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第238話

 

 F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】。

 その名は、探索者という存在が生まれて以来、無数の若者たちの最初の「壁」となり、そして最初の「夢」の舞台となってきた、あまりにも有名な場所。

 だが、その日の洞窟は、いつものようなF級特有の、どこか牧歌的で、それでいて初心者の命を無慈悲に刈り取る冷徹な空気とは、全く違う熱気に包まれていた。

 それは、混沌。

 そして、祭りのような狂乱の熱気だった。


「うおおおおお、行けぇ!」

「ヒール!ヒールまだかよ、クソが!」

「右翼崩れるな!タンク、ヘイト維持しろ!」


 洞窟の入り口を抜けた先にある、巨大な広間。

 そこは、もはやただのダンジョンではなかった。

 数百人という、冒険者学校の真新しい制服に身を包んだ若者たちが、ひしめき合っている。

 剣と盾がぶつかり合う甲高い金属音。

 魔法が炸裂する轟音と閃光。

 そして、ゴブリンたちの断末魔の叫びと、生徒たちの怒号や悲鳴。

 その全てが、この広大な空間で一つの巨大な不協和音となり、壁を、天井を、そして大地そのものをビリビリと震わせていた。

 まるで、古代ローマのコロッセオ。

 あるいは、地獄の釜が開いたかのような光景。

 桜潮静と神崎美咲は、そのあまりにも圧倒的なカオスの入り口で、ただ呆然と立ち尽くしていた。


「…すごいね、これ…」

 美咲が、その大きな瞳をこれ以上ないほど見開きながら呟いた。

 彼女の頬は、興奮でわずかに紅潮している。

 一年以上、無機質な病院の白い壁だけを見てきた彼女にとって。

 この、あまりにも生命力に満ち溢れた(あるいは死の匂いに満ち溢れた)光景は、あまりにも刺激的すぎた。

「うん…」

 静もまた、ゴクリと喉を鳴らしながら頷いた。

 彼女の心臓が、ドクンドクンと大きく脈打っている。

 だが、それは恐怖ではない。

 武者震いだ。

 この本物の戦場に、自分もまた足を踏み入れたのだという確かな実感。

 それが、彼女の魂を、静かに、しかし激しく高揚させていた。


 二人は、その広大な戦場を、まるで観客のようにゆっくりと眺め始めた。

 そこには、無数の「物語」があった。


 ある場所では、教科書通りの四人パーティが、見事な連携を見せていた。

 屈強な体格の戦士が巨大な盾を構え、三体のゴブリンの攻撃を、その一身に引き受けている。

 その彼が作り出したわずかな隙に、双剣を構えた盗賊が風のように駆け抜け、ゴブリンたちの背後から、その急所を的確に切り裂いていく。

 後方では、魔術師の少女が冷静に詠唱を続け、氷の矢で敵の動きを的確に阻害し。

 そして、その全てを、聖職者の少年が回復の光で優しく包み込んでいる。

 それは、決して派手ではない。

 だが、そこには仲間への絶対的な信頼があった。


 また、別の場所では。

 一人の孤独な少年が、苦戦を強いられていた。

 彼は、JOKERに憧れているのだろうか。黒いコートをその身にまとい、一本の長剣だけで、五体のゴブリンを相手にしていた。

 その動きは、確かに鋭い。

 だが、あまりにも無謀だった。

 数の暴力の前に、彼のスタミナはみるみるうちに削られていく。

 そしてついに、一体のゴブリンの棍棒が彼の体勢を崩した、その瞬間。

 他の四体のゴブリンが、そのがら空きになった背中へと一斉に襲いかかった。

「――しまっ…!」

 少年の顔が、絶望に歪む。

 だが、その彼がなすすべもなく蹂躙される、その直前。

 横から、一つの巨大な炎の壁が走り抜けた。

 ゴオオオオオオッ!

 炎は、四体のゴブリンを一瞬でその中に飲み込み、そして焼き尽くした。

「…大丈夫か、兄ちゃん!」

 炎の壁の向こう側から現れたのは、ひときわ体格の良い斧使いの男をリーダーとする、三人組のパーティだった。

「…助かった…」

 少年は、その場で膝をつき、荒い息を繰り返す。

 その光景に、静は講師が言っていた言葉を思い出していた。

『ソロは、ダンジョンに慣れるまで非推奨だ』

 そうだ。

 この世界は、決して一人では生きていけないのだ。


 そして彼女たちの視線は、広間の最も奥。

 ひときわ派手な光が乱舞する一角へと、吸い寄せられた。

 そこにいたのは、おそらく一ヶ月早くこの学校に入学したであろう、「先輩」たちのグループだった。

 彼らは、最新鋭の、そして高価なレア装備で、その身を固めている。

 そして、その手から放たれるスキルは、どれもが低レベルのそれとは思えないほどの威力を誇っていた。

 だが、その戦い方は、あまりにも非効率的だった。

 彼らは、一体のゴブリンを倒すために、必要以上の大技を連発している。

 MPのことなど、全く考えていない。

 ただ、自らの力を周囲に誇示するためだけに戦っている。

 そのあまりにも浅はかで、そしてどこか滑稽な戦いぶり。

 それに、美咲は純粋な憧れの眼差しを向けていた。


「わあ…!すごいね、あの人たち!強い!」

 だが、静はその隣で、静かに首を横に振っていた。

(…違う)

 彼女の、オーラ支援特化のその「眼」は、見抜いていた。

 あの戦い方の、その本質的な「弱点」を。

(あの人たちのMP、もうほとんど残ってない…)

(あれじゃ、ボス戦どころか、次の雑魚の群れすら相手にできない)

(ただ派手なだけ。中身がない…)

 その、冷静な分析。

 それこそが、彼女がこの世界で戦っていくための最大の武器となることを、彼女自身はまだ知らない。


 そうして彼女たちが、様々な戦いの形をその目に焼き付けていた、その時だった。

 彼女たちの、すぐ目の前の空間。

 それが、ぐにゃりと歪んだ。

 まるで、水面に投じられた小石が作り出す波紋のように。

 空間そのものが引き裂かれ、そしてそこに、一体の醜い緑色の生命体が、その姿を現した。

 一体のゴブリン。

 それは、まるでこの世界の神が彼女たち二人のために用意してくれたかのような、あまりにも唐突な、そして運命的な出会いだった。


「――あっ」

 静と美咲の声が、同時に重なった。

「ゴブリンが、出てきた…」

「…どうする?」

「…やる?」


 二人は、顔を見合わせた。

 その瞳には、同じ色が宿っていた。

 わずかな恐怖。

 そして、それ以上に大きな期待と高揚感。

 二人は、同時に深く頷いた。


「――うん、行こう!」

 美咲の声が、弾む。

「じゃあ、静ちゃん!お願い!」

「うん!」

 静は、力強く頷いた。

 そして彼女は、その両手を静かに胸の前で組んだ。

 彼女の人生で初めての、そして本当の意味での戦いが、今、始まる。


 彼女は、目を閉じた。

 そして彼女は、祈る。

 自らの魂に宿る神々の聖歌を、この戦場に響かせるために。

 彼女のその小さな唇から、静かな、しかしどこまでも透き通った詠唱が、漏れ出した。


「――迅速(じんそく)のオーラ」


 彼女がそう呟いた、その瞬間。

 彼女の全身から、若葉のような鮮やかな緑色の光が溢れ出した。

 その光は、波紋のように周囲へと広がり、隣に立つ美咲の体を、優しく包み込んでいく。

 その光に触れた、その瞬間。

 美咲の体が、明らかに軽くなった。

 世界の全てが、スローモーションのように感じられる。

 手足が、羽のように軽やかになり、思考が光のように加速していく。

 攻撃速度、詠唱速度、そして移動速度。

 その全てが、上昇する。


「すごい…!体が、軽い…!」

 美咲が、驚きの声を上げた。

 だが、静の聖歌はまだ終わらない。

 彼女は、詠唱を続ける。


「――活力(かつりょく)のオーラ」


 次に彼女の全身から溢れ出したのは、燃えるような、しかしどこまでも温かい深紅の光だった。

 その光もまた、美咲の体を包み込む。

 その光に触れた、その瞬間。

 美咲の体の奥底から、力強い生命力が湧き上がってくるのを感じた。

 傷つけられても、決して倒れることのない不屈の闘志。

 HPが、自動で回復していく。


 そして最後に。

 静は、その全ての魂を込めて、三つ目の聖歌を詠唱した。


「――憤怒(ふんぬ)のオーラ」


 彼女の全身から迸ったのは、天罰のいかづちのような黄金の光だった。

 その光は、美咲のその手に握られた貧相な木のワンドに宿った。

 ワンドが、共鳴するように激しく脈打ち、その先端に、パチパチと金色の雷の火花を散らし始めた。

 美咲の全ての攻撃に、追加の雷ダメージが付与される。


 緑、赤、そして金。

 三色のオーラが、静と美咲、その二人を中心に渦を巻き、そして一つの完璧なハーモニーを奏でていた。

 そのあまりにも神々しい光景。

 それに、彼女たちの周囲で戦っていた他の生徒たちが、気づいた。


「…おい、なんだあの光は…」

「誰か、オーラ張ったのか…?」

 そして彼らは、気づいてしまった。

 自らの体に起こった、その異常なまでの変化に。


「…あれ?なんか俺、速くなってね!?」

 一体の戦士の少年が、驚きの声を上げた。

 彼の振るう剣が、明らかにこれまでとは違う速度で、空気を切り裂いている。

「うそ!?私のヒールも、なんかいつもより回復量が多い気がする…!」

 一人のヒーラーの少女が、自分の掌を信じられないというように見つめている。

「うおおおおおお!なんだこれ!力がみなぎってくるぜ!」

「俺、今、最強じゃん!俺TUEEEEEEEE状態だ、これ!」


 そのあまりにも突然な、そしてあまりにも強力な力の奔流。

 それに、生徒たちは歓喜の雄叫びを上げた。

 彼らは、その力の源泉がどこにあるのか知らない。

 ただ、この奇跡の祝福を、その全身で享受していた。

 その、あまりにも微笑ましい光景。

 それに、静と美咲は顔を見合わせた。

 そして二人は、同時にくすくすと笑った。

「…ふふっ」

「…えへへっ」


「じゃあ、行くよ、静ちゃん!」

 美咲が言った。

 その声には、もはや一切の不安も迷いもない。

 ただ、絶対的な自信だけが満ち溢れていた。

 彼女は、その雷の力を宿したワンドを、一体の哀れなゴブリンへと向けた。

 そして彼女は、その人生で最初の、そして本当の意味での攻撃魔法を、詠唱した。


「――いっけえええええええええ!」


 スキル【スパーク】。

 彼女のワンドの先端から放たれたのは、小さな、しかしその奥に神の雷霆を宿した、無数の黄金の火花だった。

 4つの投射物が、ランダムな軌道を描きながら、しかしその全てが寸分の狂いもなく、一体のゴブリンへと吸い込まれるように殺到していく。

 その一発一発が、彼女のユニークスキル【雷神(ライジン)】の効果によって、常に「最大値」のダメージを叩き出す。

 そして、それに静の【憤怒のオーラ】がもたらす追加の雷ダメージが、上乗せされる。

 その、あまりにも理不尽なダメージ計算。

 それに、F級の最弱のモンスターが耐えられるはずもなかった。


 ドッッッッッッッッ!!!


 もはや、それは魔法の音ではなかった。

 ただの、純粋な爆発音。

 ゴブリンは、断末魔の悲鳴を上げる暇すら与えられなかった。

 ただ、その醜い緑色の体を一瞬で光の粒子へと変え、この世界から完全に消滅した。

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、まだ湯気の立つワンドを構えたまま呆然と立ち尽くす一人の少女の姿だけだった。


「……………」

「…え?」

 美咲の口から、間の抜けた声が漏れた。

 彼女は、自らが今引き起こした現象を、まだ理解できずにいた。

 そんな彼女に、静が駆け寄った。

 そして、その手を強く、強く握りしめた。

 その瞳には、最高の、そして心からの祝福の光が宿っていた。


「――やったね、美咲お姉様!」

「初めてのモンスター討伐、成功だよ!」


 その、静の弾むような声。

 それに、美咲はようやく我に返った。

 そして、彼女のその能面のような顔に、これ以上ないほどの、満開の花のような笑顔が咲いた。


「――うんっ!やったー!」


 二人は、その場で抱き合った。

 そして、子供のようにぴょんぴょんと飛び跳ね、そのささやかな、しかし彼女たちにとっては世界の何よりも大きな勝利を、喜び合った。

 二人の少女の、本当の冒険が今、始まった。

 その輝かしい未来を、まだ彼女たち自身だけが、知らなかった。



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