第227話
日付:X月X日(月曜日)
西新宿の空は、厚い雲に覆われ、まるで世界の終わりを予感させるかのような、重く陰鬱な光を地上に落としていた。
だが、神崎隼人――“JOKER”の心は、その空模様とは裏腹に、驚くほど晴れやかだった。
彼の新たな相棒、【静寂の王】と名付けられた漆黒のハイスペックPCが、その静かな起動音と共に、彼の新たな一日が始まったことを告げる。
彼は、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアに深く身を沈めると、まず最初に、一杯の熱いコーヒーを淹れた。その苦い液体が、彼の眠っていた思考を、クリアに覚醒させていく。
昨日の、A級中位ダンジョンでの予期せぬ「大当たり」。
ユニーク胴装備【背教者】。
その、あまりにもピーキーで、彼のビルドとは全く噛み合わない、しかし、どこか心を惹かれる不思議なオーラを放つ装備。
彼は、そのアイテムの本当の価値を、正確に値踏みする必要があると感じていた。
それは、ギャンブラーとしての純粋な好奇心。
そして、自らの「運」がどれほどの価値を生み出したのかを知りたいという、ささやかな自尊心だったのかもしれない。
彼は、ブラウザを立ち上げ、慣れた手つきで、日本最大の探索者専用コミュニ-ティサイト『SeekerNet』へとアクセスした。
彼の戦場は、今、ダンジョンではない。
この、情報の海。
彼は、公式マーケットの過去の取引履歴のデータベースへと、その意識をダイブさせた。
検索窓に、彼が打ち込んだキーワードは、シンプルだった。
『ユニーク 胴装備 レベル35~50』
『特殊効果 ES変換』
エンターキーを押すと、彼の目の前に、過去数年間の、膨大な取引ログが表示された。
そのほとんどが、彼のドロップした【背教者】とは似ても似つかない、凡庸な性能のユニークばかりだった。
だが、彼はその膨大な情報の中から、一つの法則性を見つけ出していく。
彼の、ギャンブルで培われた驚異的な情報処理能力が、ノイズを的確に除去し、本質だけを抜き出していく。
(…なるほどな。ESをライフに変換する、この手の装備は、過去にもいくつか存在するらしい)
(だが、そのどれもが、何かしらの致命的なデメリットを抱えている。ライフが上がる代わりに耐性が大幅に下がるとか、移動速度がゼロになるとか…)
(それに比べて、俺が拾ったこいつは、どうだ?)
彼は、自らのインベントリに眠る【背教者】の性能を、改めて確認する。
筋力と、全元素耐性。
どちらも、腐ることのない、極めて有用なステタスだ。
デメリットらしいデメリットが、ない。
(…つまり、こいつは、同系統のユニークの中でも、明らかに「当たり」の部類だ)
彼は、さらに検索を重ねていく。
そして、彼はついに、一つの取引履歴を見つけ出した。
それは、約一年前。
彼が拾ったものと、ほぼ同じ性能を持つ【背教者】が、一度だけ、公式オークションに出品されていたという記録だった。
その時の、最終落札価格。
それに、彼の眠たげだった瞳が、わずかに見開かれた。
『最終落札価格: 9億8000万円』
「…ほう」
彼の口から、感嘆の声が漏れた。
「過去の履歴を見て、10億ぐらいか? かなり、当たりだな」
彼は、そう判断した。
90万円で手に入れた【泡沫の刃】を、自らの手で1億2,000万円以上の価値へと昇華させた、あの時とは違う。
これは、ただドロップしただけで、10億円近い価値を持つ、本物の「お宝」だ。
彼は、その事実を、冷静に、そしてどこか他人事のように受け止めていた。
「…まあ、良い軍資金には、なるか」
彼はそう呟くと、特にそれ以上の感情を抱くことなく、そのブラウザを閉じた。
彼は、その鎧が、現在、世界のトップギルドたちが血眼になって探し求めている「HPスタッキングビルド」の、最後のキーパーツであることを、まだ知らない。
彼にとって、それはただの、少しだけレートの高い換金用のチップでしかなかった。
彼は、欠伸を一つすると、その日の「仕事」を始めるために、お気に入りのアンビエント・ミュージックをイヤホンで流し始めた。
彼の、あまりにも穏やかで、そして退屈な日常が、また始まろうとしていた。
その、水面下で。
世界の巨大な歯車が、彼が投じたその一つの石によって、凄まじい音を立てて回り始めていることなど、知る由もなかった。