね、美咲お姉様」
静もまた、その無邪気な笑顔につられて微笑んだ。
昨日の初陣の興奮と、レベルアップによる高揚感。そして何よりも、この新しい「日常」への期待感。二人の少女の周りには、希望に満ちたキラキラとした空気が流れていた。
朝食を終えた二人は、他の新入生たちと共に、学校の巨大な講義棟へと向かう。
今日の午前中は、全クラス合同の必修講義。
テーマは、『世界史(ダンジョン出現以前と以後)』。
二人が指定された巨大な階段教室の席に着くと、やがて講義の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
教壇に立ったのは、白髪を綺麗に撫でつけ、ツイードのジャケットを上品に着こなした初老の男性だった。その顔には深い皺が刻まれ、その瞳の奥には、この世界の黎明期をその目で見てきた者だけが持つことのできる、深い、深い叡智の光が宿っていた。
「諸君、おはよう」
講師のその静かな、しかしどこまでもよく通る声が、数百人の生徒たちが集う広大な講義室の隅々にまで響き渡った。
「私は石川という。しがない歴史学者だ。そして、君たちと同じ元A級の探索者でもある。今日から数回にわたって、君たちがこれから生きるこの世界の『成り立ち』について、話をさせてもらう」
そのあまりにも落ち着いた、そしてどこか学者然とした口調。
生徒たちは、少しだけ拍子抜けしたような、しかし同時に、その静かな権威に自然と背筋を伸ばしていた。
石川と名乗ったその講師は、ARパネルを操作し、講義室の巨大なホログラムモニターに、一枚のどこにでもあるような、ありふれた家族の写真を映し出した。
遊園地で、笑顔でピースサインをする父親と母親と、そして二人の子供たち。
「――これは、12年前の写真だ」
石川は、静かに語り始めた。
「君たちのほとんどがまだ生まれていないか、あるいは物心もついていない頃の世界。我々が、『ダンジョン出現以前(P.D. - Pre-Dungeon)』と呼ぶ時代の光景だ」
「この頃の世界は、どうだったか。君たちの誰も知らないだろう。だから、教えよう。この頃の世界は、驚くほど退屈だった」
そのあまりにも意外な一言。
それに、生徒たちがざわめいた。
「我々の世界は、完成されすぎていた。科学は、その頂点に達し、世界のほとんどの謎は解き明かされたと信じられていた。空を飛ぶ車も、不老不死の薬も、そこにはなかった。ただ、昨日と同じ今日が、そして今日と同じ明日が、永遠に続くと誰もが信じて疑わなかった」
「だが」と、彼は続けた。
その声のトーンが変わる。
「そのあまりにも長すぎた平和な午睡は、ある日、唐突に終わりを告げた」
モニターの平和な家族写真が、ノイズと共に消える。
そして、次に映し出されたのは、世界中の都市が炎と黒煙に包まれている、衝撃的な映像のモンタージュだった。
「――10年前。ある日を境に、F級ダンジョンへのゲートが、世界各地に同時に出現しました」
彼の声が、講義室の静寂を切り裂く。
「そして、それと同時に、もう一つの奇跡が起こった。ユニークスキルを持つ人達が、大量に発生したのです。いや、この表現は正しくないな」
彼は、自嘲気味に笑った。
「これは、後に分かる事ですが、その日、この星に生きる赤ん坊から老人まで、全ての人間が、その魂に等しく一つのユニークスキルを付与されたのです。そして、それ以降に生まれた子ども全てにも、ユニークスキルがある事が判明しました」
「世界は、変わった。我々人類は、否応なく新たなステージへと、その歩みを進めることを余儀なくされたのです」
講義室が、水を打ったように静まり返る。
生徒たちは、息をすることも忘れ、ただその世界の「始まり」の物語に聞き入っていた。
「そして、その世界の混乱の中で、最も早く、そして最もクレバーに動いたのが、二つの国でした」
石川は、モニターに二つの国旗を映し出した。
星条旗と、日の丸。
「日本とアメリカです。両国は、この未知なる脅威を、ただの災害として封鎖するのではなく、新たな『資源』として、その価値をいち早く見抜いた。そして、軍隊をその内部に派遣したのです。銃でゴブリンを制圧し、そこからドロップした魔石や装備品を持ち帰るために」
モニターに、当時の極秘映像が映し出される。
最新鋭のアサルトライフルを構えた、自衛隊員たち。
彼らが、洞窟の中で緑色の醜い生命体…ゴブリンの群れと対峙している。
銃声が響き渡る。
だが、その弾丸は、ゴブリンたちの強靭な皮膚に弾かれていく。
そのあまりにも衝撃的な光景。
「当初、我々の通常兵器は、ほとんど意味をなさなかった。だが、その中で我々は、最初の『発見』をする」
「鑑定です」
「今は、AR内蔵のコンタクトレンズやメガネで、誰でも簡単にできますが、当初、鑑定スキルはF級のユニークスキルでした。幸い、その該当者が国民の中に沢山いた。この中にいる皆さんの中にも、そのスキルを持っている人はいるでしょう。ですが、そういう人達が、一つ一つ手作業でドロップ品を鑑定していったのです」
「そして彼らは、発見した。スキルジェムを。そして、その使用方法を解明し、レベルアップという概念を経験し、そして我々の魂の設計図…パッシブツリーの存在を開拓していったのです」
「その全ての発見が、たった一週間で行われました」
「そして、日本とアメリカの政府は悟った。これは、自衛隊やアメリカ軍だけでは手に負えない。民間の力が必要だと」
「そして彼らは、世界が驚愕する一つの決断を下す」
「法制度の制定を待たずして、ダンジョンを一般に開放したのです」
「これは、他のアメリカや日本以外の国々が、まだゲートを封鎖中で、探索すらしていない時期だったので、世界に非常に大きな衝撃を与えました」
「そして、魔石の圧倒的に優位な資源としての価値も、この一週間で判明したと言われています」
「我々はこの最初の、あまりにも濃密で、そして奇跡に満ちた一週間を、こう呼んでいます」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、その歴史の転換点となったその言葉を告げた。
「――いわゆる、『奇跡の一週間』ですね」
モニターに、新たな映像が映し出される。
それは、当時の薄暗い研究室の記録映像だった。
一人の研究者が、バッテリーが切れた軍用のトランシーバーの横に、一つの紫色の魔石を置く。
そして彼は、その魔石にただ念じた。
『充電しろ』と。
その瞬間。
魔石が、まばゆい光を放ち、トランシーバーの充電ランプが、一瞬で満タンになった。
「このように、魔石の利便性に、アメリカと日本は気づいたのです。バッテリーに魔石を近づけて、『充電しろ』と命じると、一瞬で充電される。コップの水に、『この水を沸騰させろ』と念じて魔石を入れれば、瞬時に沸騰させる。これは、新時代のエネルギー源だとね」
そのあまりにも衝撃的な、そしてどこまでも希望に満ちた発見。
生徒たちは、ただ言葉を失っていた。
静は、その講義を聞きながら、隣に座る美咲の横顔を、そっと盗み見た。
彼女は、その大きな瞳をこれ以上ないほどキラキラと輝かせ、その物語に聞き入っていた。
その横顔に、静は思った。
(…そうだ)
(この奇跡の一週間があったから)
(あの高価な新薬も、生まれたんだ)
(だから、美咲お姉様は、今ここにいられるんだ…)
彼女の胸の中に、温かい感謝の念が込み上げてくるのを感じていた。
やがて、講義の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
石川講師は、その静かな、しかし力強い声で、その日の授業を締めくくった。
「――この奇跡の一週間。それが、君たちが今立っているこの世界の礎だ」
「そして、忘れるな。その礎を築いたのは、雷帝のような英雄だけではない。名もなき無数の探索者たちの、勇気と犠牲の上に成り立っているのだということを」
「君たちは、その歴史のバトンを受け継いだ。これから先の10年の歴史を創るのは、君たち自身だ」
「今日の授業はここまで。午後は自由行動だ。ダンジョンに行くもよし、仲間と語り合うもよし。好きに過ごせ」
「ただし」と、彼は最後に付け加えた。
その瞳には、厳しい、しかしどこまでも温かい光が宿っていた。
「――死ぬなよ、ひよっこども」
そのあまりにも不器用な、しかし愛情に満ちたエール。
それに、教室はこの日一番の、大きな、そして希望に満ちた拍手と笑い声に包まれた。
静と美咲もまた、その温かい空気の中で顔を見合わせ、そして笑った。
彼女たちの本当の物語が、今、始まった。
その輝かしい未来の始まりを、彼女たち自身だけがまだ知らない。