第214話
絶対的な、静寂。
先ほどまでこの広大な礼拝堂を満たしていた、数十発の魔力の矢が空気を切り裂く耳障りな音。それが、嘘のように消え去っていた。
後に残されたのは、一体の忠実なる僕の犠牲と、そしてその犠牲によって得られた、わずか数秒の、しかしあまりにも貴重な「時間」。
神崎隼人――“JOKER”は、その静寂の中心で、ただ静かに、そしてどこまでも冷徹に、目の前の盤面を見つめていた。
彼の視界の隅、ARウィンドウに表示されたHPバーは、全く傷ついていない。だが、彼の魂とリンクしたミニオンの数は、確かに一体減っていた。
一体の、損失。
それは、彼の戦力が20%低下したことを意味する。
だが、彼の心に焦りの色はない。
ギャンブルにおいて、序盤の小さな損失は、最終的な勝利のための「必要経費」だ。
大事なのは、その損失をどう活かし、どう取り返すか。
彼の思考は、すでに次なる一手へと、移行していた。
「――残り4体は、敵への攻撃をしろ!」
彼の、復讐の指揮官としての声が、静かな礼拝堂に響き渡る。
その命令に、残された4体のゾンビミニオンが、即座に反応した。
彼らは、主の無念を晴らすかのように、あるいは自らの同胞の死を悼むかのように、ウオオオと、これまでとは比較にならないほど力強い雄叫びを上げた。
そして、その腐った肉体をまるで鋼鉄のように硬質化させ、目の前の敵陣へと、なだれ込むように殺到していく。
だが、その動きは、もはやただの突撃ではなかった。
彼の、緻密な、そしてどこまでも冷徹な「戦術」が、そこにはあった。
彼の配信のコメント欄もまた、その息を呑むような攻防の、次なる一手に固唾を飲んで見守っていた。
数十万人の観客たちが、一人の指揮官の采配に、その全ての意識を集中させている。
『一体、犠牲にしちまったか…』
『だが、JOKERさんは無傷だ!あの弾幕を、ノーダメージで凌ぎ切ったぞ!』
『ここからだ!ここから、どうやってあの鉄壁の布陣を崩すのか!』
その熱狂と期待を背中に感じながら、隼人は、自らの戦いを始めた。
彼の新たな人生の、本当の「ショー」が、今、始まった。
彼は、動かない。
彼は、決して前に出ることはない。
彼の仕事は、もはや剣を振るうことではない。
戦場を、俯瞰し、支配することだ。
彼は、常にゾンビ達に隠れるように、その身を動かし続けた。
4体のゾンビが作り出す、揺るぎない、しかし常に流動的な「壁」。その壁の、さらに後ろ。
最も安全な、そして最も戦場全体を見渡せる、指揮官のポジション。
そこが、彼の新たな玉座だった。
そして、彼はその安全地帯から、その骨のワンドを、まるでオーケストラの指揮棒のように、優雅に、しかし的確に振るった。
彼の指先から、二つの呪いが、放たれる。
一つは、敵の防御力を根こそぎ奪い去る、禍々しい紫色の光。
【脆弱の呪い】。
もう一つは、その存在そのものを焼き尽くす、小さな、しかし確かな殺意の炎。
【火の矢】。
その二つの呪詛が、寸分の狂いもなく、前衛に立つ【嘆きのガーゴイル】と、その後方に控える5体の【嘆きの聖歌隊員】たち、その全てへと、同時に降り注いだ。
敵の頭上に、紫と赤のデバフアイコンが、死の宣告のように点灯する。
「ギシャアアアアアッ!」
聖歌隊員たちが、甲高い、耳障りな奇声を上げた。
彼らは、再びその指先から、魔法の弾幕を生成しようとする。
だが、その詠唱は、決して完了することはなかった。
なぜなら、その時にはすでに、隼人の死の軍団が、その懐へと到達していたからだ。
「――まず、指揮者を潰せ」
彼の、冷徹な命令。
ターゲットは、中央に鎮座する、あの巨大なガーゴイル。
4体のゾンビは、その命令通り、ガーゴイルただ一体へと、その全ての攻撃を集中させた。
ガキンッ、ゴキンッ、バキンッ!
ゾンビたちの、骨の剣と腐った爪が、ガーゴイルの硬い石の体を容赦なく打ち据える。
その一撃一撃は、もはやF級のそれではない。
パッシブスキルによって、42%も増幅された純粋な物理ダメージ。
そして、マスタリー**【骨砕きの猛攻】**の効果。
二回に一回の確率で、その攻撃はガーゴイルの物理耐性を無視し、その内部の魔力の核へと、直接ダメージを叩き込んでいく。
「グオ…!?」
ガーゴイルが、初めて明確な苦痛の声を上げた。
その石の体表に、これまででは考えられないほどの、深い亀裂が走っていく。
だが、聖歌隊員たちも、ただ黙って見ているだけではなかった。
彼らは、そのターゲットを、ゾンビ軍団へと切り替え、魔法の矢の雨を降らせ始めた。
ドッドッドッドッドッ!
ゾンビたちの、腐った肉体に、次々と青白い矢が突き刺さる。
その体は、確かにダメージを受け、その動きをわずかに鈍らせる。
だが、彼らは決して倒れない。
なぜなら、彼らの背後には、絶対的な指揮官がいるからだ。
隼人は、その戦況を冷静に見極め、そして的確な指示を飛ばし続ける。
「2号、3号、少し下がりながら、右の聖歌隊員を牽制しろ!4号、5号は、そのままガーゴイルを殴り続けろ!俺が、火の矢で援護する!」
彼のその、あまりにも緻密なマイクロマネジメント。
それに、彼のゾンビたちは、まるで彼の手足のように、完璧に、そして滑らかに反応する。
ある者は、盾となり、仲間を守り。
ある者は、矛となり、敵を穿つ。
その光景は、もはやただのミニオンの戦闘ではない。
一つの、完成された軍隊の、美しい連携だった。
『すげえ…!』
『なんだ、この指揮能力は…!』
『4体のミニオンを、まるで別々の人間のように動かしてるぞ!』
『これが…これが、JOKERのネクロマンサービルドか…!』
コメント欄が、その神がかった指揮能力に、戦慄する。
そして、ついにその時は来た。
ゾンビ達が、ついにガーゴイルに到達した。
集中砲火を受け続けた、ガーゴイル。
その石の巨体は、もはや限界だった。
4体のゾンビの、最後の、そして容赦ない一撃。
それが、その胸の中心を捉えた、その瞬間。
ガーゴイルは、容易く倒された。
その巨体は、内側からまばゆい光を放ちながら、轟音と共に砕け散り、そして光の粒子となって消滅した。
前衛の、絶対的な壁が、消えた。
そして、そのガーゴイルが砕け散った、その爆発の余波。
スプラッシュ攻撃によって、その後ろにいた聖歌隊員の一体が、巻き込まれる。
「ギッ!?」
一体の幽霊が、情けない悲鳴を上げて、その半透明の体を大きくのけぞらせた。
その体は、一瞬でその輝きを失い、消滅した。
完璧な、連鎖反応。
「…よし。まずは、一体」
隼人は、満足げに頷いた。
だが、彼は決して油断しない。
彼は、そのガーゴイルが残した、石と骨の残骸へと、その骨のワンドを向けた。
そして彼は、すかさずゾンビ召喚を唱えて、ゾンビを追加する。
「起きろ。そして、俺に仕えろ」
砕け散ったガーゴイルの残骸が、再び生命を宿し、一つの新たな、そしてこれまで以上に強固なゾンビミニオンとして、その場に立ち上がった。
彼の軍団は、再び5体へとその数を戻した。
しかも、そのうちの一体は、ガーゴイルの強靭な肉体を、その身に宿している。
そのあまりにも、クレバーで、そして迅速な判断。
それに、コメント欄の有識者たちが、感嘆の声を上げた。
元ギルドマン@戦士一筋:
…見事だ。
ただ、敵を倒すだけじゃない。その死体すらも、自らの戦力として即座に利用する。
これこそが、一流のネクロマンサーの戦い方だ。
ハクスラ廃人:
ああ、その通りだぜ。
しかも、ガーゴイルゾンビは、通常のゾンビよりも、明らかに硬い。
あいつは、この戦いの中で、リアルタイムで自らの軍団を「アップグレード」してやがるんだ。
とんでもねえ、センスだ。
残された、聖歌隊員は、4体。
彼らは、その絶対的な守護者を失い、明らかに動揺していた。
その、陣形が乱れた、一瞬の隙。
それを見逃すほど、JOKERは甘くない。
「――総攻撃だ」
彼の、その最後通告。
それに、彼の新たな死者の軍団が、呼応した。
ウオオオオオオオオオオッ!!!
5体のゾンビが、その腐った肉体をまるで鋼鉄のように硬質化させ、残された聖歌隊員たちへと、なだれ込むように殺到していく。
隼人は、その光景を、ただ静かに見つめていた。
そして彼は、その手に握られたワンドを、力強く地面に叩きつけた。
【スラム攻撃】。
ネクロマンサーだけが使うことのできる、特殊なスキル。
ミニオンたちに、次の一撃を、強力な地面への叩きつけ攻撃へと変化させる、号令のスキルだ。
5体のゾンビは、その主の命令に、完璧に応えた。
彼らは、聖歌隊員たちの、その目の前で、一斉に、その骨の腕を天へと振りかぶる。
そして、それを、地面へと叩きつけた。
5体のゾンビのスラム攻撃で、幽霊のHPは一瞬で溶けた。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
礼拝堂全体が、揺れた。
地面から放たれた衝撃波が、4体の聖歌隊員たちを、同時に、そして容赦なく飲み込んでいく。
彼女たちの、半透明の体は、その圧倒的な質量の暴力の前に、なすすべもなかった。
その体が、まるでガラスのように砕け散り、そして光の粒子となって消滅していく。
瞬殺。
あまりにも、一方的な蹂躙。
だが。
その勝利の、まさにその瞬間。
攻撃を止めないので、1体のさらにゾンビが、倒された。
消えゆく聖歌隊員の一人が、その最後の力を振り絞り、放った一撃の魔弾。
それが、運悪く、一体のゾンビの、その核を捉えていたのだ。
「ギ…」という短い断末魔と共に、そのゾンビもまた、光の粒子となって消えていった。
勝利の、代償。
「…チッ。しぶといな」
隼人は、舌打ちした。
だが、彼の表情に焦りの色はない。
彼は、その消えゆく聖歌隊員の、その亡骸へと、再びその骨のワンドを向けた。
そして彼は、ゾンビ召喚を唱えて、ゾンビを追加する。
彼の軍団は、再び、5体の完全な形を取り戻した。
静寂が、戻る。
後に残されたのは、おびただしい数のドロップ品と、そしてその中心で、自らの完璧な勝利を噛みしめる、一人の指揮官の姿だけだった。
幽霊達は、全滅した。勝利だ。
コメント欄は、そのあまりにも鮮やかな逆転劇に、万雷の拍手喝采で応えた。
その賞賛の嵐の中で、有識者たちが、その冷静な、しかし興奮を隠しきれない分析を始めた。
ベテランシーカ―:
…素晴らしい。本当に、素晴らしい戦いでした。
特に、最初の**立ち回り。ゾンビを盾にしながら、**慎重に前進するという、あの判断。
あれこそが、今回の勝因の全てでしょう。
元ギルドマン@戦士一筋:
うむ。その通りだ。
もし、彼が戦士ビルドの時のように、棒立ちであの魔法の弾幕を受け止めていたら、どうなっていたか。
たとえ彼の驚異的なリジェネ能力があったとしても、そのESは、一瞬で全て削り取られていたに違いない。
そして、MPが枯渇し、なすすべもなく嬲り殺されていただろう。
ハクスラ廃人:
ああ、間違いないな。
彼は、このネクロマンサーというクラスの、本当の戦い方を、完全に理解している。
自らは、決して前に出ない。
常に、ミニオンという壁の後ろに隠れ、戦場を支配する。
これこそが、最強の「安全マージン」だ。
見事としか、言いようがねえな。
その完璧な、勝利。
そして、それを裏付ける、有識者たちの賞賛。
JOKERは、その全てを、静かに受け止めていた。
そして、彼はARカメラの向こうの観客たちに、そして自らの魂に言い聞かせるように、呟いた。
その声には、絶対的な自信が宿っていた。
「――どうだ、お前ら。これが、俺の『新しい人生』だ」
彼の、指揮官としての物語は、今、最高の形でその幕を開けた。