第231話
日付:X月X日(水曜日)夜
東京の空は、いつものように無数の星々(ネオン)をその身に宿し、静かに、そしてどこまでも深く広がっていた。
だが、その静寂とは裏腹に。
日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』の内部は、今、建国以来、観測されたことのないほどの、異常な熱量の爆発に見舞われていた。
全ての探索者の視線は、もはや一つのスレッドに、その一点だけに注がれていたと言っても過言ではなかった。
【SeekerNet 掲示板 - 国際トップランカー専用フォーラム】
スレッドタイトル: 【決着】JOKERの鎧、150億でオーディンが落札!【歴史が動いた夜】 Part.21
全ての戦いは、終わった。
JOKERが出品した、たった一つのユニークな胴装備【背教者】。
それを巡る世界のトップギルドたちの熾烈な代理戦争は、北欧のギルド【オーディン】の、150億円という、あまりにも暴力的な一撃によって、その幕を閉じた。
スレッドは、その歴史的な瞬間の目撃者となった者たちの、興奮と、賞賛と、そしてどこか祭りの後のような虚脱感に満ちた言葉で、埋め尽くされていた。
『…終わったな』
『ああ、終わった。とんでもない、戦争だった』
『150億…。もはや、俺たちの金銭感覚じゃ、理解できねえ…』
『オーディンの執念、恐るべし。これで、次世代のメタゲームは、彼らが支配するのか…』
その、どこか達観したような空気。
それを断ち切ったのは、一人の、常に最前線の情報を追い続ける、情報屋の書き込みだった。
1512: 名無しの国際ウォッチャー
おい、お前ら、寝てる場合じゃねえぞ!
まだ、終わりじゃねえ!
むしろ、本当のショーはここからだ!
オーディンの奴ら、動き出したぞ!
その、あまりにも唐突な速報。
それに、スレッドが再びざわめいた。
『は!?』『どういうことだ!?』
1513: 名無しの国際ウォッチャー
たった今、オーディンの日本支部に所属するトップランカーの一人が、【天測の神域】に、ソロで突入した!
見てみろ、この公式の挑戦記録を!
その書き込みと共に、一枚のスクリーンショットがアップロードされた。
そこに表示されていたのは、ギルドの公式な挑戦ログ。
挑戦者の名前は、”ラグナル”。オーディンが誇る、最高の戦士の一人。
そして、その挑戦形態は、『ソロ』。
その、あまりにも無謀で、そしてどこまでも傲慢な挑戦。
それに、スレッドは信じられないという驚きの声で、埋め尽くされた。
『ソロ!?正気か!?』
『あのダンジョンを、一人で!?いくらオーディンでも、それは無謀すぎるだろ!』
『一体、何を考えてるんだ…!?』
その困惑の渦の中で、ただ一人、その本当の意味を理解している者がいた。
あの百戦錬磨のベテラン、『元ギルドマン@戦士一筋』だった。
彼の、その戦慄に満ちた一言。
それが、このショーの本当の意味を、全ての観客に叩きつけた。
1525: 元ギルドマン@戦士一筋
…違う。
無謀ではない。
これは、**「公開処刑」**だ。
◇
A級上位ダンジョン【天測の神域】
静寂。
常に星空に包まれた、幻想的な空間。
その中央に、一人の男が立っていた。
プラチナブロンドの髪を戦士のように短く刈り込み、その全身を、北欧の神話を思わせる白銀のプレートアーマーで固めている。
だが、その胸に装着されているのは、明らかにその神々しい鎧とは不釣り合いな、黒と紫の禍々しいオーラを放つ、あの【背教者】だった。
そして、その両手に握られているのは、巨大な二本の戦斧。
彼の名は、ラグナル。
オーディンが誇る、最高の「処刑人」だった。
彼は、その氷河のように冷たい瞳で、目の前に広がる【星屑のゴーレム】の軍勢を、ただ静かに見つめていた。
そして彼は、自らのギルドが150億円という莫大な血を流して手に入れたこの新たな力の、その感触を確かめるように呟いた。
その声は、絶対的な自信に満ち溢れていた。
「――なるほど。素晴らしい」
彼のステータスウィンドウには、信じられないほどの数字が並んでいた。
【背教者】の効果によって、彼の最大HPは、3万という、もはや生物の理を超えた領域へと到達している。
そして、彼が発動させた、ある一つの禁断のスペル。
それが、その膨大な生命力を、純粋な破壊の力へと変換していた。
彼の全身から、黒い、しかしどこまでも神々しい混沌のオーラが、立ち昇る。
「グルオオオオオオオオオオッ!!」
ゴーレムの軍勢が、彼ただ一人へと殺到する。
無数のレーザービームが、空間を引き裂く。
だが、ラグナルは動じない。
彼は、その嵐のような攻撃の、その中心で、ただ静かに、その両手の戦斧を交差させた。
そして彼は、ただ一言、告げた。
その声は、絶対的な、死の宣告だった。
「――終焉だ」
彼がそう呟いた、その瞬間。
彼の全身から、黒い太陽が生まれたかのような、圧倒的な混沌のエネルギーが爆発した。
それは、もはやスキルではない。
ただの、理不尽な力の奔流。
3万という異常なHPを、そのままダメージへと変換する、究極の一撃。
それに、ゴーレムの軍勢は、なすすべもなかった。
その硬い装甲も、魔力障壁も、何の意味もなさない。
ただ、その存在ごと、根こそぎ、この世界から消滅させられていく。
後に残されたのは、ただの静寂だけだった。
彼は、その圧倒的な力で、ダンジョンの全てを蹂躙していく。
道中の全ての敵が、彼の一撃の前に、ただの塵芥と化す。
そして彼は、ついにこの神域の主…【星詠みの大賢者】の、その玉座の間へとたどり着いた。
彼は、ボスがその最初の攻撃モーションに入る、その前に。
ただ、一度だけ、その戦斧を振るった。
そして、全ては終わった。
【星詠みの大賢者】は、断末魔の悲鳴を上げる暇すら与えられなかった。
ただ、その存在ごと、光の粒子となって消滅した。
その、あまりにも一方的な蹂躙劇。
その、全てが終わった時。
彼の目の前のARウィンドウに表示されたクリアタイム。
それは、世界の全ての探索者を絶望させるには、十分すぎるほどの数字だった。
【【天測の神域】攻略完了】
【クリアタイム:58秒】
オーディンが、【背教者】を手に入れて、その圧倒的火力で、ソロで、しかも1分でボスを倒すという、偉業を達成したのだ。
◇
【SeekerNet 掲示板視点】
その記録が、公開された瞬間。
SeekerNetは、本当の意味で、その機能を停止した。
あまりにも、多くのアクセス。
あまりにも、多くの絶叫。
サーバーが、その熱量に、耐えきれなかったのだ。
数分後、ようやく復旧したスレッドには、もはや言葉はなかった。
ただ、絶対的な強者の前にひれ伏した者たちの、静かな、そしてどこまでも深い諦観だけが、そこにはあった。
『…終わったな』
『ああ、終わった。何もかも、だ』
『1分、だと…?パーティを組んで、10分を切るのがやっとだった、あのダンジョンを…?』
『これが…これが、ライフスタッキングビルドの、完成形か…』
『もはや、ゲームが違う。俺たちがやっているのは、ただの探索ごっこだ』
それに、完全に白旗を上げる、他のギルドと、掲示板。
これまで、オーディンと熾烈な争いを繰り広げてきた【青龍】も、【ヴァルキリー・キャピタル】も。
その全てのギルドが、この日を境に、完全に沈黙した。
彼らは、理解したのだ。
この戦争は、終わったのだと。
そして、その勝者は、ただ一人であると。
その、絶対的な絶望と諦観の中で。
ただ一人、その光景を、冷静に、そしてどこか楽しそうに眺めている男がいた。
神崎隼人 "JOKER"。
彼は、自室のタワーマンションで、その歴史的な記録を、ただ静かに見つめていた。
彼の口元には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
彼は、ARカメラの向こうの、言葉を失った数十万人の観客たちに、そして自らの魂に、言い聞かせるように呟いた。
その声には、一切の絶望の色はなかった。
ただ、最高の、そして最も困難なパズルを前にした、挑戦者の歓喜だけが、宿っていた。
「…なるほどな。面白い」
「最高の、ショーじゃねえか」
彼は、椅子からゆっくりと立ち上がった。
そして、窓の外に広がる東京の夜景を、見下ろした。
その瞳には、もはやA級の、小さなテーブルなど、映ってはいなかった。
その遥か先。
神々が、戯れる、本当の、頂のテーブル。
そこへと続く、険しく、しかしどこまでも魅力的な道筋が、確かに見えていた。
彼の、本当の「ギャンブル」は、まだ始まったばかりなのだから。