第203話
その日、スイス・ジュネーブに設置された国際公式ギルドマーケットの最上階。
そのラウンジは、これまでにないほどの静かで、しかしどこまでも張り詰めた熱気に包まれていた。
磨き上げられた、黒曜石の床。
壁一面に設置された巨大なモニターには、世界の主要都市のダンジョンゲートの様子が、リアルタイムで映し出されている。
そして、フロアに置かれた最高級の革張りのソファには、世界中から集まった屈強な、あるいは知的な、あるいはその両方を兼ね備えた男女が、静かにその時を待っていた。
彼らは皆、それぞれのギルドの命運をその両肩に背負った、「代理人」。
彼らの目的は、ただ一つ。
一人のSS級クラフトマニアが、「失敗作」として市場に流した、しかしこの世界の全てのスペルキャスターが渇望する、究極の神の装備。
【大変動の掌握】。
その落札だった。
広大なラウンジのあちこちで、ひそやかな、しかし熾烈な情報戦が繰り広げられている。
高級なブランドスーツに身を包んだ北欧のギルド、『オーディン』の代理人たちは、冷静な表情の裏で、必死にライバルギルドの資産状況を分析している。
黒一色の機能的な戦闘服に身を包んだ中国のギルド、『青龍』の幹部たちは、その鋭い瞳で互いにだけ分かるサインを送り合い、連携の最終確認を行っていた。
陽気なラテン系の、しかしその瞳の奥に冷徹な計算を宿した、南米のギルド『太陽の帝国』の交渉人。
彼らは皆、この日のために本国から天文学的な資金を動かし、このジュネーブの地に集結したのだ。
この手袋一つで、自らのギルドに所属するスパーク使いのA級は、S級やSS級への昇格が間違いなしとなる。
それは、ギルドの戦力図を、そして世界のパワーバランスを根底から覆しかねない、あまりにも大きな「賭け」だった。
ラウンジの中央に設置された巨大な天文時計の針が、運命の時刻を指し示す。
オークション開始まで、あと一時間。
ラウンジの空気が、さらに張り詰めていく。
ドイツのギルド、『鉄の鷲』の実直そうな初老の代理人が、重々しく口を開いた。
「…しかし、とんでもない代物が出品されたものだ。ヴォルタのマエストロも、気まぐれが過ぎる」
「ええ、全くだ」
フランスのギルド、『百合の紋章』の優雅な女性代理人が、ため息をついた。
「彼にとってこれは、ただの『失敗作』なのでしょうけれど。我々にとっては、ギルドの未来そのものがかかっているのですから、たまったものではありませんわ」
「問題は、今日のテーブルに一体何人のプレイヤーが座るかだ」
イギリスのギルド、『円卓の騎士』の冷静な男が言った。
「オーディン、青龍、太陽の帝国は、間違いなく来る。我々も含めれば、これで五つ。他にも、水面下で資金を動かしているギルドはいくつかあるだろう。…熾烈な戦いになるな」
彼らの会話には、これから始まる大勝負への期待と、そしてそれ以上に大きな不安が滲んでいた。
彼らは皆、自らのギルドの数年分の運営予算に匹敵するほどの、莫大な資金を託されている。
だが、それでも勝てるかどうかは分からない。
なぜなら、このテーブルには常に予測不可能な「ジョーカー」が現れる可能性があるからだ。
そして、運命の時刻。
オークションハウスの全てのモニターが、一斉に切り替わった。
黄金の荘厳なファンファーレと共に、一つのアイテムが、立体的なホログラムとしてラウンジの中央に映し出される。
黒く鞣された、しなやかな革の手袋。
その表面に、風や音の流れを象徴するような、銀色の流麗な紋様が刻まれている。
【大変動の掌握】。
その神々しいまでの姿に、ラウンジ全体が息を呑んだ。
オークショニアを務める老紳士が、その甲高い、しかし威厳のある声で宣言した。
「――これより、【大変動の掌握】のオークションを開始いたします!」
「開始価格は、**340億ドル(約5兆円)**より!」
そのあまりにも暴力的な開始価格。
それに、ラウンジがどよめいた。
だが、そのどよめきはすぐに熱狂へと変わる。
開始のゴングが鳴り響いた、そのコンマ数秒後。
モニターの入札額が、凄まじい勢いで跳ね上がり始めたのだ。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:350億ドル】
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:360億ドル】
【入札者:Guild_IronEagle_Corp】
【入札額:370億ドル】
10億ドル単位の、入札が相次ぐ。
それは、もはやオークションではない。
国家間の、見えざる戦争。
それぞれのギルドが、そのプライドと未来を賭けて、札束のミサイルを撃ち合っているかのようだった。
価格は、わずか数分で400億ドル、450億ドルと、異常なまでの速度で吊り上がっていく。
ラウンジの代理人たちの額には玉のような汗が浮かび、その指先は、興奮と緊張でわずかに震えていた。
だが、そのあまりにも熾烈な戦いの流れ。
しかし、事態は一変する。
オークション開始から、ちょうど15分が経過したその時だった。
それまで沈黙を保っていた一つの名前が、突如として入札者リストにその姿を現したのだ。
その名前を見た、瞬間。
ラウンジの全ての代理人たちの顔から、血の気が引いた。
その表情は、絶望そのものだった。
【入札者:Ethan Sterling】
イーサン・スターリング。『シリコンバレーの雷神』。
そのあまりにも絶対的な名前。
そして彼が提示した入札額。
それは、これまでのちまちまとした10億ドル単位のレイズを、完全に嘲笑うかのような一撃だった。
【入札額:550億ドル】
100億ドルのレイズ。
そのあまりにも暴力的で、そしてあまりにも格の違いを見せつけるかのような一撃。
それにラウンジは、水を打ったように静まり返った。
大混乱に陥る、各国の個人ギルドの代理人たち。
彼らは、理解してしまった。
このテーブルに、自分たちの座る席はもはやないと。
この男が現れた、その時点で。
このゲームの勝敗は、すでに決していたのだと。
「…くそっ」
ドイツのギルドの代理人が、悪態をついた。
「なぜ奴が、ここに…!」
だが、その声はあまりにも弱々しかった。
SS級冒険者の圧倒的資産力の前では、なすすべもない。
それでも、いくつかのギルドは最後の無駄な抵抗を試みた。
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:551億ドル】
1億ドルのレイズ。
それは、彼らの最後の意地だった。
だが、そのあまりにもささやかな抵抗。
それをイーサン・スターリングは、鼻で笑うかのように一瞬で叩き潰した。
【入札者:Ethan Sterling】
【入札額:651億ドル】
100億のレイズの、返答が返ってくる有り様。
そのあまりにも無慈悲な力の差。
それについに、全てのギルドの代理人たちの心が折れた。
彼らは、次々とその入札の権利を放棄していく。
モニターの上の入札者リストから、一人、また一人とその名前が消えていく。
**競りは続き、個人ギルドの代理人達は諦め、**そして最後に残ったのはただ一人。
絶対的な、王者だけだった。
やがて、運命のカウントダウンがゼロになる。
オークショニアが、その小さな、しかしこの世のどんな権威よりも重いハンマーを、振り下ろした。
「――落札!!」
【【大変動の掌握】は、イーサン・スターリング様によって**680億ドル(約10兆円)**で落札されました!】
その絶対的な結果。
それにラウンジは、もはやため息すら出なかった。
ただ、そのあまりにも理不尽な現実を受け入れるしかなかった。
◇
オークション終了後。
ラウンジの片隅にある、バーカウンター。
そこに、敗北したギルドの代理人たちが集まっていた。
彼らは、ヤケクソになったように高級な、しかし今の彼らにとっては砂の味しかしないであろう酒を、煽っていた。
そして、彼らの口から漏れ出すのは、ただ愚痴と諦観だけだった。
「…終わったな」
中国のギルドの男が、言った。
「完敗だ。手も、足も出なかった」
「ああ」
ドイツのギルドの男が、頷く。
「だが、納得がいかん。**イーサン・スターリングは、すでにスパーク用の似たようなサポジェム15レベル付与の手装備を持ってるだろ?**あれだけでも、十分に神の領域の装備だ。火力は充分あるのに、まだ上を求めるのか?」
「その通りだ」
フランスのギルドの女が、グラスを叩きつけるように置いた。
「**これじゃあ、うちのスパーク使いをSS級に昇格させるのは無理じゃんか!**彼が、全ての最高のパーツを買い占めてしまう!我々には、何も残されていないじゃないか!」
そのあまりにも切実な、魂の叫び。
富の偏在は、ここにも影響を及ぼしていた。
一人の絶対的な富豪が、その無限の資産力で、市場の全ての可能性を独占してしまう。
残された者たちは、ただそのおこぼれにあずかることしかできない。
そのあまりにも残酷な現実。
それに、ラウンジの空気はどこまでも重く、そして暗く沈んでいく。
彼らの夢は、今日この場所で完全に潰えたのだ。