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第206話

 半年前。

 東京、横田空域に隣接する、日米合同ダンジョン管理委員会の極秘カンファレンスルーム。

 その部屋は、窓一つない無機質な空間だった。だが、中央に置かれた漆黒の円卓の上には、最新鋭のARシステムが投影する世界のダンジョンゲートのリアルタイムの状況が、青白い光の地球儀となって、静かに、しかし絶え間なく回転していた。


 その円卓を挟んで、二つの国の未来を担う者たちが、静かに対峙していた。

 片側には、日本の岸田文雄内閣の下で新設された「超常領域対策本部」のトップ、坂本純一郎特命担当大臣と、文部科学省から派遣されたエリート官僚たち。彼らの表情は一様に硬く、そしてどこかこの国の未来を憂う、深い疲労の色が浮かんでいた。

 そして、その向かい側。

 アメリカ合衆国、ジョー・バイデン大統領直属の「ダンジョン経済戦略局(DESA)」のトップ、ジェニファー・アームストロング長官と、国防総省ペンタゴンから来た歴戦の軍人たち。彼らの表情は自信に満ち溢れ、そしてどこか目の前の同盟国を値踏みするかのような、鋭い光を宿していた。


 この「日米ダンジョン定例委員会」は、表向きは両国のダンジョンに関する情報交換と、協力体制の確認を目的としている。

 だが、その水面下では、この「ダンジョン」というあまりにも巨大なパイを巡る、熾烈な国家間のマウントの取り合いが、常に繰り広げられていた。


 重い沈黙を破ったのは、日本側の坂本大臣だった。

 彼の声は穏やかだったが、その奥には、揺るぎない覚悟が滲んでいた。

「アームストロング長官。本日は、お集まりいただき感謝する」

「こちらこそ、坂本大臣。それで、本日の議題は?」

 アームストロング長官は、その美しい顔にビジネスライクな笑みを浮かべた。

 坂本は頷くと、手元のARパネルを操作した。

 円卓の中央に浮かぶ地球儀が、一つの巨大なグラフへとその姿を変える。

 それは、日本の15歳から18歳までの若者の、進路選択の推移を示すグラフだった。


 赤い線が、高校、大学への進学率。

 青い線が、探索者ギルドへの新規登録者数。

 10年前。二つの線は、天と地ほどに離れていた。

 だが、この10年で、その関係は完全に逆転していた。

 赤い線は、年々その角度を下げ、緩やかな下降線をたどっている。

 対して青い線は、異常なまでの角度で右肩上がりに、天を突き刺すかのように伸び続けていた。


「…これが、我が国が今直面している、最大の社会問題です」

 坂本は、静かに、しかし重い声で言った。

「中卒冒険者問題。我々は、そう呼んでいます」


「問題?」

 アームストロングは、心底不思議そうに聞き返した。

「私には、これが素晴らしい『機会』にしか見えませんが?」

 彼女は、その青いグラフを指し示した。

「若者たちが古い教育システムに見切りをつけ、より大きな可能性と富を生み出す新しい市場へと、その情熱を注ぎ込んでいる。自由主義経済の、理想的な姿そのものではありませんか。我が国でも、同様の傾向が見られます。我々は、これを歓迎こそすれ、問題視したことは一度もありません」

 そのあまりにもアメリカ的な、そしてどこまでもポジティブな解釈。

 それに坂本は、静かに首を横に振った。


「…長官。それは、結果だけを見た、あまりにも楽観的な見方だ」

 彼は、グラフを切り替えた。

 次に表示されたのは、「F級、E級、D級における探索者の平均滞在日数と、ランクアップ率の推移」だった。

 その数字は、年々悪化の一途をたどっていた。


「見ていただきたいのは、このF級、E級における、異常なまでの**『停滞率』です」

「彼らが裸一貫でこの世界に飛び込んでも、**稼げるのはせいぜいF級やE級の、安価な魔石だけ。その日々の稼ぎは、都市部の高騰し続ける生活費に消え、彼らの成長に不可欠な『装備の更新』や、『スキルジェムの購入』に回す余裕が、全くないのです。」

「この世界のフラスコシステムは、確かに彼らの生存を保証します。ですが、それは逆に言えば、最低限の生存が保証されてしまうが故に、彼らがその先の『成長』を目指すためのハングリー精神を削いでいる、とも言える。彼らは、決して命を落とすわけではありません。ギルドのセーフティネットは、機能しています。ですが、F級というぬるま湯の無限ループから、抜け出すこともできないのです」


「そして」と、坂本は続けた。彼は、グラフのC級の項目を指し示す。そこもまた、不自然なほどに膨れ上がっていた。

「たとえその壁を乗り越え、C級へと到達したとしても、彼らの前にはさらに高く、そして絶望的な**『第二の壁』**が立ちはだかります。…そう、B級の呪いです」

「一度B級ダンジョンに足を踏み入れたが最後、その魂に『全属性耐性-30%』という、永続的な枷をはめられる。その状態でC級ダンジョンに戻ってきたとしても、以前と同じようには戦えません。装備の更新が、必須となるのです。ですが、そのための資金がない」

「結果、**多くの冒険者がC級で停滞する。**確かに、**それでも生活できる余裕はあります。**ですが、彼らの成長はそこで完全に止まってしまう。これは、国家としてこれ以上の人材の停滞は、許容できません。未来のA級、S級の才能を、我々は経済的な理由で、その可能性の芽を自らの手で摘み取ってしまっているのかもしれない」


 そのあまりにも切実な、魂の叫び。

 それにアームストロングは、初めてその表情からビジネスライクな笑みを消した。

 彼女のアナリストとしての冷徹な思考が、高速で回転を始める。

(…なるほど。これは、単なる社会問題ではない。国家レベルの、人材育成戦略の失敗だ。そして、この「停滞」している層を、もし効率的にA級へと引き上げることができたなら…)

 彼女の脳裏に、一つの恐るべき可能性が浮かび上がっていた。

「…では、坂本大臣。あなた方の、解決策は?」


 その問いを、待っていましたとばかりに。

 坂本は、その真の「切り札」を提示した。

 彼の瞳の奥に、確かな、そして静かな革命の炎が灯っていた。


「各国は、公式ギルドのスクールではなくて、新たな教育機関を設立するべきじゃないか?と、我々は考えています」

「その名は、『冒険者高等学校』」


 そのあまりにも大胆な提案。

 それに、アームストロングの眉がピクリと動いた。


「対象は、15歳から18歳の全ての学生や、停滞している中卒冒険者達。」

 坂本は、続けた。

「そこでは、国語、数学、英語といった**最低限の一般教養を施しながら、**同時にギルドと完全に連携し、プロのA級、S級探索者を講師として招き、冒険者活動を国家レベルで強く支援する。」

「座学だけではない。実践的な、ダンジョンでのサバイバル技術。パーティプレイにおける、連携論。モンスターの生態学。そして何よりも、この世界の本当の厳しさを教え込む」


「我々は、彼らをただの戦闘員として育てるつもりはない。知性と、教養と、そして何よりも仲間を思いやる心を持った、真の『エリート』を育成するのです」

「**すでに学生でありながら、A級に到達する冒険者も存在している。**ならば、この英才教育によってA級を量産するのも、不可能ではないと我々は意気込んでいる」


 そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも戦略的な国家プロジェクト。

 それにアームストロングは、言葉を失っていた。

 彼女の頭脳は、高速で回転していた。

 彼女は、この日本の提案の本当の「狙い」を、正確に理解していた。

 これは、ただの教育問題ではない。

 これは、次なる10年の世界の覇権を左右する、**「人材育成競争」**の宣戦布告だ。

 このレースに乗り遅れれば、アメリカのダンジョン先進国としての地位は、確実に揺らぐことになる。

 彼女は、数秒間の沈黙の後、その美しい顔に最高のビジネスウーマンの笑みを浮かべた。


「…面白い」

 彼女は、言った。

「実に面白い提案だ、坂本大臣。その話、詳しく聞かせてもらおうか。あるいは、日米共同で新たな『標準スタンダード』を作り上げるというのも、悪くないかもしれない」


 その言葉。

 それが、この歴史的な会議の全てを決定づけた。

 その日、日米両政府は水面下で、一つの極秘の共同プロジェクトを立ち上げることで、合意した。

 それはやがて、世界の全ての国々を巻き込み、新たな時代の大きなうねりとなっていく。

 そのことを、まだ誰も知らない。

 ただ、西新宿の小さなアパートの一室で。

 一人のギャンブラーが、自らの妹の未来だけを想い、孤独な戦いを続けている、そのほんの数ヶ月前の出来事だった。



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