第229話
日付:X月X日(火曜日)夜
東京の空は、いつものように無数の星々(ネオン)をその身に宿し、静かに、そしてどこまでも深く広がっていた。
だが、その静寂とは裏腹に。
日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』の内部は、今、建国以来、観測されたことのないほどの、異常な熱量の爆発に見舞われていた。
全ての探索者の視線は、もはや一つのスレッドに、その一点だけに注がれていたと言っても過言ではなかった。
【SeekerNet 掲示板 - 国際トップランカー専用フォーラム】
スレッドタイトル: 【戦争実況】JOKERの鎧オークション!10億突破!【歴史が動く夜】 Part.3
A級中位ダンジョン【機鋼の都クロノポリス】で、一人の探索者が、偶然ドロップさせた、一つのユニークな胴装備。
出品者、"JOKER"。
開始価格、1億円。
その、たった一枚のカードが、世界のパワーバランスを、そしてこの世界の経済の常識そのものを、根底から破壊しようとしていた。
入札は、もはや戦争と化していた。
【オーディン】と【青龍】、そしてこの情報を聞きつけた他の海外トップギルドたちが、その国の威信と、ギルドの未来を賭けて、数十億単位のチップを積み上げていく。
スレッドのログは、もはや人間の目で追うことのできる速度を超えて、凄まじい勢いで流れ続けていた。
512: 名無しの国際ウォッチャー
おい、おい、おい!嘘だろ!
開始から、まだ10分も経ってねえぞ!
入札額、もう50億、超えやがった!
515: 名無しのA級魔術師
512
見てる!見てるぞ!
オーディンが45億を入れた、その3秒後に、青龍が50億で上乗せしやがった!
こいつら、完全に戦争だ!
521: 名無しのB級タンク
もう、意味が分かんねえ…。
50億って、俺の生涯年収の、何倍だよ…。
俺、この前、8000万のブーツで家が買えるとか言ってたけど、レベルが違いすぎたわ…。
あれは、家じゃなくて、土地ごと買えるレベルだ…。
528: ハクスラ廃人
521
だから、言っただろうが、ひよっこども。
これが、神々のテーブルだと。
お前らが、ちまちまと魔石を拾ってる、その裏側で。
世界は、常に、こういう狂った金の力で動いてるんだよ。
そして、この戦いは、まだ始まったばかりだぜ。
その、ハクスラ廃人の言葉を裏付けるかのように。
入札履歴が、再び更新された。
これまで静観を決め込んでいた第三の勢力が、そのテーブルへと姿を現したのだ。
【入札者:Valkyrie_Capital_LLC】
【入札額:60億円】
『うおおおおお!ヴァルキリー・キャピタル!アメリカの、あの投資ギルドか!』
『マジかよ!奴らも、ライフスタッキングビルドを狙ってたのか!』
『これで、三つ巴の戦争だ!面白くなってきたじゃねえか!』
スレッドは、新たなプレイヤーの参戦に、さらにその熱狂を加速させていく。
だが、その熱狂の中心にいるはずの男。
神崎隼人 "JOKER" は。
その全ての狂騒を、まるで他人事のように、自室のタワーマンションの、その静寂の中で、ただ呆然と眺めていた。
◇
JOKER視点。
彼の目の前の、漆黒のモニター【静寂の王】には、彼自身が出品した、あの【背教者】のオークションページが映し出されていた。
その、現在価格を示す数字が、彼の理解の範疇を完全に超えて、暴走し続けている。
60億円。
75億円。
82億円。
「……………」
彼の口から、言葉が消えていた。
彼の、ギャンブルで培われた超人的な思考能力ですら、このあまりにも非現実的な状況を、正確に処理することができずにいた。
彼の脳裏に、昨夜の自らの思考が蘇る。
(…過去の履歴を見る限り、10億ぐらいか?かなり当たりだな)
その、あまりにも甘く、そしてどこまでも楽観的な自己評価。
それが、今、目の前の圧倒的な現実によって、木っ端みじんに打ち砕かれていく。
「…なんだ、これ…」
彼の口から、ようやく絞り出されたのは、そんな、あまりにも素直な、そしてどこまでも間の抜けた一言だった。
「俺の鎧、そんなに価値が、あったのか…?」
その声は、ARカメラのマイクが、かろうじて拾っていた。
そして、そのあまりにもJOKERらしくない弱々しい呟き。
それに、彼の配信を見ていた数十万人の観客たちが、一斉に、そして温かい笑いの渦に包まれた。
『wwwwwwwwwww』
『JOKERさん、完全にフリーズしてて草』
『自分の出品したアイテムの価値を、一番理解してない男www』
『まあ、無理もねえよな…。こんなの、予想できるわけがねえ』
『頑張れ、JOKER!世界の歯車を、回しちまったんだよ、あんたは!』
その、温かい、しかしどこかからかっているようなコメントの嵐。
それに、JOKERは、はっと我に返った。
そして彼は、自らの頬を一度、強くつねった。
痛い。
これは、夢じゃない。
現実だ。
彼は、ゴクリと喉を鳴らすと、再びその地獄のオークションの画面を、睨みつけた。
彼の表情は、もはや呆然自失のそれではない。
この狂ったテーブルのその行方を、最後まで見届けるという、ギャンブラーのそれへと戻っていた。
◇
【SeekerNet 掲示板視点】
戦いは、膠着していた。
入札額が90億円を超えたあたりから、それまで威勢の良かった他のギルドたちの名前が、一人、また一人と、入札者リストから消えていく。
後に残されたのは、やはり、あの三つの巨大な影だけだった。
北欧の神々の軍勢【オーディン】。
中華の赤い龍【青龍】。
そして、アメリカの巨大な資本の鷲【ヴァルキリー・キャピタル】。
三つ巴の、最終戦争。
その、息が詰まるような心理戦。
それを、世界の全ての探索者が、固唾を飲んで見守っていた。
そして、その均衡が破られたのは、入札額が、ついに、あの大台へと到達した、その瞬間だった。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:100億円】
「JOKERの鎧、100億突破!」
その、あまりにも衝撃的な数字。
それに、SeekerNet全体が、揺れた。
スレッドのログは、もはや意味をなさない、賞賛と、驚愕と、そして祝福の絶叫で、埋め尽くされていく。
『きたあああああああああああああああああああああ!!!!!!』
『100億!100億だ!歴史が、動いたぞ!』
『たかが、胴装備一つに、100億!?正気か、こいつら!』
『**もはや、ただの代理戦争じゃねえか!**これは、世界の覇権を賭けた、本当の戦争だ!』
その、熱狂。
その、狂乱。
だが、そのテーブルの本当の恐ろしさは、まだ始まったばかりだった。
100億という、巨大な心理的な壁。
それを、オーディンがこじ開けた。
だが、それに対する青龍とヴァルキリーの「回答」は、あまりにも迅速で、そして無慈悲だった。
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:110億円】
【入札者:Valkyrie_Capital_LLC】
【入札額:120億円】
もはや、そこに駆け引きなど存在しない。
ただ、純粋な、札束の暴力だけが、そこにあった。
130億。
140億。
価格は、もはや人間の金銭感覚を完全に麻痺させる速度で、吊り上がっていく。
そして、ついにその時は来た。
青龍が、テーブルを降りた。
彼らの、潤沢なはずの資金が、ついに底をついたのだ。
後に残されたのは、北欧の神と、アメリカの鷲。
二つの、超大国の一騎打ち。
その最後の、壮絶な殴り合い。
それを、JOKERは、ただ静かに見つめていた。
彼の瞳には、もはや驚きの色はない。
ただ、この狂った世界の、その理不尽さと、そしてその奥にある純粋な人間の「欲望」という名の美しさに、彼は、どこか感心すらしていた。
そして、運命の残り10秒。
オーディンが、その最後の、そして全てを賭けた一撃を放った。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:150億円】
その、あまりにも執念に満ちた数字。
それに、ヴァルキリー・キャピタルは、ついに沈黙した。
そして、運命のカウントダウンが、ゼロになる。
【【背教者】は、Guild_Odin_Asset様によって、150億円で落札されました】
その、絶対的な結果。
それに、世界の全ての探索者が、その長い、長い戦争の終わりを、知った。
だが、その中心にいたJOKERだけは。
その、あまりにも巨大な、そしてどこか空虚な勝利の味を、ただ一人、静かに噛みしめていた。
彼のギャンブルは、終わった。
そして、彼は勝ったのだ。
この世界の、誰よりも鮮やかに、そして、皮肉に満ちた形で。
彼の本当の「物語」が始まるのは、彼がこの莫大な資産の本当の「使い道」を見つけ出す、そのもう少しだけ先の話。