第208話
静まり返った部屋に、間の抜けた電子音が響き渡った。
彼のスマートフォンが、着信を告げている。
彼は、眉をひそめながらその画面に表示された名前に目をやった。
『神崎美咲』
その、たった三文字。
それが、彼のささくれ立っていた心を、一瞬で穏やかなものへと変えた。
彼のギャンブルの理由。
彼の戦う意味。
その、全ての答え。
彼は、深く息を吸い込むと、その声を聞くために、通話ボタンをスライドさせた。
その声は、いつもよりもどこか弾んでいた。
『あ、お兄ちゃん?今、大丈夫?』
「ああ」
そして彼は、その声色から何か特別なことがあったのだと、直感した。
彼の口から、自然と心配の言葉が漏れ出る。
「どうした?何か、あったのか?体調は、大丈夫か?」
そのあまりにも過保護な、兄の言葉。
それに電話の向こうの美咲は、くすくすと楽しそうに笑った。
『もう、心配性なんだから。**体調は万全なんだけど、**それよりお兄ちゃん、ニュース見た?』
「**ニュース?さっき、ダンジョンから返ってきたばかりで、ニュースは見てないな。**なんだ、何かあったのか?」
『うん!すごいニュースだよ!』
『NHKが今、特番してるから見て!』
そのあまりにも興奮した声。
それに、促されるように。
隼人は、リビングの壁に設置された巨大な有機ELモニターの電源を入れた。
画面に映し出されたのは、見慣れた国営放送のスタジオだった。
そして、その中央には物々しいテロップが躍っていた。
『【緊急特番】日本の未来が変わる!日米共同『冒険者高等学校』設立へ』
それは、冒険者学校設立の話題だった。
画面の中では、専門家たちがこの歴史的な国家プロジェクトについて、熱い議論を交わしている。
『対象は、15歳から22歳までの全ての若者たち』
『学費は無料。国家が、全面的にバックアップします』
『講師には、現役のA級探索者を。そして、月に一度はSSS級による特別講義も』
そのあまりにも夢のような話。
それに隼人は、ただ呆然と見入っていた。
そして彼は、思った。
(…もし、俺が子供の頃にこんな学校があったなら)
(俺の人生は、少しは違っていたのかもしれないな…)
その彼の感傷を、断ち切るかのように。
電話の向こうから、美咲のどこまでも真剣で、そして力強い声が聞こえてきた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「私が、昔から冒険者になりたがってたの、知ってるでしょ?」
その問いかけ。
それに、隼人の時間が止まった。
そうだ。
忘れていた。
いや、忘れたふりをしていた。
幼い頃、彼女はいつも目をキラキラと輝かせながら、語っていた。
テレビに映る英雄たちの姿に、憧れて。
「私、大きくなったら冒険者になるんだ!」と。
だが、その夢はあの忌々しい病によって、無慈悲に奪われたはずだった。
「私、まだその夢、諦めてないよ」
そのあまりにも力強い宣言。
それに隼人は、何も言い返すことができなかった。
そして彼女は、続けた。
その声は、震えていた。
だが、それは恐怖からではない。
抑えきれない歓喜と、そして揺るぎない決意からだった。
「私も、冒険者になる!」
「そして、A級になって自分の治療費ぐらい稼げるようになる!」
「もう、お兄ちゃんに心配かけない。迷惑も、かけない。今度は、私がお兄ちゃんを支える番だから!」
そのあまりにも健気で、そしてどこまでも真っ直ぐな魂の叫び。
それに、隼人の心臓が大きく軋んだ。
彼の脳裏に、様々な感情が渦を巻く。
嬉しい。
誇らしい。
だが、それ以上に。
心配だ。
このあまりにも過酷で、そして理不尽な世界。
そこに、彼女を行かせていいのだろうか。
彼女のその小さな背中に、これ以上重い荷物を背負わせていいのだろうか。
彼は深く、そして重いため息をついた。
「……まあ、良いけど。無理するなよ?」
彼が、ようやく絞り出したのは、そんな月並みな言葉だけだった。
本当は、言いたいことが山ほどあった。
だが、その全ての言葉が、彼の喉の奥でつかえて出てこない。
そんな彼の、不器用な優しさ。
それを、美咲は全て理解しているかのようだった。
電話の向こうで彼女は、最高の笑顔で言った。
「うん!分かってる!」
「…あと」
隼人は、付け加えた。
その声には、兄としての絶対的な覚悟が宿っていた。
「**いやと言っても、支援はするからな。**俺は、A級なんだ。それぐらい、良いだろう?」
そのあまりにも不器用な愛情表現。
それに美咲は、心の底から嬉しそうに、そして少しだけ泣きそうな声で答えた。
「……うん。ありがとう、お兄ちゃん。大好き!」
そのストレートな言葉。
それに、隼人の顔がわずかに赤く染まった。
彼は、慌てて咳払いをした。
そして彼は、最後に言い聞かせるように言った。
「…まあ、お前はしっかりしてるから、大丈夫だと思うけどな。」
「だが、まずは退院することが優先だぞ?分かってるな?」
その兄としての、最後の釘刺し。
それに美咲は、元気いっぱいの声で答えた。
「うん!」
元気よく返事をする妹。
その一言を、聞いて。
隼人は、満足げに頷いた。
そして彼は、電話を切る。
後に残されたのは、ツーツーという無機質な音と、そして絶対的な静寂だけだった。
彼は、その小さな画面に残された彼女との短い、しかしあまりにも尊いやり取りの余韻に、浸っていた。
彼の心の中に、一つの温かい、そして力強い新たな炎が灯っていた。
そうだ。
俺の戦う理由は、また一つ増えた。
妹の命を、守るため。
そして、今度は。
妹の「夢」を、守るため。
その二つの大きな炎。
それが、彼をさらなる高みへと導いていく。
そのことを、彼はまだ知らない。
ただ、その胸に宿った温かい光だけを、彼は確かに感じていた。