第226話
日付:X月X日(日曜日)
その日の東京は、梅雨の合間の、束の間の晴天に恵まれていた。
だが、神崎隼人――“JOKER”の心は、その抜けるような青空とは裏腹に、どこか重く、そして退屈な灰色の雲に覆われていた。
西新宿のタワーマンションの最上階。
その広すぎるリビングの、床から天井まで続く巨大な窓からは、太陽の光を反射してきらめく都心のビル群が一望できた。数ヶ月前の彼であれば、その光景に、自らが手に入れた成功を実感し、わずかな高揚感を覚えたかもしれない。
だが、今の彼にとって、それはもはや見慣れた、そして何の感慨ももたらさない、ただの「風景」でしかなかった。
「…はぁ」
彼の口から、深いため息が漏れた。
彼は、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前の漆黒のモニターに映し出された自らの銀行口座の残高を、ただぼんやりと眺めていた。
ゼロの数が、現実感を失わせる。
A級ダンジョンの周回と、ハイストによる安定した収入。
彼の資産は、もはや彼自身ですら、正確な額を把握するのが面倒になるほど、膨れ上がっていた。
妹・美咲の治療費の心配は、もうない。
彼女が、これから先の人生を、何不自由なく、そして笑顔で生きていくための資金も、十分すぎるほどに確保した。
目標は、達成された。
だが、その達成感の後に訪れたのは、燃え尽きたかのような、深い虚無感だった。
(…これから、どうする)
彼は、自問自答する。
戦士ビルドは、A級中位というステージにおいては、もはや敵なしの完成度を誇る。
ネクロマンサービルドもまた、順調に成長し、C級ダンジョンを蹂躙するには十分すぎるほどの力を、その手にしていた。
全てが、順調だ。
あまりにも、順調すぎた。
そして、その順調さこそが、彼のギャンブラーとしての魂を、ゆっくりと、しかし確実に蝕んでいた。
勝てると分かっているテーブルで、ただチップを積み上げるだけの作業。
それは、ギャンブルではない。ただの、労働だ。
彼は、自らのビルドがあまりにも美しく、そして効率的に完成してしまったが故の、奇妙な「停滞感」に囚われていた。
何か、新しい刺激が欲しい。
この、完成されすぎた日常を打ち破るような、新たな発見が。
この、渇ききった魂を再び燃え上がらせるような、最高の「スリル」が。
「…チッ。うじうじ考えてても、しょうがねえか」
彼は、悪態をついた。
そうだ。
答えが見つからないのなら、体を動かすに限る。
テーブルに着き、カードを配り続ければ、いずれ、流れは変わる。
新たな「当たり」のカードが、配られるかもしれない。
彼は、椅子からゆっくりと立ち上がった。
そして彼は、その日、配信のスイッチを入れることなく、ただ一人、静かに転移ゲートへと向かった。
一方その頃、神崎隼人 "JOKER" は、オフで金策していた。
そんな世界の喧騒など何も知らずに、ただ金策のために、A級中位ダンジョン【機鋼の都クロノポリス】を、退屈そうに周回していた。
今日の目的は、ただ一つ。
何も考えずに、体を動かすこと。
その単調な作業の中で、自らの思考をリセットすることだった。
◇
A級中位ダンジョン【機鋼の都クロノポリス】。
その黒曜石と真鍮で構築された無機質な都市風景は、もはや彼の庭となっていた。
彼の耳に装着されたワイヤレスイヤホンからは、彼が最近「無心になるためのBGM」と称して好んで聴いている、現代音楽の巨匠、ジョン・ケージの『4分33秒』が、ただ静かに、そして無限に流れていた。
無音の、音楽。
それが、今の彼の心境を、何よりも雄弁に物語っていた。
カシャカシャカシャッ!
摩天楼の谷間から、数体の【警邏式オートマタ・ホプロン】が、その鋭い駆動音と共に現れる。
彼は、その敵の姿に、何の感情も抱かない。
ただ、目の前に現れた「障害物」として、認識するだけ。
彼の右手は、もはや彼の意識とは別の生き物のように滑らかに動き、その腰に差されたユニーク長剣【憎悪の残響】を抜き放つ。
そして、ただ呼吸をするかのように、自然に、剣を振るう。
ザシュッ!
彼の長剣が通り過ぎたその軌跡上の全てのオートマタが、その硬い装甲を青黒い霜で覆われながら、一瞬で砕け散り、光の粒子となって消えていく。
もはや、スキルを使うまでもない。
ただ、歩き、そして時折剣を振るうだけ。
それだけで、このA級中位ダンジョンは、彼の独壇場と化していた。
彼は、その単調な殺戮を、ただ黙々と繰り返していく。
ドロップした魔石を拾い上げる、その動作すらも、もはや機械的だった。
彼の心は、完全に「無」だった。
その、あまりにも平和で、退屈な、しかし確実な「作業」の時間。
それが、永遠に続くかと思われた、その時だった。
彼が、この日の最後の獲物となる一体の【オートマトン・センチュリオン】を、いつものように【衝撃波の一撃】で粉砕した、その足元。
これまで見慣れた魔石の紫色の光や、ガラクタの鈍い輝きとは明らかに違う、一つの強烈な光が生まれた。
それは、まるで深淵そのものを切り取って布地にしたかのような、濃密で力強い、黒と紫が混じり合った禍々しい光だった。
ユニークの、輝き。
彼の【運命の天秤】が、またしてもその気まぐれな力を見せた。
その光が生まれた、瞬間。
それまで「無」だったはずの彼の心に、ほんのわずかな、しかし確かなさざ波が立った。
(…ほう)
彼の、眠りかけていたギャンブラーの魂が、わずかに目を覚ます。
彼は、その神々しくも禍々しい光の元へと、ゆっくりと歩み寄っていく。
そして、その光の中心に静かに横たわる一つの胴防具を、拾い上げた。
それは、黒いシルクのような、滑らかで、しかしどこまでも頑強な、美しいローブアーマーだった。
ARシステムが、その詳細な性能を表示する。
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名前: 背教者 (The Apostate)
ベース: カバリストのレガリア
アイテムレベル: 46
装備条件: レベル35
【ユニーク特性】
筋力 +42
全元素耐性 +28%
装備している防具アイテムから、最大エナジーシールドの代わりに、最大ライフを得る。
(このアイテムは、知性や敏捷性の要求値を持たない)
(このアイテムは、エナジーシールドを持たない)(隠しMOD)
【フレーバーテキスト】 知性の塔を、自らの手で、打ち砕け。 その瓦礫の上にこそ、新たな力の礎がある。 賢者の道を捨て、獣の道を選んだ者だけが、この冒涜の衣を、纏う資格を得る。
JOKER視点。
隼人は、その表示された性能を見て、首を傾げた。
「なんだ、この鎧?ESを、ライフに変換?」
彼の口から、素直な困惑の声が漏れる。
彼のビルドは、確かにライフを重視している。だが、それはあくまで、HPリジェネと物理ダメージ軽減による「耐久力」だ。
ESを完全に捨て去り、ライフだけに特化する。
そんな、あまりにも極端なビルドは、彼の知識の中にはなかった。
(…それに、筋力と耐性だけか。火力に繋がるMODが、一つもねえな)
彼は、そう評価した。
確かに、基礎性能は高い。ライフも、耐性も、申し分ない。
だが、今の彼が身に着けている【鋼鉄の炉心】に比べれば、物理防御の面で、あまりにも見劣りする。
彼のビルドとは、全く思想が違う。
あまりにも、ニッチすぎる。
「…まあ、ユニークだし、それなりの値段にはなるだろ。後で、オークションにでも流しておくか」
彼は、そう結論付けた。
彼のビルドとは、相性が悪い。
だが、世の中には、物好きなプレイヤーもいるだろう。
そんな彼らにとっては、あるいは価値のある一品なのかもしれない。
彼は、その禍々しいローブを、インベントリの奥深くへと、無造作に放り込んだ。
彼にとって、それは今日の単調な労働に対する、ささやかな「ボーナス」程度の認識でしかなかった。
その、たった一枚のカードが、今この瞬間も世界の頂点で繰り広げられている神々のポーカーゲームの、そのテーブルの全てをひっくり返すほどのワイルドカードであることなど。
彼は、知る由もなかった。
彼は、その日の「仕事」を終え、ポータルを開き、自室へと帰還した。
そして、彼はその日の夜。
シャワーを浴び、ベッドに寝転がりながら、彼は、今日手に入れたあの奇妙な鎧のことを思い出した。
彼は、スマートフォンでSeekerNetのマーケットを開き、その鎧の相場を、調べてみることにした。