第237話
東京、西新宿。
かつては、ただのビジネス街。だが、今や日本の、いや世界の「ダンジョン」の中心地として、その様相を完全に変貌させたこの街に、一つの巨大な学び舎がそびえ立っていた。
日米合同冒険者高等学校。
そのあまりにも壮大な、そしてどこか現実離れした白亜の校舎。その最も巨大な講堂は、今日この日、新たな時代の幕開けを告げる熱気と緊張感に包まれていた。
二ヶ月目の新入生入学式。
全国から、そして世界から集まった、才能と野心に満ち溢れた数百人の若者たちが、その硬い椅子に座り、固唾を飲んでその瞬間を待っている。
その無数の期待と不安が入り混じる群衆の中で。
桜潮静は、ただ一人、その身を小さく縮こまらせていた。
鹿児島から、たった一人で上京してきた16歳の少女。
彼女の心は、これから始まる未知なる冒険への期待よりも、むしろこの圧倒的な場の空気に気圧される、純粋な不安の方が大きかった。
(…すごい場所)
彼女は、周りを見渡した。
誰もが、自信に満ち溢れているように見える。
すでに仲間同士でグループを作り、これからの学園生活について楽しそうに語り合っている者たち。
あるいは、一人静かに目を閉じ、自らの魂と向き合い、闘志を燃やしている者たち。
その誰もが、自分がこの世界の「主人公」であると信じて疑っていない。
その、あまりにも眩しい光。
それに、静の心は、わずかに、しかし確実に萎縮していく。
(私に、本当にできるのかな…)
彼女の脳裏に、旅立つ日のあの鹿児島中央駅の光景が蘇る。
市長、地元の名士たち、そして友人たちの、涙と期待に満ちたあの眼差し。
『君は、我々の誇りだ』
『君の力が、この国を、世界を救う光となる』
そのあまりにも重く、そして温かい期待の言葉。
それが今、ずしりと彼女の細い肩にのしかかっていた。
彼女の魂に宿ったSSS級スキル、【魂の聖歌】。
その力の本当の意味も、使い方すらも、彼女はまだ理解していない。
ただ、その力が自分をこの場所に連れてきた。
その、あまりにも大きな運命の奔流。
それに彼女は、ただ流されることしかできなかった。
彼女が、そんな不安の海に沈みかけていた、その時だった。
ふと、隣の席に一つの気配がした。
彼女は、おそるおそるその隣へと視線を移す。
そこに、一人の少女が静かに座っていた。
ショートカットの、艶やかな黒髪。
病的なまでに白い、しかしどこかガラス細工のような儚い美しさを持つ、陶器のような肌。
そして、何よりも印象的だったのは、その瞳だった。
大きな、大きな黒い瞳。
その奥には、深い、深い悲しみの色と、しかしそのさらに奥で、決して消えることのない、気高く、そして力強い生命の炎が、静かに燃えていた。
その少女は、ただ真っ直ぐに前を見つめている。
その横顔は、まるで一枚の宗教画のように美しかった。
静は、その少女から目が離せなくなった。
彼女もまた、自分と同じように一人でいるようだった。
だが、彼女から感じるのは孤独ではない。
むしろ、その逆。
世界にたった一人で立つことを恐れない、絶対的な「孤高」。
そのあまりにも対照的な在り方。
それに、静は言いようのない憧れのような感情を抱いていた。
(…すごいな、あの子)
(全然、物怖じしてない…)
彼女がそんなことを考えていた、その時。
不意に、その少女がこちらを向いた。
二人の視線が、交差する。
静の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
彼女は、慌てて視線を逸らそうとする。
だが、その少女は、その能面のような顔に、ほんのわずかな、しかし確かな興味の色を浮かべると、その薄い唇をゆっくりと開いた。
その声は、か細く、しかしどこまでも透き通っていた。
「…あの」
その、たった一言。
それが、二人の運命が初めて交わった瞬間だった。
静は、驚いて顔を上げた。
そして彼女は、どもりながらも、何とかその言葉を返した。
「は、はい…!」
「…あなたも、新入生?」
「う、うん。そうだよ」
「…そう」
少女はそう言うと、再び視線を前へと戻した。
会話が途切れる。
気まずい沈黙。
その沈黙を破ったのは、静の方からだった。
彼女は、勇気を振り絞って尋ねた。
「あ、あの!私、桜潮静って言います!鹿児島から来ました!よろしくお願いします!」
彼女はそう言って、深々と頭を下げた。
そのあまりにも生真面目な自己紹介。
それに、隣の少女の表情が、わずかに緩んだような気がした。
そして彼女は、再び静へと向き直ると、その小さな声で答えた。
「…神崎美咲」
「…よろしく」
その短い、しかしどこか温かみのある言葉。
それに、静の心も少しだけほぐれていくのを感じた。
「神崎さん、だね」
「うん」
「私、静って呼んで!あなたは、美咲ちゃんでいいかな?」
「…うん」
「美咲ちゃんは、いくつ?私、16」
「…17」
「えっ!?」
静は、思わず声を上げた。
「い、一個上なんだ…!」
「うん」
「そ、そっか…。じゃあ、先輩だね…」
「別に、そんなんじゃ…」
「ううん!先輩は、先輩だよ!」
静はそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、美咲お姉様って呼んでもいいですか?」
そのあまりにも唐突な、そしてどこか時代がかった呼び方。
それに、美咲の陶器のような白い頬が、ほんのりと赤く染まった。
彼女は、慌てて俯いた。
そして彼女は、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……いや、それは、ちょっと…」
「照れるから…」
その、あまりにも初々しい反応。
それに、静は心の底から愛おしさを感じていた。
そして彼女は、くすくすと楽しそうに笑った。
その笑い声は、この張り詰めた講堂の空気の中で、一つの小さな、しかし確かな温かい光となっていた。
彼女たちの、友情の始まりだった。
◇
やがて、入学式が始まった。
壇上に、二人の男が立った。
一人は、日本の光の英雄、“雷帝”神宮寺猛。
もう一人は、アメリカからホログラムで参加している絶対的な経済の覇者、“シリコンバレーの雷神”イーサン・スターリング。
二人の理事長による祝辞。
その内容は、あまりにも対照的だった。
神宮寺猛は、その力強い声で、希望と協調を説いた。
「未来の英雄たちへ。恐れることはない。君たちの前には、無限の可能性が広がっている。この学び舎で、最高の仲間たちと共に、自らの物語を紡ぎ出してほしい」
その、王道の英雄の言葉。
それに、多くの生徒たちがその瞳を輝かせた。
対して、イーサン・スターリングの言葉は、どこまでも冷徹で、そして現実的だった。
「未来を築く者たちへ。はっきりさせておこう。これは、学校ではない。インキュベーターだ。我々は、施しはしない。勝者に投資する。君たちの仲間は、友人ではない。競争相手だ。何人かは、壊れるだろう。それも、プロセスの一部だ」
そのあまりにも過酷な実力主義の宣言。
それに、いくつかの生徒たちがその顔を青ざめさせた。
その二つの、全く異なる哲学。
それを聞きながら。
静は、隣に座る美咲の横顔を、そっと盗み見た。
彼女は、ただ真っ直ぐに前を見つめている。
その大きな瞳には、恐怖も絶望もない。
ただ、これから始まる戦いへの、静かな、そして揺るぎない覚悟の光だけが宿っていた。
その、あまりにも強い光。
それに、静は再び心を奪われていた。
◇
入学式が終わり。
彼らは、すぐに最初の授業へと案内された。
そこは、最新鋭のARシステムが完備された、巨大な講義室だった。
教壇に立つのは、元A級の戦士クラスのベテラン探索者だった。
その顔には無数の傷跡が刻まれ、その声はどこまでもしゃがれていた。
「ようこそ、ひよっこども」
講師は、その悪態から授業を始めた。
「俺は、お前らに夢を語るつもりはねえ。ただ、死なないための最低限のルールを、叩き込んでやる。それだけだ」
彼はそう言うと、ARパネルを操作し、一枚のダンジョンの断面図を表示させた。
「まず、基本中の基本だ。ダンジョンの構造を理解しろ。どこに敵が湧きやすく、どこに罠が仕掛けられているか。その全てを予測しろ。そして、常に最悪の事態を想定しろ」
「次に、フラスコだ。HPが減ったら、迷わず飲め。ケチるな。お前らのそのちっぽけなプライドより、命の方がよっぽど価値がある」
「そして、ポータルだ。危ないと思ったら、迷わず逃げろ。撤退は、敗北じゃねえ。次勝つための、最高の戦略だ。それを、恥じるな」
そのあまりにも実践的で、そしてどこまでも厳しい言葉。
それに、生徒たちはゴクリと喉を鳴らした。
「最後に、クラス選択についてだ」
講師は、言った。
「お前らの中には、もう自分がどんな英雄になるのか、その青臭い妄想を固めている奴もいるだろうな」
そのあまりにも的を射た一言。
それに、教室のあちこちから、くすくすと笑い声が漏れた。
「だが、よく考えろ。この世界でクラスを気軽に変更できるのは、あのJOKERみてえな【複数人の人生】持ちか、あるいは転生の林檎みてえな神話級のアーティファクトを手に入れられる、一握りの幸運な馬鹿だけだ。お前らが一度選んだ道は、基本的にはもう引き返せない。だから、慎重に、そして自らの魂の声に耳を澄ませて、選べ」
その、重い言葉。
それに、生徒たちは深く頷いた。
「…じゃあ、今日の退屈な授業は、これくらいにしてやる」
講師はそう言うと、ニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「午後は、自由行動だ。今後は午前も任意の授業になるが、最初のうちは出ることをお勧めするぜ。じゃあ、ひよっこども。ダンジョンに行ってこい。そして、死なない程度に、この世界の本当の地獄を味わってこい」
そのあまりにも乱暴な、しかしどこか愛のあるエール。
それに、教室はこの日一番の大きな、そして希望に満ちた笑い声に包まれた。
◇
授業が終わり。
生徒たちが、それぞれの仲間と、あるいは一人でダンジョンへと向かっていく。
その喧騒の中で。
静は、意を決したように、隣の席の美咲へと向き直った。
「あ、あの!美咲お姉様!」
その呼びかけに、美咲が少しだけ頬を赤らめながら振り返る。
「もしよかったら…。その、パーティ組まないかな…?」
その、静の震える声での誘い。
それに、美咲は一瞬だけきょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間。
彼女のその能面のような顔に、これ以上ないほどの美しい花が咲いた。
「――うん!喜んで!」
その、あまりにも嬉しそうな返事。
それに、静の心もまた、温かい光で満たされていくのを感じた。
二人の冒険が、今、始まった。
◇
ダンジョンへと向かう電車の中。
二人は並んで座り、他愛のない、しかし彼女たちにとっては世界の何よりも重要な話をしていた。
「ねえ、静ちゃんはどんなビルドにするの?」
美咲が、尋ねる。
それに、静は少しだけ照れくさそうに答えた。
「私は、オーラ特化のサポーターになろうと思ってるんだ。私のこのスキル…【魂の聖歌】は、たくさんのオーラを張ることができるから」
「それで、メインの攻撃スキルは、これにしようかなって」
彼女は、ARウィンドウに一つのスキルジェムの情報を表示させた。
「【スマイト】。近接攻撃なんだけど、敵にヒットすると、周囲の味方に追加の雷ダメージを与えるオーラを展開するんだ。私のオーラ支援のコンセプトと、合ってるかなって」
「へえ、すごいね!」
美咲が、感心したように言った。
「じゃあ、私が前衛で戦うから、静ちゃんは後ろから支援をお願いね!」
「え?美咲お姉様が前衛…?」
静が、驚いて聞き返す。
「うん!」
美咲は、力強く頷いた。
「私、スパーク使いになるつもりなんだ!このユニークスキル…【雷神】と、すごく相性がいいって、お兄ちゃんが言ってたから!」
彼女はそう言って、自らのスキルの情報を表示させた。
その、あまりにも暴力的なまでの性能。
それに、静は息を呑んだ。
「ダメージが、常に最大値…?すごい…」
「うん!だから私、最強の魔法使いになるんだ!」
その、あまりにも力強い宣言。
それに、静はただ圧倒されるだけだった。
そして彼女は、心の底から思った。
このか細い、しかしどこまでも強い少女の隣で。
彼女を支え、そして守ることができる、最高のサポーターになりたいと。
◇
やがて、二人は目的の駅へとたどり着いた。
そこは、F級ダンジョン【ゴブリンの洞窟】の入り口だった。
ゲートの前には、彼女たちと同じように、冒険者学校の制服を着た大勢の生徒たちが殺到していた。
その喧騒の中心で。
一人の講師が、メガホン片手に叫んでいた。
「はい、そこのお嬢ちゃんたち!立ち止まらない!他の人の迷惑にならないように、どんどん中に入ってー!」
そのあまりにも活気のある、そしてどこかカオスな光景。
それに、二人は顔を見合わせた。
そして、彼女たちは同時に笑った。
彼女たちは意を決すると、そのダンジョンへと繋がるポータルの、その光の中へと、その最初の一歩を踏み出した。
二人の少女の、小さな、しかしこの世界の未来を大きく変えることになるであろう冒険が、今、始まった。