第230話
日付:X月X日(水曜日)夜
東京の空は、いつものように無数の星々(ネオン)をその身に宿し、静かに、そしてどこまでも深く広がっていた。
だが、その静寂とは裏腹に。
日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』の内部は、今、建国以来、観測されたことのないほどの、異常な熱量の爆発に見舞われていた。
全ての探索者の視線は、もはや一つのオークションページに、その一点だけに注がれていたと言っても過言ではなかった。
【公式オークションハウス - ライブストリーミング】
画面の中央には、厳重なマナ・シールドに守られたガラスケースが鎮座し、その中には、黒と紫の禍々しいオーラを放つ一つの胴装備【背教者】が、静かにその時を待っていた。
そして、その横で、刻一刻と減っていく運命の残り時間。
オークション開始から、23時間50分が経過していた。
戦いは、すでに神々の領域へと突入していた。
入札額は、もはや人間の金銭感覚を完全に麻痺させる、140億円という天文学的な数字にまで膨れ上がっている。
だが、テーブルに残された二人のプレイヤー…北欧の【オーディン】と、アメリカの【ヴァルキリー・キャピタル】は、どちらも一歩も引く気配を見せない。
それは、もはやただの装備の奪い合いではない。
ギルドの威信と、次世代のメタゲームの覇権を賭けた、魂の削り合い。
世界の全ての探索者が、固唾を飲んでその結末を見守っていた。
【SeekerNet 掲示板 - 国際トップランカー専用フォーラム】
スレッドタイトル: 【最終戦争】JOKERの鎧、140億突破!【歴史が動く夜】 Part.15
2112: 名無しの国際ウォッチャー
おい、おい、おい!嘘だろ!
残り10分を切ったぞ!
まだ、価格が動いてる!
ヴァルキリーが、142億を入れた!
オーディンは、どうする!?
2115: 名無しのA級魔術師
2112
もう、やめてくれ…。
俺の胃が、持たない…。
たかが、胴装備一つだろ…?
なんで、ここまでになるんだよ…。
2121: 元ギルドマン@戦士一筋
2115
だから、言っただろうが、新人。
これは、もはやただの装備ではない、と。
これを手に入れたギルドが、次なる「王」となる。
そのための、戴冠式なのだ。
140億という金額は、王冠の値段としては、むしろ安すぎるのかもしれん。
その、あまりにも達観した元ギルドマンの言葉。
それに、スレッドは絶望と、そしてわずかな興奮の、奇妙な空気に包まれた。
そして、運命の残り1分。
それまで、沈黙を保っていたオーディン。
彼らが、最後の、そして全てを賭けた一撃を放った。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:15,000,000,000円】
150億。
その、あまりにも美しく、そしてどこまでも暴力的な、切りの良い数字。
それは、彼らの絶対的な勝利への意志表明だった。
その一撃に、ヴァルキリー・キャピタルは、ついに沈黙した。
彼らは、降りたのだ。
そして、運命のカウントダウンが、ゼロになる。
【オークションは終了しました】
【最終落札価格: 15,000,000,000円】
【落札者: Guild_Odin_Asset】
最終落札価格、150億円。
その数字が、モニターに絶対的な事実として刻み込まれた、その瞬間。
世界の全ての探索者が、その長い、長い戦争の終わりを、知った。
一つのギルドが、勝利の凱歌を上げる。
北欧の神々が、その手に、新たな時代の鍵を掴み取ったのだ。
もう一つのギルドは、屈辱的な敗北を喫した。
アメリカの鷲は、その翼を折られ、静かにそのテーブルから去っていく。
その、歴史的な瞬間の熱狂の渦の中で。
神崎隼人 "JOKER" は。
ただ、自室のタワーマンションの、その静寂の中で、一つの通知を、静かに見つめていた。
それは、ギルドの公式なシステムから送られてきた、無機質な、しかし彼にとっては世界の何よりも重い、一通の電子メールだった。
件名:【公式オークションハウス】落札代金振込完了のお知らせ
本文:
探索者 "JOKER" 様
この度は、公式オークションハウスをご利用いただき、誠にありがとうございます。
あなた様が出品された、ユニークアイテム【背教者】は、本日、150億円にて無事落札されましたことを、ご報告いたします。
つきましては、規定の手数料5%(7億5000万円)を差し引いた以下の金額を、ご指定の口座へと、振り込み処理を完了いたしました。
ご確認のほど、よろしくお願い申し上げます。
【振込金額:14,250,000,000円】
◇
JOKER視点。
彼は、その数字を、ただ静かに見つめていた。
142億5000万円。
もはや、現実感を失った、ただの数字の羅列。
だが、その数字が持つ本当の「意味」を、彼は誰よりも理解していた。
彼の脳裏に浮かぶのは、たった一人の、少女の笑顔。
病院の、無機質なベッドの上で、それでも気丈に彼に微笑みかける、妹、美咲の姿。
彼は、その笑顔を守るためだけに、戦ってきた。
彼は、その笑顔を取り戻すためだけに、この狂った世界のテーブルに、座り続けてきた。
そして、今。
その、長い、長いギャンブルが、終わった。
彼の口元に、ふっと息が漏れた。
それは、笑みとも、ため息ともつかない、ただ、全ての重圧から解放された者の、純粋な魂の音だった。
彼は、ARカメラの向こうの、言葉を失った数十万人の観客たちに、そして自らの魂に、言い聞かせるように呟いた。
その声は、どこまでも穏やかだった。
「よし、全部、妹の軍資金兼治療費にしよう」
彼は、自らのスマートフォンで、銀行のアプリを開いた。
そして、その天文学的な数字のほとんど全てを、一つの信託口座へと移管する。
その口座の名義は、ただ一つ。
『神崎美咲』。
「これで、一生治療費に困る事ないし、全部妹の管理資金にしよう」
そうだ。
もはや、金の心配はない。
彼女は、これから、世界で最高の治療を、何の心配もなく受け続けることができる。
そして、彼女が夢見る、冒険者としての未来。
そのための、全ての準備を、最高の形で整えてやることができる。
装備も、スキルも、そして、いつか彼女が挑むであろう全ての挑戦。
その全てを、兄として、支えてやることができる。
「…一つ、重荷も降りたし」
彼の肩から、ふっと力が抜けていく。
これまで、彼の魂を縛り付けていた、重い、重い鎖。
それが、音を立てて砕け散ったような、気がした。
彼は、冷蔵庫から一本の冷えたビールを取り出した。
そして、そのプルタブを、景気の良い音を立てて開ける。
「久々に、酒でも飲もうかな」
彼はそう言って、その黄金色の液体を、一気に喉へと流し込んだ。
その、苦く、そしてどこまでも甘い、勝利の味。
それを、彼はただ一人、静かに噛みしめていた。
彼の目的は、最初から何も変わっていない。
彼が本当に欲しかったのは、金ではない。
名声でも、力でもない。
ただ、妹の笑顔。
その、たった一つの宝物。
彼は、それを確かに、その手に取り戻したのだ。
◇
彼が、ただ妹を想い、無造作に投げ込んだ、たった一つの石。
それが、世界の勢力図という巨大な湖に、決して消えることのない、大きな波紋を広げた。
A級の装備を巡る、ギルド間の水面下の「冷たい戦争」は、終わった。
だが、それは、次なる、より熱く、そしてより熾烈な戦いの始まりを告げる、鐘の音に過ぎなかった。
一人の道化師が、その気まぐれな一手で、神々のゲームの、そのルールそのものを、書き換えてしまった。
その事実に、まだ誰も、気づいてはいない。
ただ、東京の夜景だけが、その全ての始まりと終わりを、静かに見下ろしていた。