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第204話

 その日の朝、神崎隼人――“JOKER”は、異空間【黄昏の港町アジール】の馴染みの酒場にいた。

 石造りの壁、年季の入ったオーク材のカウンター、そして様々な言語の喧騒と、香ばしいエールの匂い。

 彼の目の前には、先日初めて口にして以来、すっかり虜になってしまった「オーク肉の串焼き」の、まだ湯気が立つ皿が置かれている。


 今日の配信タイトルは、『【A級冒険者のモーニングルーティン】ハイスト前の腹ごしらえ』。


 和やかなコメント欄。

 それを楽しむように眺めていた彼の、その退屈な日常を切り裂くかのように。

 彼のスマートフォンが、テーブルの上でけたたましい着信音を鳴らし始めた。

 それは、彼が最近好んで聴いているフリー・ジャズの、狂ったようなサックスのソロパートだった。


「…ん?」


 彼は、眉をひそめながらその画面に表示された名前に目をやった。


『風間颯太』


 あのアメ横の盗賊ローグか。

 彼は、思わず小さなため息をついた。

 この青年とは、先日A級ダンジョンで偶然出会い、連絡先を交換して以来、奇妙な交流が続いていた。

 といっても、そのほとんどは颯太の方から一方的に送られてくる、他愛のないメッセージだけだったが。


『JOKERさん!見てくださいよ、このダガー!B級のボスからドロップしたんすけど、クリティカル率+15%っすよ!ヤバくないすか!?』

『今日のハイスト、大成功でした!見てください、このお宝の山!』


 そのあまりにも無邪気な、ドロップ自慢のスクリーンショットの嵐。

 それに隼人は、いつも「(親指を立てたスタンプ)」を一つだけ返信するのが常だった。

 いつも、ラインで他愛もないドロップ自慢ぐらいしかやり取りしてない風間颯太から、電話がかかってくる。

 そんな彼が、わざわざ電話をかけてくるなど、よほどの事態に違いない。

 彼は、面倒くさいという感情とほんのわずかな好奇心を胸に、その通話ボタンをスライドさせた。

 そして彼は、観客たちに聞こえるように、少しだけ大げさに言った。


「…どうした、わざわざ電話なんて?」


 その彼の問いかけに、電話の向こうから切羽詰まった、そしてどこまでもハイテンションな颯太の声が、まるで洪水のように流れ込んできた。


『JOKERさんッ!すみません、朝早くから!いや、もうそれどころじゃなくて!』

 そのあまりにも慌てふためいた声。

 それに隼人は、ただ黙って次の言葉を待った。

『実は…!実は、うちのパーティーのDPSが、生牡蠣で腹壊しまして!』


「……………は?」


 彼の思考が、一瞬完全に停止した。

 生牡蠣?

 腹を壊した?

 この命のやり取りが日常である、A級探索者の世界で。

 そのあまりにも人間的で、そしてあまりにも間の抜けたトラブルの理由。

 それに彼は、思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。


『笑い事じゃないんすよ!あいつ、昨日の夜、小樽の寿司屋で調子に乗って生牡蠣30個も食いやがって!今、トイレから出てこれない状態で!それで、今日の午後のPTドタキャンしてきたんすよ!』

「…それで、俺に電話してきたのか」

『そうなんすよ!いや、俺も最初は、じゃあ今日のパーティは中止にしようって言ったんすけど!』

 颯太の声が、急にひそひそうとしたものに変わる。

 その声には、明確な「恐怖」の色が宿っていた。

『…うちのリーダーが…。あの**“姉御”**が、それを許してくれなくて…』


「姉御?」


『はい…。うちのパーティリーダー、めちゃくちゃ怖くて…。さっきも、「はぁ?たかが腹痛で、A級の仕事を休むだぁ?社会人として、なってない!」ってブチギレてて…!』

『そして姉御が、俺たちに言ったんすよ!「一人で美味しい物食べたバツよ!アンタ達、今日の午後までに代役を探してきなさい!」って、言って聞かなくて!』

「…それで、俺に白羽の矢が立ったと」

『そういうことなんです!もう、誰でもいいからA級のアタッカーを探せって言われて!それで俺、ダメ元でJOKERさんに電話した次第で…!』

 颯太の声は、もはや泣きそうだった。

『もちろん、無理なのは分かってます!あなたほどのトップランカーが、こんなしがないパーティの助っ人になんて、来てくれるわけないって…!でも、もし万が一、億が一、今日の午後、暇で死ぬほど退屈してて、そしてほんの少しだけ人助けの気分だったりしたら…!』

 彼は、一気にそうまくし立てた。

 そして彼は、最後の、そして最も重要な情報を付け加えた。

『A級上位だけど、JOKERさん来てくれませんかね?』


 A級上位。

 その言葉。

 それが、隼人の心の退屈という名の分厚い氷を、わずかに、しかし確実に溶かし始めた。

 そうだ。

 B級上位ですら、もはや彼の敵ではない。

 A級下位も、ただの作業場と化した。

 彼が次に目指すべきは、A級上位という新たなテーブルだった。

 だが、ソロで挑むにはまだ情報も、そして覚悟も足りていなかった。

 だが、パーティプレイなら?

 それも、A級上位を主戦場とするベテランたちのパーティなら?

 これ以上に、安全に、そして確実に新たなテーブルの「下見」ができる機会はない。

 リスクとリターン。

 彼の脳内で、天秤がギシリと音を立てて動き始める。


(…面白い)

 彼の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。

 これは、ただの助っ人依頼ではない。

 最高のギャンブルへの、招待状だ。

 彼は、観客たちにも聞こえるように、その最終的な条件を提示した。

 その声は、絶対的な王者のそれだった。


「――配信OKなら、良いぞ」


 そのあまりにも予想外の、肯定の言葉。

 それに、電話の向こうの颯太が息を呑む音が聞こえた。


「え…?」

「聞こえなかったか?配信して、今日の稼ぎを俺の視聴者たちに見せびらかすことが許されるなら。その代役、引き受けてやるって言ったんだよ」

 彼は、続けた。

 その声には、どこまでも楽しそうな響きがあった。

「良い経験になるしな」


『――本当ですか!?』

 電話の向こうから、颯太の歓喜の絶叫が響き渡った。

『うおおおおおお!**いやー、頼んでみるもんだ!**あざっす!マジであざっす、JOKERさん!姉御に、殺されずに済みます!』

「…うるせえな」

『はい!じゃあ、場所をあとでラインしときますね!じゃあ、よろしくお願いします!』

 颯太はそう言うと、感謝の言葉を何度も、何度も繰り返しながら、その通話を切った。


 後に残されたのは、ツーツーという無機質な音と、そして絶対的な静寂だけだった。

 隼人は、その静寂の中で、食べかけだったオーク肉の串焼きを見つめていた。

 その香ばしい肉の味。

 それはもう、彼の舌には感じられなかった。

 彼の全ての感覚は、すでに次なる戦場へと向かっていた。

 彼は、ふっと息を吐き出した。

 そして彼は、ARカメラの向こうの熱狂する観客たちに、そして自らの渇ききった魂に語りかけるように、呟いた。

 その声は、最高のショーの幕開けを告げる、道化師のそれだった。


「……午後は、退屈な金策だと思ってたが」

 彼の口元が、ゆっくりと三日月の形に吊り上がっていく。


「――想定外の、面白い事が起きそうだな」

 彼の新たなギャンブルの幕が、今、確かに上がったのだ。



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