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第222話

 西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を、淡く、そしてどこか無機質に照らし出している。

 神崎隼人――“JOKER”は、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された自らの銀行口座の残高を、静かに、そしてどこか他人事のように眺めていた。


【残高: 14,250,000,000 JPY】


 ゼロが、いくつあるのか。

 もはや、数えるのも億劫だった。

 142億5000万円。

 数ヶ月前まで、日々の食費にすら頭を悩ませ、妹・美咲の治療費という名の終わりのない借金に魂をすり減らしていた、あの頃の自分。彼がもし、今のこの光景を見たら、一体何を思うだろうか。

 笑うだろうか。

 あるいは、そのあまりにも現実離れした数字の暴力に、ただ呆然と立ち尽くすだけだろうか。


 彼は、ふっと息を吐き出した。

 その息は、タバコの煙の代わりに、ただ空虚な疲労の色を帯びていた。

 彼は、誰に言うでもなく呟いた。

 その声は、広すぎるリビングの静寂に、虚しく吸い込まれていった。


「…うーん、こんなつもりじゃなかったんだけどな」


 そうだ。

 こんなつもりでは、なかった。

 彼が求めていたのは、ただ、妹と二人で穏やかに暮らせるだけの、ささやかな日常だったはずだ。

 だが、彼が投じた一枚のカードは、彼の意図を遥かに超えて、世界の巨大な歯車を、大きく、そして狂おしく回してしまった。

 彼は、もはやただの探索者ではない。

 世界のパワーバランスそのものを揺るがす、巨大な嵐の中心にいる。

 その自覚が、彼に言いようのない孤独と、そして皮肉な高揚感をもたらしていた。


 この天文学的な数字が、彼の口座に振り込まれる、その全ての始まりは。

 ほんの一週間前の、ある一つの、ささやかな記録からだった。


 ◇


【物語は、一週間前に遡る】


 日付:X月X日(水曜日)


 その日の『SeekerNet』は、A級探索者たちの、新たな熱狂に包まれていた。

 B級上位という名の長い、長い停滞期を乗り越え、A級という新たなステージへと足を踏み入れた者たち。彼らにとってダンジョンとは、もはやただの狩場ではない。自らの実力とビルドの完成度を世界に示すための「舞台」であり、そして互いのプライドを賭けて競い合う「サーキット」だった。

 そして、そのサーキットに、新たな、そして最も過酷なグランプリが誕生した。


 A級上位ダンジョン【天測(てんそく)神域(しんいき)】。


 古代、星々を観測し、神々の言葉を読み解いたとされる、伝説の占星術師たちの聖域がダンジョン化した場所。

 そこは、常に星空に包まれた、幻想的な空間だった。

 床も、壁も、天井も、全てが磨き上げられた黒曜石で作られ、そこには無数の星々が、まるで本物の夜空のように瞬いている。

 だが、そのあまりにも美しい光景とは裏腹に、そのダンジョンは、挑戦者に絶対的なまでの「効率」を要求した。


 出現するモンスター…【星屑のゴーレム】や【流星のインプ】たちは、一体一体の耐久力は低い。

 だが、その攻撃力と、そして何よりもその出現数が、異常なのだ。

 一度、戦闘が始まれば、四方八方から光の速さで魔法の弾丸が降り注ぐ。

 生半可な防御力では、一瞬で蜂の巣にされるだろう。

 そして、このダンジョンの主である【星詠(ほしよ)みの大賢者(だいけんじゃ)】。

 彼は、挑戦者が自らの領域に足を踏み入れたその瞬間から、世界の理を書き換える強力なデバフを、戦場全体に展開し続ける。

 それは、「時間の呪い」。

 一定時間内にボスを倒しきれなければ、挑戦者は問答無用でダンジョンから強制的に排出される。

 まさに、タイムアタック。

 攻略には、パーティ全体の「火力(DPS)」と「速度」が、極限まで要求されるのだ。

 この、あまりにも潔い、しかし、それ故に残酷なルール。

 それが、A級のトップランカーたちの闘争心に火をつけた。

 我こそが、世界最速であると。

 その、ただ一つの栄誉のために。

 彼らは、この新たなサーキットへと、その挑戦を始めた。


【SeekerNet 掲示板 - A級探索者専用フォーラム】


 スレッドタイトル:【新A級】天測の神域、攻略情報交換スレ Part.1


 1: 名無しのA級魔術師

 スレ立て乙。

 早速パーティで突っ込んできたが、これはヤバいな。

 マジで、地獄だ。

 道中の雑魚ですら、火力がC級のボス並みにある。

 うちのタンク、一瞬で溶かされたぞ。


 2: 名無しのA級盗賊


 1

 分かる。

 俺たちもさっき行ってきたが、ボス部屋にすらたどり着けずに撤退したわ。

 あの、星屑のゴーレムのレーザー攻撃、回避不能だろ、あれ。

 密度が、おかしい。


 3: 名無しのA級ヒーラー


 2

 そうですよね!

 それに、あの流星のインプの動き!速すぎて、ヒールのターゲットが全く追いつかない!

 これ、どうやって攻略するんですか…?


 4: ハクスラ廃人

 お前ら、甘えんな。

 だから、てめえらはいつまで経ってもA級下位なんだよ。

 このダンジョンはな、小手先のプレイヤースキルでどうにかなる場所じゃねえ。

「ビルド」そのものが、試されてるんだ。

 タンク?ヒーラー?

 そんな、悠長なもんを連れて行ってる時点で、お前らは負けてる。

 答えは、一つだ。

「やられる前に、やれ」。

 それしか、ねえ。


 5: 元ギルドマン@戦士一筋


 4

 ハクスラ廃人の言う通りだ。

 このダンジョンは、純粋なDPSチェックだ。

 防御を捨て、火力と速度に特化したビルド。

 そして、その火力を最大限に引き出すための、完璧なパーティ連携。

 それができないギルドは、このテーブルに着く資格すらない。


 その、あまりにも過酷なトップランカーたちの議論。

 それに、スレッドは絶望と、そしてわずかな希望の光を探す声で、溢れかえっていた。

 誰もが、最初にこの地獄を制覇するのは、一体どのギルドなのか。

 固唾を飲んで、見守っていた。

 そして、その「時」は、唐突に訪れた。


 日付:X月X日(水曜日)午後3時


 スレッドに、一つの衝撃的な書き込みが、投下された。

 投稿主は、日本の中堅A級ギルド【月詠(つくよみ)】の、ギルドマスター本人だった。


 255: 月詠の頭領

 ――獲ったぞ。


 その、あまりにも短い、しかしどこまでも力強い勝利宣言。

 そして、その書き込みに添付されていたのは、一枚のスクリーンショットだった。

 そこに表示されていたのは、震えるような、しかし確かな勝利の記録。


【【天測の神域】攻略完了】

【クリアタイム:15分28秒】


 静寂。

 数秒間の、絶対的な沈黙。

 そして、次の瞬間。

 スレッドは、爆発した。


『うおおおおおお!マジかよ!』

『月詠!月詠が、やりやがった!』

『15分台!?信じられねえ!』


 SeekerNetの掲示板では、「月詠(つくよみ)すげえ!」、「日本のギルドも、やるじゃん!」といった、和やかな賞賛の声が上がった。

 日本の、決してトップギルドとは言えない中堅ギルドが、世界の列強に先駆けてこの難攻不落のダンジョンを陥落させた。

 その事実は、日本の探索者たちに、大きな勇気と誇りを与えた。

 まだ、誰もこの記録が世界規模の戦争の引き金になるとは、思っていなかった。

 彼らは、ただ純粋に、同じ国の仲間が成し遂げた快挙を、祝福していた。

 その、温かい、そしてどこまでも平和な熱狂。

 それは、これから始まる血で血を洗う冷たい戦争の、あまりにも穏やかすぎる序曲に過ぎなかった。


 その日本の、小さな、しかし確かな勝利のニュース。

 それは、光の速さで世界中を駆け巡り、そして、それぞれの国の王たちの元へと届いていた。

 北欧の、氷の城塞。

 中国の、深紅の宮殿。

 そして、アメリカの、摩天楼の頂。

 彼らは、その日本のギルドが叩き出した「15分28秒」という数字を、ただ静かに、そして冷徹な目で見つめていた。

 その瞳には、賞賛の色はない。

 ただ、自らが次に塗り替えるべき「目標」として、その数字を、その魂に刻み込んでいるだけだった。

 静かなる、火花。

 それは、確かに、世界を巻き込む巨大な戦いの、最初の、そして最も小さな狼煙だったのだ。




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