第201話
美咲の一時退院、その初日の朝。
隼人は、彼女を連れてアジールから帰還したばかりだった。
彼のインベントリには、今日のハイストで稼いだ120万円相当の魔石と、そしてもう一つ、特別な「土産」が眠っている。
「ただいま」
彼がタワマンの玄関のドアを開けると、そこにはまだ少しだけ緊張した面持ちの美咲が、彼を待っていた。
「お、おかえり、お兄ちゃん。その…お仕事、お疲れ様」
「ああ」
隼人は、ぶっきらぼうにそう答えながら、手に持っていた一つの紙袋をダイニングテーブルの上に置いた。
紙袋からは、香ばしい、そしてどこか異国のスパイスの匂いが、ふわりと漂ってくる。
「…これ、土産だ。朝飯、まだだろ?」
「え…?」
美咲が、その紙袋をおそるおそる覗き込む。
中に入っていたのは、巨大な、まだ湯気の立つ肉の串焼きだった。
「わあ…!これ、なあに?すごく、美味しそうな匂い…!」
「アジールの、オーク肉の串焼きだ。そこの屋台のオヤジが焼くやつが、一番うめえんだよ」
「アジール…?」
「ああ。まあ、色々とあるんだよ、俺たちの世界にはな」
彼はそう言って、悪戯っぽく笑った。
二人は、ダイニングの椅子に腰を下ろし、その巨大な串焼きにかぶりついた。
そして、美咲の大きな瞳がこれ以上ないほど、キラキラと輝いた。
「おいしい…!なにこれ、すっごくおいしい!」
「だろ?」
隼人は、満足げに頷いた。
アジールの料理を妹に持ち帰り、一緒に食べる、その幸せ。
彼は、そのあまりにも穏やかで、そして尊い時間を、心の底から噛みしめていた。
昼過ぎ。
二人は、リビングのソファに並んで座り、他愛のない話をしていた。
美咲は、この数日間の兄の配信のアーカイブを、もう一度見返していたらしい。
「お兄ちゃん、すごかったね!あの骸骨の王様との戦い!」
「まあな」
「でも、見ててすっごくハラハラしたよ!もう、ダメかと思ったもん!」
「…そうか」
「うん。だから、勝った時は本当に嬉しかった。病室で、一人でガッツポーズしちゃった」
彼女はそう言って、てへへと笑った。
その屈託のない笑顔。
それに、隼人の心も温かくなる。
そして彼女は、ふと思い出したように尋ねた。
「でも、**配信しなくていいの?**お兄ちゃん、毎日やってたじゃない」
そのあまりにも純粋な問いかけ。
それに隼人は、少しだけ驚いたような顔をした。
そして彼は、ゆっくりと首を横に振った。
「ああ。3日は、休むよ」
彼のその、あまりにもきっぱりとした一言。
「お前が、いるからな」
その不器用な、しかしどこまでも優しい言葉。
それに、美咲の頬がほんのりと赤く染まった。
その日の昼と夜。
隼人は、生まれて初めて本当の意味での「家庭の味」というものを、堪能した。
美咲が、この家の最新鋭のアイランドキッチンで腕を振るってくれたのだ。
昼は、ケチャップで不格好なウサギの絵が描かれたオムライス。
夜は、野菜がゴロゴロと入った優しい味のポトフ。
そのどちらもが、彼がこれまで食べてきたどんな高級レストランの料理よりも、遥かに美味しかった。
昼と夜は、妹の手料理を食べる幸せを堪能する主人公。
彼は、その一口一口を噛みしめるたびに、自らが何のために戦ってきたのか、その意味を改めて理解していた。
◇
二日目の午後。
二人は、リビングのソファで一枚のパンフレットを一緒に眺めていた。
それは、都内のいくつかの高校の入学案内だった。
「なあ、美咲」
隼人は、切り出した。
「退院できるのが1ヶ月後の話だが、学校はどうする?」
「…うん」
美咲は、少しだけ俯いた。
その表情には、期待と、そしてそれ以上に大きな不安の色が浮かんでいた。
「…私、もう一年以上学校に行ってないから…。勉強、全然ついていけないと思うし…」
「それに…」
彼女の声が、震える。
「…新しい友達、できるかなぁ…」
そのあまりにも切実な悩み。
それに、隼人は言葉に詰まった。
友達。
彼自身、その言葉とは最も縁遠い人生を歩んできた。
彼に、一体何が言えるというのか。
だが、彼は言わなければならなかった。
兄として。
そして、彼女の唯一の家族として。
彼は、その小さな肩をそっと抱き寄せた。
そして彼は、言った。
その声は、不器用で、しかしどこまでも力強かった。
「――できるさ」
彼は、断言した。
「お前なら、絶対にできる」
「それに、もし万が一、誰もお前のことを分かってくれなかったとしても」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして彼は、最高の兄の顔で微笑んだ。
「――俺がいる。俺だけは、絶対にお前の味方だ」
そのあまりにも温かい、そして絶対的な約束。
それに、美咲の瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。
だが、それはもう悲しみの涙ではなかった。
◇
三日目の朝。
別れの時が、来た。
二人は、再びあの白い廊下を並んで歩いていた。
だが、その空気は三日前とは全く違っていた。
そこには、もう絶望の色はない。
ただ、確かな未来への希望だけが満ち溢れていた。
「…じゃあな、美咲」
病院の玄関で、隼人は言った。
「また、1ヶ月後だ」
「うん」
美咲は、力強く頷いた。
その笑顔は、太陽のように輝いていた。
「待ってる。だから、お兄ちゃんも無理だけはしないでね」
「…ああ」
彼は、その言葉を最後に彼女に背を向け、歩き出した。
彼は、決して振り返らなかった。
もし振り返ってしまえば、その瞳から何かが溢れ出してしまいそうだったからだ。
彼の長い、長い戦いの第一章が、今、確かに終わりを告げた。
そして、ここから始まる第二章。
それは、彼が本当に守りたかったものを、その腕の中に取り戻すための物語。
そのあまりにも尊く、そして輝かしい物語の幕開けだった。