第241話
西新宿の空を貫くかのようなタワーマンションの最上階。
その広大なリビングの床から天井まで続く巨大な窓からは、宝石箱をひっくり返したかのような東京の夜景が一望できた。
神崎隼人――“JOKER”は、その光の海をただぼんやりと眺めていた。
時刻は、午後6時を少し回ったところ。
普段の彼であれば、今頃はA級ダンジョンの冷たい石の回廊を歩いているか、あるいは異空間【黄昏の港町アジール】の喧騒の中で、ハイスト前の腹ごしらえをしている時間だった。
だが、今の彼はそのどちらでもなかった。
彼は、ただ待っていた。
このあまりにも静かで、そして広すぎる部屋に、一つの温かい光が灯るその瞬間を。
彼の新しい「日常」の始まりを。
カチャリと。
静かな電子音と共に、玄関のスマートロックが解除される音がした。
そして、パタパタという軽い足音と共に、一つの明るい声がリビングに響き渡った。
「――ただいまー!」
そのあまりにも待ち望んでいた声。
それに、隼人の常にポーカーフェイスを保っていたはずの口元が、わずかに、しかし確かに緩んだ。
彼はソファからゆっくりと立ち上がると、その声の主を出迎えた。
「――おかえり」
彼のその不器用な、しかしどこまでも優しい声。
それに、玄関に立っていた少女…神崎美咲は、満面の太陽のような笑顔で応えた。
「うん、ただいま、お兄ちゃん!」
彼女は、冒険者学校の真新しい制服に身を包み、その背中には、まだ教科書やノートで膨らんだ小さなリュックサックを背負っている。
その姿は、どこにでもいるごく普通の、元気な女子高生だった。
だが、その瞳の奥に宿る光だけが、彼女がもはや「普通」ではないことを雄弁に物語っていた。
一年以上に及んだ闘病生活。その影は、もはやどこにもない。
そこにあるのは、新たな世界への期待と、そして自らの手で未来を切り拓いていくという、揺るぎない決意の輝きだけだった。
「どうだった、初日は?」
隼人は、キッチンでコーヒーを淹れながら尋ねた。
その声は、できるだけ平静を装っていたが、その奥には兄としての隠しきれない心配の色が滲んでいた。
新しい環境。
新しい人間関係。
彼女が、うまくやっていけるだろうか。
そんな親のような心配を、彼はしていた。
だが、その心配は杞憂に終わる。
「うん!すっごく楽しかったよ!」
美咲は、リュックをソファの上に放り投げると、弾むような声でその一日を語り始めた。
その声は、彼女がこの新しい世界を心の底から楽しんでいることを、何よりも雄弁に物語っていた。
「早速ね、お友達ができたんだ!桜潮静ちゃんっていうんだけどね、すっごく優しくて、綺麗な子なんだよ!」
「ほう?」
「うん!入学式で隣の席になったの!なんだか、運命って感じじゃない!?」
彼女はそう言って、てへへと笑った。
そのあまりにも無邪気な笑顔。
それに、隼人の心も温かく満たされていく。
「それでね、それでね!」
美咲の興奮は、まだ収まらない。
彼女は、身振り手振りを交えながら、その日の最大の冒険について語り始めた。
「午後の自由時間にね、静ちゃんと二人でF級ダンジョンに行ったんだ!【ゴブリンの洞窟】!」
「…大丈夫だったのか?危なくなかったか?」
隼人が、思わず真顔で聞き返す。
それに、美咲は胸を張って答えた。
「へっちゃらだよ!だってね、私達、ゴブリンを一撃で倒しちゃったんだから!」
「…なんだと?」
「本当だよ!私がスパークを唱えたら、一瞬でバーンって!すごかったんだから!」
彼女はそう言って、まるで自分が魔法を放つかのように両手を前に突き出した。
そのあまりにも子供っぽい、しかしどこまでも愛らしい仕草。
だが、隼人の思考は別の場所にあった。
(…一撃か)
彼のゲーマーとしての冷徹な脳が、その情報の本当の意味を分析し始めていた。
(F級のゴブリンとはいえ、レベル1の初期装備のスパークで一撃はありえねえ…)
(つまり、やはりあのスキルの効果は本物か…)
彼は、ゴクリと喉を鳴らした。
だが、美咲の興奮の報告はまだ終わらない。
彼女の本当の自慢は、ここからだった。
「でもね、本当にすごかったのは、私じゃないんだ!」
彼女の声のトーンが変わる。
それは、純粋な尊敬と、そして畏敬の念に満ちていた。
「静ちゃんがね、本当にすごかったんだよ!」
「彼女ね、オーラを三つも使えたんだ!」
「【迅速のオーラ】と、【活力のオーラ】と、それに【憤怒のオーラ】!三つもだよ!信じられる!?」
そのあまりにも衝撃的な一言。
それに、隼人の完璧だったはずのポーカーフェイスが、初めてわずかに揺らいだ。
彼の手に持っていたコーヒーカップが、ピクリと震える。
「…ははっ。良かったな」
彼は、なんとかそう言って笑ってみせた。
だが、その笑顔の裏側で。
彼の脳内では、常識を超えた速度で思考の歯車が回転を始めていた。
(…オーラ三種…?)
(それも、【迅速】と【憤怒】、二つの50%予約オーラを同時に…?)
(アセンダンシーもなしで?装備も、初期装備のはずだ…)
彼のA級探索者としての全ての知識と経験が、警鐘を鳴らしていた。
それは、不可能だと。
この世界の理に、反していると。
(…いや、待て)
彼の思考が、一つの可能性にたどり着く。
(不可能じゃねえ。もし、それを可能にするスキルがあるとしたら…)
彼の脳裏に、一人の聖女の姿が浮かび上がる。
鳴海詩織。
彼女が持つ、あの神の領域のユニークスキル。
【魂の聖歌】。
(…レベル要件を無視し、さらに予約効率を半減させる…)
(それくらいぶっ壊れたスキルがなきゃ、説明がつかねえ)
(つまり、あの桜潮静とかいう少女は…)
彼の思考が、そのあまりにも驚愕すべき結論へとたどり着いた。
(――詩織さんと同じ、SSS級のユニークスキル持ちか…)
彼は、そのあまりにも巨大すぎる才能の出現に、戦慄していた。
そして、同時に彼は思った。
(…とんでもない逸材が、いたもんだ…)
(美咲の最初の仲間が、そんな化け物とはな…)
彼の口元に、乾いた、そしてどこまでも楽しそうな笑みが浮かんだ。
面白い。
面白いじゃねえか。
この冒険者学校というテーブルは、俺が思っていたよりも遥かに面白くなりそうだ。
彼は、そのあまりにも多くの思考を、一度頭の隅へと追い やった。
(…まあ、気にしても仕方がないか)
そうだ。
今は、そんなことよりももっと大切なことがある。
目の前の、この愛する妹の輝かしい門出を、祝福することだ。
彼は、コーヒーカップをテーブルに置くと、美咲へと向き直った。
「それで?明日はどうするんだ?」
その兄からの優しい問いかけ。
それに、美咲は待っていましたとばかりに、その瞳をキラキラと輝かせた。
「うん!明日はね、静ちゃんとアメ横に行くんだ!」
「アメ横?」
「そう!【清純の元素】と、【元素の円環】のセットを買いに行くの!」
「他にも、色々装備を揃える予定なんだ!」
彼女はそう言って、まるで遠足の前の日の子供のように、胸を躍らせていた。
そのあまりにも微笑ましい光景。
それに、隼人は心の底から温かい気持ちになっていた。
そして彼は、兄として、そしてこの世界の先輩として、一つの重要なアドバイスを彼女に授けた。
「そうか。良かったな」
彼の声は、どこまでも穏やかだった。
「だがな、美咲。一つだけ忘れるなよ」
「ん?」
「公式ギルドでな、今、その二つのアイテムに補助金が出てるんだ。最近、初心者向けの装備が少しだけ値上がりしてるからな。その救済措置としてだ」
「だから、買ったら絶対にレシートを貰ってくるんだぞ?それを持ってギルドに行けば、代金の半額が返金されるはずだ」
そのあまりにも現実的で、そしてどこまでも優しいアドバイス。
それに、美咲はその大きな瞳をぱちくりとさせた。
そして、彼女は最高の笑顔で答えた。
その声は、まるで歌うかのようだった。
「――はーい!」
そのあまりにも元気な返事。
それに、隼人はもう何も言うことはなかった。
ただ、その愛する妹の輝かしい未来を、心の中で祈るだけだった。
彼の孤独だった戦いは、終わりを告げた。
ここから始まるのは、愛する妹と、そしてその規格外の仲間たちと共に歩む、新たな、そしてより騒がしい物語。
その確かな予感が、彼の胸を熱くさせていた。