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第202話

 西新宿の空を貫くかのような、タワーマンションの最上階。

 その広大なリビングの床から天井まで続く巨大な窓からは、宝石箱をひっくり返したかのような、東京の夜景が一望できた。

 だが、そのあまりにも美しい光の海は、今の神崎隼人――“JOKER”の瞳には届いていなかった。

 彼の心は、この広すぎる部屋にぽっかりと空いた一つの「空洞」を、ただ見つめていた。


 三日前。

 彼のたった一人の妹、神崎美咲がこの部屋に帰ってきた。

 一年以上に及んだ、闘病生活。その終わりを告げる、三日間だけの一時退院。

 そのあまりにも短い、しかしあまりにも尊い時間。

 二人の新しい「日常」が、そこにはあった。

 朝、彼女の「お兄ちゃん、起きて!」という明るい声で目を覚ます。

 昼は、彼女が腕を振るってくれた、どこか懐かしい味のする手料理を、二人で笑い合いながら食べる。

 夜は、リビングの巨大なソファに並んで座り、他愛のないバラエティ番組を見て、声を上げて笑う。

 そのあまりにも穏やかで、そしてあまりにもありふれた幸せな時間。

 それは、彼がその両手を血とギャンブルの狂気で染め上げて、ようやく掴み取った最高の「報酬」だった。


 だが、夢のような三日間は、あっという間に過ぎ去った。

 そして彼女は、再びあの白い無機質な病院へと帰っていった。

「また1ヶ月後ね。今度は、ずっと一緒だから」

 そう言って彼女は、最高の笑顔で彼に手を振った。

 その笑顔を、彼は決して忘れないだろう。


 そして今。

 このあまりにも広すぎる部屋に、彼はただ一人。

 絶対的な静寂。

 これまで彼が何よりも求めていたはずのその静寂が、今の彼にはまるで重い鉛のように、その心を締め付けていた。

 彼は、自嘲気味にふっと息を吐き出した。


「…はっ。馬鹿みてえだな、俺も」


 そうだ。

 感傷に浸っている暇などない。

 1ヶ月後。

 彼女が本当の意味でこの家に帰ってくる、その日までに。

 俺がやるべきことは、まだ山のようにある。

 彼は、その胸にぽっかりと空いた空洞を埋めるかのように。

 自らの渇きを、癒すかのように。

 ギシリと軋む高級なゲーミングチェアへと、その身を深く沈めた。

 そして、彼の新たな相棒…漆黒の筐体を持つハイスペックPC、【静寂の王】の電源を入れた。


 彼の戦場は、ここだ。

 彼は、思考を切り替える。

 感傷は、終わりだ。

 ここからは、プロのギャンブラー「JOKER」の時間だった。


 ◇


 **そして3日ぶりに情報収集してたら、掲示板がお祭り騒ぎになってる。なんだ?と思って見たら、**日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』のトップページは、彼の知らない一つの話題で完全に燃え上がっていた。

 全ての人気スレッドが、同じ一つの単語で埋め尽くされている。


『【祭り】ついに降臨せし、神の左手』

『【考察】「大変動の掌握」の理論DPSを計算するスレ』

『【経済】この一撃で、マーケットの相場が完全に終わった件』

『【悲報】俺の全財産じゃ、あの手袋の入札ボタンすら押せねえ』


「…大変動の掌握?」

 彼は、その見慣れない単語に眉をひそめた。

 この三日間。

 彼が妹との穏やかな日常に浸っている間に、この世界のテーブルはまた大きく動いていたらしい。

 彼は、その中でもひときわ大きな勢いを持つ一つのスレッドをクリックした。

 タイトルは、シンプルで、そしてどこまでもその価値を物語っていた。


【SeekerNet 掲示板 - トップランカー専用フォーラム】


 スレッドタイトル:【事件】マーケットにヴォルタの「失敗作」が出品されてるんだが… Part.5


 1: 名無しのA級魔術師

 おい、お前ら見たか?

 今、国際公式マーケットの「注目アイテム」欄に、とんでもないモンが出品されてる。

 アレッサンドロ・ヴォルタ作、【大変動の掌握】。

 内蔵サポートジェム、オールレベル20。

 やべえ…。本物だ…。


[スクリーンショット:【大変動の掌握】の詳細な性能画像]


 大変動の掌握 フィンガーレス シルクグローブ

 品質: +20%

 アイテムレベル: 87

 要求レベル 75, 知力 95

 エナジーシールド: 62


 暗黙MOD:スペルダメージが16%増加


 指定されたスキルジェムは、レベル20の投射物低速化サポートの効果を得る

 指定されたスキルジェムは、レベル20の投射物高速化サポートの効果を得る

 指定されたスキルジェムは、レベル20のキャストスピードサポートの効果を得る

 指定されたスキルジェムのクリティカルストライク率 +3.5%

 指定されたスキルジェムのクリティカルストライクダメージ倍率 +90%

 キャストスピードが14%増加

 投射物スピードが30%増加

 投射物ダメージが25%増加

 フラスコ効果中、ダメージが28%増加


 そのあまりにも暴力的なまでの、性能の羅列。

 それに隼人は、思わず息を呑んだ。

 そしてスレッドは、彼と同じようにこの神の装備を目の当たりにした探索者たちの、熱狂と困惑で溢れかえっていた。


 2: 名無しのC級戦士


 1

 うおお、なんだこれ!

 なんか色々書いてあるけど、よく分からん!

 でも、とにかく凄そうなオーラだけは伝わってくる!


 3: 名無しのB級盗賊


 1

 要求レベル75、知力95…?

 まず、装備できる人間が限られすぎだろ…。

 それに、スペルダメージ+16%って暗黙MODかよ!これだけでも、十分に強いじゃねえか。


 4: 名無しの新人魔術師


 1

 あの、すみません…。

 内蔵されてるサポートジェム、レベル20って書いてありますけど、これってそんなに凄いことなんですか?

 僕らが使うジェムも、レベル20まで上がりますよね…?


 そのあまりにも初々しい新人の問いかけ。

 それに、このスレッドの百戦錬磨の猛者たちが、待っていましたとばかりにその重い口を開いた。


 20: ハクスラ廃人


 4

 ひよっこは、黙ってろ。だが、良い質問だ。

 お前らが何ヶ月、いや何年もかけてようやく到達する「レベル20」。

 それをこの手袋は、ただ装備するだけで**「5つも」**提供してくれるんだよ。

 しかもだ。よく見ろ。

【投射物低速化】と【投射物高速化】。この、二つの一見矛盾したサポートが、何を意味するか分かるか?

 これはな、ダメージを40%近く増加させる【投射物低速化】の強力な「ダメージ増加効果」だけを享受しながら、その「投射物速度が減少する」っていう致命的なデメリットを、【投射物高速化】で完全に打ち消すっていう、悪魔のコンボなんだよ!

 これ考えた奴は、間違いなく天才か悪魔だ!


 21: ベテランシーカ―


 20

 ええ。ハクスラ廃人さんの、おっしゃる通りです。

 この世界のスキルは、「魂」に直接リンクさせ、基本の4リンクから、高価なオーブを使って最大6リンクまで拡張可能。

 そして、この手袋の本当の恐ろしさは、その魂の6リンクスキルにさらに5つのサポート効果を上乗せし、結果として**「11リンク」**という常識を超えた力を生み出す点にあります。

 これは、もはやビルド構築の概念そのものを破壊する、禁断のアーティファクトです。


 そのあまりにも圧倒的な解説。

 それに、スレッドの初心者たちはもはや言葉を失っていた。

 彼らはようやく、この手袋が持つ本当の「価値」と、その「狂気」を理解したのだ。

 そして一人の新人が、恐る恐るその最も気になっていた質問を投げかけた。


 35: 名無しのF級冒険者

 へー…。いくらぐらい、するんです?


 その問いに答えたのは、このスレッドのもう一人の主。

 元ギルドマン@戦士一筋だった。


 40: 元ギルドマン@戦士一筋


 35

 …新人、よく聞け。

 その質問は、愚問だ。

 億じゃ足りない。10兆円は、する。


 そのあまりにも重く、そして現実的な当事者の言葉。

 それにスレッドは、深い感嘆と、そしてわずかな諦観の空気に包まれた。

 これは、自分たちには縁のない神々の世界のお祭りなのだと。


 80: 名無しの情報屋A級

 だがな、お前ら。

 一番面白いのは、ここからだ。

 この神の左手。

 出品者は、誰だと思う?

 そう、『マエストロ』…アレッサンドロ・ヴォルタだ。

 そしてお前らも知ってる通り、こいつは彼がよく失敗品を市場に流してる、SS級のクラフターだ。

 つまり、どういうことか。

 この10兆円の価値を持つ神の装備ですら、彼にとってはただの**「失敗作」**でしかねえってことだよ。


 そのあまりにも狂気的な真実。

 それに、スレッドの全ての住人が戦慄した。


「…ほう。凄い手装備が、出てるな」

 JOKERは、その熱狂の渦の中心で、静かに呟いた。

「11リンク…。神々の、領域だな」

 彼の目は、もはやただの読者ではない。

 この最高のテーブルの、次なる「プレイヤー」としての目をしていた。

「出品者は、『マエストロ』か。よく失敗品を市場に流してる、SS級のクラフター。…なるほどな。クラフトの世界は、奥が深いな」

 彼はそう言うと、ふっと息を吐き出した。

 そして彼は、自らの資産とこの神の装備との、絶望的なまでの距離を、冷静に計算していた。


(…今の俺の全財産を全て投げ打っても、このテーブルの参加費にすら、ならねえか)

(だが…)

 彼の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。

(――面白い)


 彼の退屈な日常は、終わりを告げた。

 新たな、そしてあまりにも高く険しい目標。

 それを見つけ出した彼の魂は、これ以上ないほどの歓喜に打ち震えていた。

 彼の本当の戦いが、今、ここから始まろうとしていた。



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