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第236話

 桜潮静(さくらしお しず)の日常は、凪いだ海のように穏やかだった。

 窓の外に広がるのは、雄大な桜島と、キラキラと太陽の光を反射する錦江湾。潮の香りを乗せた風が、教室のカーテンを優しく揺らす。鹿児島市立鹿児島女子高等学校、2年B組。それが、彼女の世界だった。

 放課後は、吹奏楽部でクラリネットを吹く。仲間たちと、他愛のない話で笑い合う。家に帰れば、母の作る温かい夕食が待っている。

 それが、彼女の全てだった。

 不満など、何一つなかった。この、どこまでも続くかのような穏やかで優しい時間が、彼女は好きだった。


 その凪いだ水面に、最初の小石が投じられたのは、ある日の昼休みのことだった。


「ねえねえ、静! 見た、これ!?」


 親友の美紀みきが、興奮した様子でスマートフォンの画面を静に見せてきた。彼女は快活で、少しだけおっちょこちょいで、そして誰よりもこの世界の「熱狂」に敏感な女の子だ。

 画面に映し出されていたのは、日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』の、公式発表のニュースだった。

 その見出しに、静の心臓がわずかにドクンと音を立てた。


『【速報】日米合同『冒険者高等学校』設立決定!未来の英雄を、国家が育てる時代へ!』


「すごいよね!冒険者の学校だよ!学費もタダで、しかもお給料まで貰えるかもしれないんだって!」

 美紀は、その大きな瞳をキラキラと輝かせながらまくし立てる。

 もう一人の親友、ゆきも、その隣で静かに頷いていた。彼女は物静かで、常に冷静な分析家。静とは、正反対の性格。

「…確かに、画期的な試みね。雷帝ファンドによるベーシックインカムと、スターリング・ファンドによるインセンティブ。セーフティネットと競争原理を両立させた、非常にクレバーなシステムだと思うわ」

「でしょー!?」

 美紀が、声を上げる。

「ねえ、私たちもさ、ユニークスキル判定、受けてみない?」


 その、あまりにも唐突な提案。

 それに、静は少しだけ戸惑った。

 冒険者。

 それは彼女にとって、テレビの向こう側の、遠い世界の物語だった。

 ダンジョンという未知の脅威から、世界を守る英雄たち。

 “雷帝”神宮寺猛の、圧倒的なカリスマ性。

 そして最近、彗星の如く現れたという謎多きA級探索者“JOKER”。その常識外れの戦い方と、どこか影のある佇まい。

 憧れは、あった。

 密かに、彼の配信を追いかけていたくらいには。

 だが、それはあくまで観客としての憧れ。

 自分がその舞台に立つなど、考えたこともなかった。


「えー、でも私なんて…」

 彼女がそう言い淀んだ、その時。

 雪が、静の手をそっと握った。

「行こうよ、静」

 彼女は、その冷静な瞳で、静を真っ直ぐに見つめていた。

「これは、お祭りみたいなものよ。私たちの世代に与えられた、特別な権利。受けるだけ受けてみたって、損はないでしょう?」

「それに…」

 彼女はそこで一度言葉を切ると、悪戯っぽく微笑んだ。

「もし静にすごいスキルがあったら、面白くない?」


 その雪の言葉。

 そして隣で、「行こうよ、行こうよ!」と静の腕を揺さぶる美紀の笑顔。

 その二人の、あまりにも純粋な期待。

 それに彼女は、ついに根負けした。

「…分かった。行くだけ、行ってみようか」


 その軽い気持ちで頷いた、あの一言。

 それが、彼女の穏やかだった日常を完全に終わらせる引き金になるとは。

 その時の彼女は、まだ知る由もなかった。


 ◇


 その日の放課後。

 三人は、鹿児島市役所の一角に設けられた臨時のユニークスキル判定会場へと、足を運んでいた。

 そこは、ギルド本部のような華やかな場所ではない。

 ただ、パイプ椅子と長机が、無機質に並べられただけの殺風景な空間。

 だが、そこに集まった彼女たちと同じ制服を着た高校生たちの期待と不安の熱気が、その場所を特別な空間へと変えていた。


「うわー、すごい人だね…!」

 美紀が、感嘆の声を上げる。

「みんな、考えてることは同じなんだね」

 雪が、冷静に分析する。

 三人は受付で番号札を受け取ると、その列の最後尾に並んだ。

 静の心臓が、少しだけ速く脈打つのを感じた。


 やがて、順番が来た。

 最初に判定を受けたのは、美紀だった。

 彼女は、「私、絶対戦士系のすごいスキル出すから!」と意気込みながら、判定器に手をかざした。

 水晶が、淡い赤色の光を放つ。

 結果は、『身体能力微増(小)』。

「…まあ、悪くないじゃん!」

 彼女は、少しだけ悔しそうに、しかしすぐにいつもの笑顔に戻った。


 次に、雪。

 彼女は静かに、そしてどこか祈るように、手をかざした。

 水晶が、青い光を放つ。

 結果は、『初級治癒マイナーヒール』。

「…ヒーラーか。まあ、私らしいかな」

 彼女はそう言って、満足げに微笑んだ。


 そしてついに、静の番が来た。

「…じゃあ、行ってくるね」

 二人の応援の声を背中に感じながら。

 静は、判定器の前に立った。

 カウンターの内側に座る市役所の職員が、面倒くさそうに彼女を促す。

「はい次の方。どうぞ、手を」

 静はこくりと頷くと、その小さな手をスキル測定器の黒いパネルへと、そっと置いた。

 ひんやりとした感触。

 その瞬間。

 これまで、彼女が感じたことのない現象が起こった。


 ゴオオオオオオオオオオッ!


 判定器の中央に埋め込まれた水晶が。

 まばゆい、黄金の光を放ち始めたのだ。

 それは、美紀や雪の時の淡い光ではない。

 まるで、太陽そのものをその小さな水晶の中に凝縮したかのような、圧倒的な、そしてどこまでも神々しい光の奔流。

 そのあまりにも異常な光景に、会場にいた全ての人間が、一斉に息を呑み、そのカウンターへと視線を集中させた。


 職員の眠たげだった目が、信じられないというように大きく見開かれる。

 彼の手に持っていたボールペンが、カランと音を立てて床に落ちた。

 彼は、何度も、何度も、モニターと目の前の小さな少女の顔を見比べた。

 そして彼は、震える声で、ようやくその神の御名を口にした。


「…SSS級…スキル…」

「――(たましい)聖歌(せいか)…」


 ユニークスキル【魂の聖歌】

[画像:一つの強大な光の核から無数の色とりどりのオーラの波紋がまるで美しい音楽の旋律のように同心円状にどこまでも広がっていく神々しくも温かいアイコンのイメージ。]


 名前:

 (たましい)聖歌(せいか) (Anthem of the Soul)


 レアリティ:

 ユニークスキル (等級:SSS)


 種別:

 パッシブスキル / 法則支配


 効果テキスト:

 このスキルを持つ者は、自らが展開するオーラの法則を完全に支配する。

 全ての「オーラ」タグを持つスキルの装備要件は、完全に無視される。

 全ての「オーラ」タグを持つスキルのHP/MP予約コストは、術者の予約効率を計算した上で、常にその最終的な値から**「半減」される。

 全ての「呪い」ではないオーラスキルの効力は、常に50%増加**した状態となる。


 フレーバーテキスト:


 神々は、気まぐれにサイコロを振る。

 英雄たちは、その出目に一喜一憂し、自らの運命を嘆く。


 だが、彼女は違う。

 彼女は、盤上の駒ではない。

 その戦場の法則そのものを奏でる、指揮者なのだから。


 彼女がひとたびその魂のタクトを振るえば、

 劣勢の戦況は、壮大な勝利の交響曲へと変わる。


 神々が興じるゲームの、そのルールを書き換える。

 それこそが、彼女に与えられた唯一つの神の権能。


 静寂。

 数秒間の、絶対的な沈黙。

 そして、その静寂を破ったのは、誰かの絶叫だった。

「SSS!?マジかよ!」

 その一言を皮切りに、会場は爆発した。

 どよめき、歓声、そしてシャッター音。

 どこから聞きつけたのか、地元の新聞記者やテレビクルーが、静へと殺到してくる。

 そのあまりにも急激な世界の変貌。

 それに彼女は、ただその場で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 ◇


 翌日。

 桜潮静の人生は、完全に変わってしまった。

 地元の新聞の一面には、『薩摩に舞い降りた若き聖女!現役女子高生、SSS級スキルに覚醒!』という、あまりにも大げさな見出しが躍っていた。

 テレビをつければ、どのチャンネルも彼女の話題で持ちきりだった。

 専門家たちが、彼女のスキル【(たましい)聖歌(せいか)】が、どれほど規格外で、そして世界のパワーバランスを揺るがしかねない戦略的な価値を持つのかを、熱っぽく語っていた。

 学校に行けば、廊下ですれ違う全ての人たちが、彼女を遠巻きに眺め、ひそひそと噂話をする。

 これまで当たり前のようにあった、穏やかな日常。

 それが、たった一日で完全に失われた。


 その日の夜。

 彼女は両親に、自らの決意を告げた。

「お父さん、お母さん。私、東京の冒険者学校に行きたい」


 父は、黙って腕を組んだ。

 母は、その目に涙を浮かべていた。


「…静。お前が、何を言っているのか分かっているのか」

 父が、重い口を開いた。

「冒険者? 馬鹿なことを言うな。お前は、普通の女の子だ。普通の高校を卒業して、普通の大学に行って、そして普通の男と結婚して、普通の幸せを掴む。それが、お前の人生なんだ」

「そうよ、静」

 母が、涙ながらに続けた。

「あんな危険な世界に、お前を行かせるわけにはいかないわ。私達は、ただお前に幸せになってほしいだけなのよ…」


 その、あまりにも真っ直ぐな親の愛情。

 それに、静の胸が締め付けられるように痛んだ。

 分かっている。

 二人が、自分のことを誰よりも心配してくれていることは。

 だが、彼女はもう後戻りはできないのだ。

 その手の中には、あまりにも大きく、そして重い力が宿ってしまったのだから。


 彼女は、深々と頭を下げた。

 そして彼女は、自らの本当の気持ちを告げた。


「…ごめんなさい、お父さん、お母さん」

「でも、私、もう決めたの」

「この力は、私だけのためにあるんじゃない。きっと、誰かを守るために、この世界を少しでも良くするために、私に与えられたんだと思う」

「だから私、行かなきゃいけない。逃げちゃいけないんだ」

「お願い。私のわがままを、聞いてください」


 その彼女の、揺るぎない決意の言葉。

 それに、父と母はただ黙って涙を流していた。

 そして、長い、長い沈黙の後。

 父が諦めたように、そしてどこか誇らしげに言った。

「……分かった」

「お前が、そこまで言うのなら、もう止めはしない」

「だが、約束しろ。絶対に無茶はしないと。そして、必ず生きて帰ってくると」

「…うん」

 静は、力強く頷いた。


 ◇


 旅立ちの日。

 鹿児島中央駅のプラットホームは、彼女のささやかな、しかしあまりにも盛大な壮行会のために、ごった返していた。

 市長、地元の名士、そして商店街のおじさんやおばさんたち。

 そのあまりにも多くの期待の眼差し。

 それに、静の足がすくみそうになる。

 その彼女の背中を、そっと押してくれたのは、美紀と雪だった。


「頑張ってね、静!」

 美紀が、涙をこらえながら言った。

「私達、ずっと静のこと、応援してるから!」

「ええ」

 雪が、静かに頷く。

「あなたは、私達の誇りよ」


 その二人の温かい言葉。

 それに、静の瞳から涙が溢れそうになる。

 そして最後に。

 地元の名士たちを代表して、市長が彼女の前に、一つの小さな、しかしずっしりと重い桐の箱を差し出した。


「桜潮君。これは、我々鹿児島県民からの、君へのささやかな、しかし心からの餞別だ」

 静がその箱を開けると、中には、三十つの異なる輝きを放つスキルジェムが収められていた。

 赤い宝石。

 青い宝石。

 緑の宝石。

 それは、オーラスキルを発動させるための高価な、そして希少なジェムたちだった。


「君のその偉大な力が、この国の、そして世界の未来を照らす光となることを、我々は信じている。その一助となれば幸いだ」


 その、あまりにも重い期待。

 静は、その箱を震える手で受け取った。

 そして彼女は、自分を見送る全ての人たちに、そしてこの愛する故郷に、深々と頭を下げた。


「――行ってきます」


 その静かな、しかしどこまでも力強い決意の言葉。

 彼女は、東京へと向かう新幹線にその身を乗せる。

 車窓から、遠ざかっていく桜島の姿。

 彼女は、その雄大な景色をただ黙って見つめていた。

 彼女の心にあるのは、故郷を離れる寂しさではない。

 これから始まる未知なる冒険への、静かな、そして確かな高揚感だった。

 東京。

 冒険者学校。

 そこで彼女は、一体誰と出会い、そしてどんな物語を紡いでいくのだろうか。

 その答えを、まだ誰も知らない。

 ただ、彼女の魂に宿る神々の聖歌だけが、その輝かしい未来を祝福するかのように、静かに、そして力強く鳴り響いていた。




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