第225話
日付:X月X日(土曜日)
東京の空は、週末の解放感を嘲笑うかのように、分厚い灰色の雲に覆われていた。
だが、日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』の内部は、その陰鬱な天候が嘘のように、乾いた、そしてどこまでも張り詰めた熱気に包まれ続けていた。
全ての探索者の視線は、もはや一つのスレッドに、その一点だけに注がれていたと言っても過言ではなかった。
【SeekerNet 掲示板 - A級探索者専用フォーラム】
スレッドタイトル: 【膠着状態】オーディン vs 青龍、互いに9分55秒の壁を破れず!【次の一手は?】 Part.8
A級上位ダンジョン【天測の神域】。
その攻略記録を巡る、北欧の神々の軍勢【オーディン】と、中華の赤い龍【青龍】の、熾烈な代理戦争。
昨日、青龍が叩き出した「9分55秒」という驚異的な記録。
それに対し、オーディンはその数時間後、全く同じ「9分55秒」というタイムを叩き出し、世界記録に並んでみせた。
そこから、24時間以上が経過していた。
だが、その均衡は、一秒たりとも破られていない。
両ギルドは、その後も何度も、何度も、その神域へと挑戦を繰り返している。
だが、その結果は、常に同じ。
9分56秒。
9分57秒。
あるいは、わずかなミスで10分を超えてしまう。
彼らの戦いは、完全に「限界」に達していた。
スレッドは、そのあまりにも高いレベルでの、しかし完全に膠着した戦況を、固唾を飲んで見守る者たちの、様々な憶測と分析で溢れかえっていた。
1121: 名無しのA級魔術師
…もう、無理なんじゃないか?
9分55秒。
これ以上のタイムは、人間の領域を超えてる。
これこそが、現行のビルドと戦術における、理論上の限界値なんだろう。
1125: 名無しのビルド考察家
1121
いや、まだだ。
俺は、まだ縮められると信じてる。
昨日のオーディンの新戦術…サポーターを加えての、【元素の脆弱性】と【賢者のフラスコ】のコンボ。
あれは、確かに革命的だった。
だが、まだ最適化の余地は、あるはずだ。
例えば、あのアタッカーたちのスキルローテーション。あの最後のボスへのバーストダメージの場面で、もし0.1秒でも早くスキルを発動できていれば…。
1132: ハクスラ廃人
1125
だから、それが無理なんだって言ってんだよ、この理論バカが。
今のあいつらの攻撃速度と詠唱速度は、すでにオーラと装備のバフで、上限ギリギリまで高められてる。
これ以上、速くすることなど不可能だ。
プレイヤースキルも、そうだ。
あのトップランカーたちが、これ以上ないほどの完璧な立ち回りをして、この結果なんだ。
これ以上のタイム短縮には、純粋なプレイヤースキルだけではなく、新たな「装備」によるビルドの更新が、必要不可欠となる。
その、あまりにも的を射たハクスラ廃人の一言。
それに、スレッドの誰もが同意せざるを得なかった。
そうだ。
この膠着した戦況を打ち破る鍵は、もはやダンジョンの中にはない。
両ギルドの視線は、ダンジョンから公式オークションハウスへと移っていた。
新たな、そしてより強力な「カード」を求めて。
戦いの舞台は、戦場から市場へと、その姿を変えようとしていたのだ。
◇
【オーディン日本支部 - 作戦司令室】
静寂。
北欧の、ミニマルで機能的なデザインで統一された、広大な作戦司令室。
その中央に設置された巨大なホログラムモニターに、自らのギルドが叩き出した「9分55秒」の戦闘ログが、繰り返し再生されていた。
その光景を、ギルドマスターであるビョルンは、ただ無言で、その氷河のように冷たい瞳で見つめていた。
彼の隣には、数人のアナリストたちが息を殺して、その言葉を待っている。
やがて、ビョルンは、ふっと息を吐き出した。
「…限界か」
その、静かな、しかし重い一言。
それに、副官であるイングリッドが、静かに頷いた。
「はい。現在のビルド構成と、我々の持つ装備では、これ以上のタイム更新は、統計的に見てもほぼ不可能です」
「青龍も、同じ結論に至っているはずです」
ビョルンの言葉に、イングリッドは続けた。
「おそらく、彼らも今頃、我々と同じようにマーケットを監視していることでしょう。この均衡を破る、新たな『一手』を探して」
「…ああ」
ビョルンは、頷いた。
「戦場は市場へと移った。ならば、我々もまた、そのテーブルに着くまでのこと」
彼は、アナリストたちへと向き直った。
その声には、揺るぎない王者の意志が宿っていた。
「――全アナリストに告ぐ。これより、24時間体制で公式オークションハウスと、アメ横の全てのマーケットを監視せよ」
「我々のビルドに、0.1秒でもアドバンテージをもたらす可能性のある、全てのアイテムをリストアップしろ。特に、**移動速度と、クールダウン短縮。**この二つのMODを持つ足装備。それが出品された場合、最優先で確保する」
「予算に、上限はない。青龍に、競り負けることなど、決して許さん」
その、あまりにも力強い宣戦布告。
それに、司令室の全ての人間が、静かに、しかし力強く頷いた。
彼らの、もう一つの戦争が、今、始まった。
◇
その日の、午後。
SeekerNetのオークションハウススレッドが、一つの小さな、しかし確かな熱狂に包まれた。
スレッドタイトル:【出品速報】A級レアブーツ、市場に流れる
311: 名無しの装備ウォッチャー
おい、お前ら!
今、オークションに面白いブーツが出品されたぞ!
[スクリーンショット:一つのレア等級のブーツの詳細な性能画像]
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アイテム名: 疾風の軌跡
等級: レア(黄)
ベース: 竜鱗のブーツ
アイテムレベル: 84
装備要件: レベル62, 筋力88, 敏捷88
【プロパティ】 最大ライフ +85、移動速度が30%増加する、雷耐性 +42%、スキルのクールダウン回復速度が12%増加する
その、あまりにも完成された性能。
それに、スレッドの猛者たちが、一斉に食いついた。
『うおおおおお!なんだ、このブーツは!』
『移動速度30%に、クールダウン回復12%!?神MODの組み合わせじゃねえか!』
『ライフも、耐性も高い!これは、大当たりだ!』
このダンジョン攻略の鍵となる、ある特定のMODが付いたレアブーツが、オークションに出品されたのだ。
スレッドは、お祭り騒ぎとなった。
誰もが、このブーツがいくらで落札されるのか、その行方を固唾を飲んで見守っていた。
そして、その入札は、開始直後から熾烈を極めた。
【入札者:名無しのA級富豪】
【入札額:5,000,000円】
【入札者:ギルド【紅蓮の翼】】
【入札額:8,000,000円】
【入札者:名無しのA級富豪】
【入札額:10,000,000円】
開始から、わずか数分で、入札額は1000万円の大台を突破した。
**本来であれば、数百万程度の価値しかないはずのそのブーツが、**今のこの異常なまでの熱狂の中で、その価値を何倍にも、何十倍にも膨れ上がらせていた。
だが、そのお遊びの時間は、長くは続かなかった。
オークション開始から、10分後。
二つの、巨大な影が、そのテーブルへと姿を現した。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:30,000,000円】
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:35,000,000円】
オーディンと、青龍。
その二つの名前が表示された、瞬間。
それまで入札合戦を繰り広げていた他の全てのプレイヤーが、一斉に沈黙した。
彼らは、理解した。
このテーブルは、もはや自分たちが座るべき場所ではないと。
神々の戦争が、始まったのだと。
そこからは、もはやオークションではなかった。
ただ、純粋な、札束の殴り合いだった。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:50,000,000円】
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:60,000,000円】
1000万単位のチップが、まるで冗談のように飛び交っていく。
スレッドの住人たちは、もはや言葉を失い、ただその狂乱の光景を見つめることしかできなかった。
そして、ついにその時は来た。
価格が7500万円に達した、その時。
青龍の入札が、ぴたりと止んだ。
彼らは、降りたのだ。
オーディンが、その最後の、そして決定的な一撃を叩き込む。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:80,000,000円】
その、あまりにも暴力的な数字。
それに、他の全てのプレイヤーが沈黙した。
そして、運命のカウントダウンがゼロになる。
【【疾風の軌跡】は、Guild_Odin_Asset様によって、80,000,000円で落札されました】
最終的に、8000万円という異常な価格で落札された。落札者は、【オーディン】だった。
静寂。
そして、その静寂を破るかのように、スレッドはこの日一番の爆発を起こした。
『はっ、8000万!?!?』
『靴一足に、8000万!?家が、買えるぞ!』
『オーディンの勝利か…!』
『これで、またオーディンが一歩リードだな…。青龍は、どうするんだ…?』
その熱狂と、次なる戦いへの期待。
その、巨大な渦の中心で。
神崎隼人 "JOKER" は、その全ての狂騒を何も知らずに、ただ自室のベッドの上で、穏やかな眠りについていた。
彼が、この世界の巨大なゲームの、その「キャスティングボート」を握ることになるのは、もう少しだけ先の話。
彼の本当の「ショー」が始まるのは、彼があの冒涜の鎧をその手に収める、その瞬間からだった。