第23話
「…なら、少しだけ付き合ってもらうか」
隼人のそのぶっきらぼうだが、確かに助けを求める響きを持った言葉に、水瀬雫は心の底から嬉しそうな、満開の花のような笑顔を見せた。
「はいっ!もちろんです!」
彼女は弾むような声でそう答えると、「こちらへどうぞ」と、カウンターの奥にある小さな相談用のブースへと隼人を案内した。そこは、曇りガラスで半個室のように仕切られた、プライバシーに配慮された空間だった。柔らかなソファと、小さなテーブルが置かれているだけのシンプルな部屋。だが、裏社会の薄汚れた交渉部屋しか知らなかった隼人にとって、その清潔で落ち着いた雰囲気は、不思議と心を落ち着かせるものがあった。
雫は、隼人がソファに腰掛けるのを確認すると、自らも向かいの席に座り、テーブルの上にギルド支給品であろう最新鋭のタブレット端末を置いた。
「では、JOKERさんの探索者データを表示しますね」
彼女が慣れた手つきで端末を操作すると、隼人のARコンタクトレンズにも、その画面が共有される。彼の無骨なステータス画面が、表示された。
雫はその画面を一瞥すると、改めて賞賛と驚嘆が入り混じったような溜息を漏らした。
「本当にすごいステータス…。レベル5になったばかりで、この数値は異常ですよ。それに、この装備構成…。昨日の今日で、よくこれだけのものを…」
彼女は、アメ横のガラクタ市で隼人がかき集めた統一感のない、しかし極めて実践的な装備の数々を、プロの目で正確に評価していた。その言葉に、隼人は少しだけ誇らしいような、気恥ずかしいような、複雑な感情を抱いた。
「昨日の配信、拝見しました。【清純の元素】のドロップ、本当におめでとうございます。あれは、探索者の誰もが一度は夢見る最高の幸運です」
「…あんたも、持ってたのか?」
隼人が不意にそう尋ねると、雫は少しだけ寂しそうな、遠い目をした。
「…いいえ。私は、ついに手にすることはできませんでした。だから分かるんです。あれが、どれほどの価値を持つ希望の光なのか」
その言葉には、彼女自身もかつては夢を追いかける一人の「探索者」であったことを、色濃く匂わせていた。
だが彼女はすぐに、プロの受付嬢の顔に戻ると、明るく話題を切り替えた。
「さて、本題に入りましょうか。JOKERさんがゴブリン・シャーマンを倒したことで、レベルが5に到達しましたよね?」
「ああ」
「レベル5。それは、この世界に足を踏み入れた全ての探索者にとって、最初の、そして最も重要な転機となるレベルなんです」
雫はそう言うと、タブレットの画面をスワイプした。
その瞬間、隼人の視界に、息を呑むような広大な光景が広がった。
それは、まるで宇宙そのものを凝縮したかのような、光のタペストリー。
無数の星々が光の線で結ばれ、巨大な、そして複雑怪奇な「星座」をいくつも、いくつも形成している。一つ一つの星が、それぞれ固有の淡い輝きを放っている。赤く燃える巨星、青白く輝く連星、緑色のオーラを纏う星雲…。
そのあまりの美しさと、圧倒的な情報量に、隼人は一瞬言葉を失った。
「…なんだ、これは…」
「これがJOKERさんの、いえ、全ての探索者の内に眠る可能性の宇宙。私達はこれを、**『パッシブスキルツリー』**と呼んでいます」
雫のその、どこか神聖な響きすら持った言葉に、隼人はただ目の前の広大な星空を見つめていた。
「レベル5に到達した探索者は、皆この自分だけの『星空』へのアクセス権を得るんです。そしてこれから、JOKERさんはこの無数の星の中から自らの進むべき道を選び、自分だけの『星座』を描き出していくことになります」
彼女はタブレットの上で指を滑らせ、星空の一部を拡大していく。
すると、一つ一つの「星」が、実は具体的な能力を持つ「スキルノード」であることが分かった。
『筋力+10』
『最大HP+30』
『長剣装備時の攻撃速度+4%』
『攻撃ヒット時、確率で敵を流血させる』
無数のパッシブスキル。その一つ一つが、キャラクターを永続的に強化する小さな、しかし確実な力。
隼人の、ギャンブラーとしての血が騒ぎ始めていた。
これは、なんだ。
これはもはや、ただのレベルアップではない。
これは、自分だけの最強の「勝ちパターン(ビルド)」を、無限の選択肢の中から構築していく、究極の知的ゲームではないか。
雫はそんな彼の内なる興奮を感じ取ったのか、微笑みながら説明を続けた。
「この広大なツリーのスキルを習得するためには、『パッシブスキルポイント』が必要になります」
「ポイント?」
「はい。このポイントはまず、レベルが一つ上がるごとに1ポイントずつ、自動的に付与されます。JOKERさんは、レベル1から5まで4レベルアップしたのですでに、4ポイントをお持ちのはずです。そして…」
彼女はここで、少しだけ悪戯っぽく言葉を区切った。
「実はもう一つ、入手方法があるんです」
「…もう一つ?」
「はい。ダンジョンの中や、ギルドの掲示板などで、稀に特定のクエストが提示されることがあります。例えば、『〇〇を討伐せよ』とか、『××を収集せよ』とか。それらのクエストの中には、クリアした時の初回報酬として、この貴重なパッシブスキルポイントが設定されていることがあるんですよ」
クエスト。
その言葉に、隼人の目が鋭く光った。
それは彼にとって、新たな「稼ぎ」の手段を意味していた。金やアイテムだけではない。自らの恒久的な「力」そのものを稼ぐことができる、新たなテーブル。
彼の頭の中ではすでに、どのクエストが最も効率よくポイントを稼げるかという、新たな計算が始まっていた。
雫はそんな彼の思考の速さに、感心したような、それでいて少し呆れたような、複雑な笑みを浮かべた。
「ふふっ…本当にあなたは何でも、ギャンブルのテーブルに見えてしまうんですね」
「…うるさい」
隼人は図星を突かれ、少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
雫はそんな彼の様子を微笑ましく思いながら、話を本題へと戻した。
「さて、JOKERさんは今、貴重なスキルポイントをいくつかお持ちです。そして目の前には、この無限に広がる選択肢の宇宙がある。…では最初に、どの星を目指すべきか」
彼女はタブレットの画面を操作し、広大な星空の中から、一つの力強い戦士を象徴するような巨大な星座をハイライトした。
「私達ギルドの職員が、初心者の【戦士】クラスの方に、まずお勧めしているのはこのルートですね」
彼女の指先が、星空の上に一本の光の道筋を描き出す。
「まずスタート地点から最も近い、この**『戦斧座』の付け根にある【最大HP上昇10%】のノードを取得します。これは、生存率を上げるための基本中の基本です」
「次に、そこからこの『巨人の盾座』へと道を伸ばしていく。この星座には、防御に関する強力なスキルが数多く眠っています。特にこのひときわ大きく輝いている星…【物理耐性+30 & 最大HP上昇5%】。これを、中盤の目標として目指すのが、最も死亡率の低い黄金ルートとされています」
「そして最後に、余ったポイントでこの『猛牛座』にある【物理攻撃上昇12%】**のような火力系のスキルを取得し、攻守のバランスを整えていく。これが、いわゆる教科書通りのバランス型ビルドですね」
それは、あまりにも合理的で、堅実で、そしてどこまでも退屈な道筋だった。
リスクを極限まで排し、安定した勝利を目指す。
隼人はそのあまりにも「正しすぎる」ビルドパスを眺めながら、内心欠伸を噛み殺していた。
そんな彼の心を見透かしたかのように、雫はくすりと笑った。
「…まあ、JOKERさんには少し物足りないかもしれませんね」
彼女はそう言うと、今度は星空の全く別の領域を指し示した。そこは、他の星座から孤立したかのようにぽつんと存在する、歪で、しかし強烈な光を放つ赤黒い星雲だった。
「ただし、これはあくまで初心者の話です。プロの探索者たちや、特定の役割に特化したパーティー専門家たちは、全く違う思想でこの星空を旅します」
彼女の瞳が、先ほどまでの優しい先生のそれから、一人のゲームを愛するプレイヤーの熱を帯びたそれに変わっていた。
「彼らは、あえてバランスを崩すんです」
「…崩す?」
「はい。例えば、防御に関するスキルを一切取得しない。その代わり、全てのポイントを火力だけに注ぎ込む。敵に攻撃される前に、その圧倒的な火力で全てを殲滅する。私達はそれを、敬意と少しの揶揄を込めて**『一点突破型』と呼んでいます」
「あるいは、その逆。攻撃スキルには、一切目もくれない。ただひたすらに、パーティーの仲間を強化する『オーラ』の効果や、その範囲を拡大するスキルだけに特化していく。戦闘能力は、皆無。でも、彼、あるいは彼女がパーティーにいるだけで、他のメンバー全員の能力が何倍にも跳ね上がる。究極の『後方支援型』**ですね」
一点突破型。後方支援型。
そのあまりにも極端で、ピーキーなビルドの思想。
それこそが、隼人のギャンブラーとしての魂を強く、強く揺さぶった。
そうだ、ギャンブルは中途半端が一番負ける。勝つためには、時に全てを一点に賭ける狂気が必要なのだ。
そして彼は、気づいてしまった。
自らが持つユニークスキル【複数人の人生】が、このパッシブツリーという新たなゲーム盤の上で、どれほど異常で、どれほど反則的な力を持つことになるのかを。
(…なるほどな)
彼の脳内に、悪魔的な閃きが稲妻のように駆け巡る。
(つまり、俺は…)
(その全ての『特化型』に、いつでも好きな時に、そして一切のコストを支払うことなく**“なる”**ことができるということか…)
他の探索者たちが、人生を賭けて一つの道を究極まで極めているその裏側で。
彼は、その全ての道を同時に、そして自在に歩むことができる。
朝は、物理防御を極めた絶対防御の【戦士】として。
昼は、クリティカル率に全てを賭けた一撃必殺の【盗賊】として。
そして夜は、複数のオーラをその身に宿す【オーラ支援ビルド】として。
それはもはや、ただの探索者ではない。
戦況に応じて、その役割を自在に変化させる唯一無二の、究極のジョーカー。
彼の口元に、もはや隠しきることのできない、獰猛で歓喜に満ちた笑みが浮かび上がっていた。
そのあまりにも邪悪で、楽しそうな笑みに、雫は少しだけ背筋に寒いものを感じながらも、やはりこの人のファンでよかったと、心の底から思うのだった。
隼人は、自らの内に秘めた途方もない可能性に酔いしれながら、目の前の親切なナビゲーターに、静かに礼を言った。
「…なるほどな。面白い。参考になった」
その言葉は、彼の心からの感謝の言葉だった。
彼と彼女の、このささやかな作戦会議。
それがこの後、世界の探索者の「常識」を根底から覆していく壮大な物語の、本当の始まりになることを、まだ誰も知らなかった。




