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第233話

 日付:X月X日(日曜日)


 西新宿の空は、まるで世界の全ての狂騒が嘘であったかのように、どこまでも青く、そして穏やかに澄み渡っていた。

 神崎隼人――“JOKER”は、自らが契約したタワーマンションのその広すぎるリビングのソファに深く身を沈め、ただ静かにその穏やかな時間を享受していた。

 あの世界のパワーバランスを揺るがした熾烈なオークション戦争から、数日が経過していた。

 彼の銀行口座には、もはや現実感を失った142億5000万円という数字が、静かに眠っている。

 その莫大な資産は、彼の心にこれまでにないほどの絶対的な「安寧」をもたらしていた。

 もう、金の心配をする必要はない。

 妹・美咲の未来は、完全に保証された。

 その事実が、彼の魂を長年縛り付けていた重い枷から、完全に解放していた。


 彼はその数日間、一度もダンジョンに潜らなかった。

 配信のスイッチを入れることもなかった。

 ただ、眠りたい時に眠り、食べたい時にウーバーイーツで少しだけ高級な食事を頼み、そして最近見始めたという海外ドラマのシーズンを一気見する。

 そんな、あまりにも普通の、そしてどこまでも退屈な「人間」としての日常。

 それが、今の彼にとっては最高の贅沢だった。


(…はぁ。平和だな)


 彼は、ふっと息を吐き出した。

 その息は、タバコの煙の代わりに、ただ穏やかな休日の匂いがした。

 だが、その平和な時間が永遠に続くはずもなかった。

 ギャンブラーの魂は、常に新たなスリルを、未知なるテーブルを渇望する生き物なのだから。

 その彼の退屈な日常を切り裂くかのように。


 ピロリン♪


 静まり返った部屋に、間の抜けた電子音が響き渡った。

 彼のスマートフォンが、着信を告げている。

 彼は眉をひそめながら、その画面に表示された名前に目をやった。


冬月(ふゆつき)(いのり)


 その三文字を見た瞬間、彼の穏やかだった日常に、一瞬でノイズが走った。

 断罪(だんざい)聖女(せいじょ)

 S級冒険者。

 そして彼が、この世界で出会った最も理解不能な「怪物」。

 あのA級ダンジョンでの奇妙な出会い。そして、半ば強引に交換させられた連絡先。

 それ以来、彼女から連絡が来ることはなかった。

 それが、なぜ今?


 彼は、深く、そして重いため息をつくと、観念してそのメッセージアプリを開いた。

 そこに表示されていたのは、彼女からの、あまりにも唐突な、そしてどこまでも悪意のない(しかし彼にとっては最大限の煽りとなる)、一つの動画ファイルだった。

 その動画には、何のタイトルも説明文も添えられていない。

 ただ一つの再生ボタンが、静かに彼を誘っているだけだった。


(…なんだこれ)


 彼は、その不気味なメッセージにわずかな警戒心を抱きながらも。

 彼のギャンブラーとしての好奇心が、その躊躇を打ち破った。

 彼は、その再生ボタンをタップした。

 そして彼の目の前に映し出されたのは、彼のこれまでの冒険者としての常識の全てを、一瞬で、そして完全に破壊するには十分すぎるほどの光景だった。


 動画の舞台は、彼が先日、世界のトップギルドたちの代理戦争の引き金となった、あの場所。

 A級上位ダンジョン【天測(てんそく)神域(しんいき)】。

 そのボス部屋。

星詠(ほしよ)みの大賢者(だいけんじゃ)】が、その玉座からゆっくりと立ち上がるその姿が映し出されている。

 そして、そのボスの目の前に、ぽつんと一人の少女が立っていた。

 雪のように白い姫カットの長い髪。

 黒と白を基調とした、ゴシックドレス風のローブアーマー。

 冬月祈、その人だった。


 彼女は、何もしていなかった。

 ただ、その手にした古びた本を、ぱらぱらと眺めているだけ。

 だが、彼女が一歩、そのボス部屋へと足を踏み入れたその瞬間。

 彼女の周囲に、6つの禍々しくも神々しい光の刻印が、自動で生成された。

 そして、彼女がその本から一度だけ顔を上げ、そのガラス玉のような瞳でボスを一瞥した、その刹那。

 世界から、音が消えた。

 そして、次の瞬間。

 天から、一つの巨大な、そして純粋な破壊の奔流が降り注いだ。

 それは、雷でも、炎でも、氷でもない。

 ただ、世界の理そのものを捻じ曲げるかのような、混沌のエネルギーの塊。

 それが、大賢者の体を完全に飲み込んだ。

 そして、光が収まった時。

 そこには、もはや何も残ってはいなかった。

 あれほど、世界のトップギルドたちを苦しめたA級上位のボス。

 それが、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その存在ごとこの世界から完全に消滅していた。

 後に残されたのは、山のようなドロップアイテムと、そして何事もなかったかのように再びその手元の本へと視線を落とす、一人の少女の姿だけだった。

 そのあまりにも一方的な蹂躙劇。

 その全てが終わった時。

 画面の右上に表示されたクリアタイム。

 それに、隼人の思考が完全にフリーズした。


【クリアタイム:0.0001秒】


 主人公に、祈が【天測(てんそく)神域(しんいき)】のボスを0.0001秒で倒す動画を送ってきたのだ。


「……………は?」


 彼の口から、間抜けな声が漏れた。

 彼は、その数字を何度も、何度も見返した。

 だが、その数字は変わらない。

 0.0001秒。

 それは、もはや戦闘ではない。

 ただのデータの削除。

 ただのエラー。

 彼が信じてきた、この世界の全てのルールと常識。

 それが、今この瞬間、たった一本の動画によって、完全に破壊された。


 彼は、ただ呆然と、その黒い画面を見つめていた。

 数分後。

 彼のスマートフォンが、再び震えた。

 祈からの、追撃のメッセージだった。

 その内容は、あまりにも無邪気で、そしてどこまでも残酷だった。


『――どうです?』


 その、たった一言。

 その、あまりにも他人事のような、そしてどこか上から目線の一言。

 それに、隼人の額に青筋が浮かんだ。

 彼は、怒りに震える指で、その返信を叩きつけた。


 JOKER:

「…ふざけてんのか、てめえは」


 祈:

『?』

『何がですの?』


 JOKER:

「分かってて言ってんだろ!なんだ、あの化け物みてえな火力は!0.0001秒だぞ!?俺たちが、何日もかけて、ようやく10分を切れるかどうかってやってた、あのダンジョンを!」


 その彼の、魂の叫び。

 それに、祈からの返信は、どこまでも平坦だった。


 祈:

『あら。あれは、別に普通の攻撃ですけれど』

『むしろ、少し手こずったくらいですわ。あのボス、地味にESが高いですから』

『それが、何か?』


 その、あまりにも噛み合わない会話。

 それに、隼人は、もはや怒りを通り越して、ある種の諦観の境地に達していた。

 そうだ。

 この女と、常識的な会話をしようとした俺が、馬鹿だったんだ。

 彼は、深く、そして重いため息をついた。

 そして彼は、無理やり話題を変えることにした。

 今の、このあまりにも理不尽な現実から、逃避するために。


 JOKER:

「…ああ、もういい。その話は終わりだ」

「それでさ、話が変わるけど、妹が探索者になるから、オススメのビルド教えてくれよ。魔術師が良いらしいけどさ」


 そうだ。

 これならば、この会話も、少しは建設的なものになるはずだ。

 S級の、それもトップクラスの魔術師である彼女に、アドバイスを求める。

 これ以上に、的確な相談相手はいない。

 きっと彼女は、「あら、あなたにしては殊勝な心がけですわね」とかなんとか、いつものように彼をからかいながらも、その膨大な知識の中から、最高の答えを示してくれるはずだ。

 彼がそう期待した、その瞬間。

 彼女から返ってきたのは、彼の全ての予想を完全に裏切る一言だった。


 祈:

『――ツッコミなしとは、予想してなかったですわ』


「…は?」

 彼の思考が、再び止まった。

 ツッコミなし?

 一体、何の話だ?


 祈:

『だって、普通思うでしょう?』

『「なぜ、あなたほどの人が、わざわざ私に、こんな初心者向けの動画を送りつけてきたのですか?」と』

『その当然の疑問を、あなたは口にしなかった。ただ感情的に怒りをぶつけるだけ。…少し、がっかりしましたわ』


 その、あまりにも斜め上からの指摘。

 それに、隼人は言葉を失った。


 祈:

『まあ、良いでしょう。その愚かな、しかしどこか純粋なあなたのために、この私が直々に教えて差し上げますわ』

 彼女の、そのあまりにも上から目線な、しかしどこか楽しそうな物言い。

 そして、彼女は続けた。

 その言葉は、あまりにもまともで、そしてどこまでも常識的だった。


 祈:

『まあ、妹さんはユニークスキル次第ではありませんか?』

『ユニークスキルで、ビルドが変わりますし』

『魔術師が良いと言っても、その道は無数に分岐しています。炎を操るのか、氷を操るのか、あるいは私のように雷の道を歩むのか。その全てを決定づけるのは、その魂に最初に刻まれたユニークスキルの性質ですわ』

『まずは、彼女がどんなスキルを得るのか。それを見極めるのが先決でしょう。話は、それからですわ』


 その、あまりにも常識的な事を話す彼女の姿。

 それに、隼人はもはや混乱の極みにあった。

 この女は、一体何なんだ。

 世界の理を捻じ曲げる、神のような力を持つ怪物。

 そのくせ、言うことはどこまでも正論。

 その、あまりにもアンバランスな存在。

 それに、彼は言いようのない眩暈を感じていた。


「…ああ」

 彼が、ようやく絞り出したのは、そんな力ない一言だけだった。

「…そうだな。あんたの言う通りだ」


 その彼の、あまりにも素直な敗北宣言。

 それに、電話の向こうの彼女は、初めて心の底から楽しそうに、くすくすと笑った。

 その笑い声は、まるで鈴の音のように、彼の疲弊した心に、静かに響き渡っていった。

 彼の退屈な日常は、この理解不能なS級の聖女によって、完璧に、そして奇妙な形でかき乱されていくのだった。




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