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第200話

 西新宿の空を貫くかのような、タワーマンションの最上階。

 その広大なリビングの床から天井まで続く巨大な窓からは、宝石箱をひっくり返したかのような、東京の夜景が一望できた。

 神崎隼人――“JOKER”は、その光の海をただぼんやりと眺めていた。

 数日前、彼のたった一人の妹、神崎美咲がこの部屋に帰ってきた。

 一年以上に及んだ、闘病生活。その終わりを告げる、三日間だけの一時退院。

 そのあまりにも短い、しかしあまりにも尊い時間。

 二人の新しい「日常」が、始まっていた。


「お兄ちゃん、できたよー!」


 アイランドキッチンから、弾むような明るい声がした。

 隼人が振り返ると、そこには白いフリルのついたエプロンを身に着けた美咲が、満面の笑みで立っていた。その手には、湯気の立つ二つのマグカップが握られている。

「ココア、淹れたんだ。一緒に飲もう?」

「…ああ」

 隼人は、ぶっきらぼうにそう答えながら、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。

 美咲が、彼の前にそっとマグカップを置く。甘く、そしてどこか懐かしいチョコレートの香り。

 二人は、しばらくの間言葉もなく、ただ静かに眼下に広がる光の海を眺めながら、ココアを飲んでいた。

 そのあまりにも穏やかで、そしてあまりにもありふれた幸せな時間。

 それに、隼人の心はこれまで感じたことのない、温かい、しかしどこか落ち着かない感情で満たされていた。


(…これで、いいんだろうか)


 彼は、思う。

 この幸せな日常。

 それは、彼がその両手を血とギャンブルの狂気で染め上げて、ようやく掴み取ったものだ。

 だが、その土台となっているのは、あまりにも多くの、そして決して綺麗事では済まされない「過去」だった。

 彼の脳裏に、一つの忘れることのできない男の顔が浮かび上がっていた。


 ◇


 数日前。

 美咲の一時退院が決まった、その日の夜。

 隼人は一人、自室でスマートフォンの連絡先を、ただじっと見つめていた。

 そこに表示されていたのは、彼がこの世界で最も関わりたくない、しかし最も借りを作ってしまった男の名前だった。

【非合法のポーカーハウスの元締め】。

 彼は、その番号をタップしようとして、何度もその指を止めた。

 今更、電話をして何を話す?

 礼を言う?

 あの男が、そんなものを望んでいるとは思えない。

 だが、彼の心の中に一つの、小さな、しかし無視できない棘が刺さっていた。

 あの男がいなければ、今の俺はいない。

 美咲の、あの笑顔もなかった。

 その厳然たる事実。

 それから目を背けたまま、この新しい日常を始めることは、彼のギャンブラーとしての矜持が許さなかった。

 彼は深く、そして重いため息をつくと、観念してその忌々しい、しかしどこか懐かしい番号へと、通話ボタンを押した。


 数回の、無機質なコールの後。

 電話の向こうから、あのねっとりとした蛇のような声が聞こえてきた。


『…よう。どちらさんだ?俺は、知らねえ番号からの電話には出ない主義なんだがな』

 そのとぼけたような、しかし全てを見透かしているかのような声。

 それに隼人は、短く、そして低く答えた。

「…俺だ。JOKERだ」

 その名前を聞いた、瞬間。

 電話の向こうの空気が、変わった。

『……………』

 数秒間の、沈黙。

 そして元締めは、心の底から楽しそうに、そしてどこまでも皮肉に満ちた声で言った。


「おやおや。これは驚いた。あのA級探索者様が、こんな裏社会のクズに、なんのようで?」


 そのあまりにも変わらない彼の態度。

 それに隼人は、少しだけ安堵している自分に気づいた。

 彼は、意を決して本題を切り出した。

 その声は、自分でも驚くほど不器用だった。


「…いや。妹が、一時退院できた」

「…それで」

「あんたに、ギャンブラーである俺に毎月大金を貸してくれたから、今があると思ってな。その…礼を言おうと思って、電話した」

 彼は、一気にそうまくし立てた。

 そして彼は、さらに言葉を続ける。

 それは、彼がずっと心の奥底にしまい込んでいた、後悔の言葉だった。


「…あの時の俺は、余裕がなかったとはいえ。金を借りてたのに、邪険にして済まなかった」

 彼は、深々と頭を下げていた。

 電話の向こう側には、見えていないと分かっていても。


 そのあまりにも素直な謝罪。

 それに、電話の向こうの元締めは数秒間、完全に沈黙した。

 やがて、彼の口から深い、深いため息が漏れた。

 そして彼は、言った。

 その声は、これまでの皮肉な響きが嘘のように消え去り、ただどこまでも穏やかだった。


「……謝るなよ。アンタらしくない」


 そのあまりにも意外な言葉。

 それに、隼人の思考が止まった。


「…アンタは、それでいいんだよ。常に飢えて、常に渇いて。テーブルの上の全てのチップを奪い取ることだけを、考えてりゃいい。俺たちは、そういう獣だ。そうだろ?」

「だがな、JOKER」

 彼は、続けた。

 その声には、どこか誇らしげな色が滲んでいた。

「アンタは、俺達の中から生まれた光なんだ」

「この薄汚れたハイエナの巣窟から、唯一天へと飛び立った一羽の鳥だ。だから、決して振り返るな。決して、俺たちみてえなクズに頭を下げるんじゃねえ。それが、アンタの流儀だろうが」


 そのあまりにも温かい、そしてどこまでも切ない激励の言葉。

 それに隼人は、何も言い返すことができなかった。

 ただ、その言葉の本当の意味を必死に理解しようとしていた。


「…それに」

 元締めの声が、さらに続く。

 その声は、どこか遠い目をしているかのようだった。

「妹さん、回復して良かったな」

「…ああ」

「…そうか」

 彼はそう言うと、数秒間また沈黙した。

 そして彼は、ポツリと、その決して誰にも語ることのなかったであろう自らの魂の傷跡を、隼人にだけ見せた。


「……実はな、俺にも妹がいたんだよ」


 そのあまりにも唐突な告白。

 隼人の時間が、止まった。


「アンタの妹さんと**同じ病気でな。**だが、俺の妹は運が悪かった。ダンジョンが出現して、まだ間もない頃だったからな。治療法も、新薬も、何もなかった」

「俺は、必死で金を稼いだ。裏社会の、ありとあらゆる汚い仕事に手を染めた。だが、間に合わなかった。あいつは、あっけなく逝っちまったよ。俺の腕の中でな」

「……残念ながら、亡くなったんだ」

 その声は、どこまでも静かだった。

 だが、その静寂の中にどれほどの絶望と後悔が込められているのか。

 隼人には、痛いほどに伝わってきた。


「だからな、アンタに金を貸したのは、俺のただの感傷だったんだ」

 彼は、自嘲気味に笑った。

「アンタとアンタの妹さんの姿に、俺はあり得たかもしれねえ俺自身の、もう一つの人生を見てたのかもしれねえな。アンタが、俺の代わりに最高のギャンブルに勝ってくれることを、どこかで願ってたのかもしれん」

「だから、礼を言うのはこっちの方だ。JOKER」

「最高のショーを、見せてくれてありがとうよ」


 そのあまりにも切ない、そしてどこまでも優しい真実。

 それに、隼人の心の最後のダムが決壊した。

 彼の瞳から、一筋、熱い何かがこぼれ落ちる。

 彼は、その感情を奥歯をギリと噛みしめることで、必死にこらえた。

 そして彼は、震える声で、ようやくその言葉を絞り出した。


「……ありがとう」


 その、たった一言。

 その中には、彼の全ての感謝の想いが込められていた。

 電話の向こうの元締めは、その声を聞いて全てを察したようだった。

 彼は、ふっと息を吐き出すと、いつものあの皮肉な口調に戻って言った。


「…**たっく、男が泣くなよ。**気持ち悪ぃ」

「要件は、それだけかい?じゃあ、切るぜ」


 ブツンという音と共に、通話は一方的に切られた。

 後に残されたのは、ツーツーという無機質な音と、そして絶対的な静寂だけだった。

 隼人は、ただ呆然とスマートフォンの画面を見つめていた。

 彼の頬を、一筋の温かい涙が静かに伝っていく。


 ◇


「――お兄ちゃん?」


 不意に背後からかけられた、明るい声。

 隼人は、はっと我に返ると、慌ててその涙を手の甲で、乱暴に拭った。

 振り返ると、そこにはいつの間にか美咲が立っていた。

 彼女は、きょとんとした顔で、兄の顔を覗き込んでいる。


「あれ?なんで、泣いてるの?」

 そのあまりにも純粋な問いかけ。

 それに、隼人は狼狽えた。

「な、泣いてねえよ!目に、ゴミが入っただけだ!」

「ふーん?」

 美咲は、そのあまりにも分かりやすい嘘に、くすくすと楽しそうに笑った。

 彼女は、兄のそんな不器用な優しさを、誰よりも知っていたからだ。

 そして彼女は、この広すぎるリビングと最新鋭のアイランドキッチンを見渡して、子供のように目を輝かせた。


「わあ!広いね、このお家!**広いリビングと、キッチンだね!**すごい、すごい!」

 その心からの、喜びの声。

 それに、隼人の心も温かく満たされていく。

 そうだ。

 この笑顔を守るためなら。

 俺は、どんな地獄にだって行ける。


「…なあ、美咲」

 隼人は、話題を変えるように言った。

 その声は、どこまでも穏やかだった。

「なんでもない。久しぶりに、お前の料理が食べたいな。作ってくれるか?」


 その兄からの、初めてのお願い。

 それに、美咲の顔がぱっと輝いた。

 そして彼女は、悪戯っぽく笑った。

 その笑顔は、昔と何も変わっていなかった。


「もう!お兄ちゃん、どうせコンビニ弁当ばかり食べてたんでしょ?」

「…うるせえ」

「**しょうがないなあ。作ってあげる!**とびっきり、美味しいやつをね!」

「楽しみにしててね!」

 彼女はそう言うと、くるりと隼人に背を向けた。

 そして彼女は、ウキウキとした足取りで冷蔵庫へと向かう。

 だが、その冷蔵庫の中は空っぽだった。

 あるのは、ミネラルウォーターと栄養ドリンクのボトルだけ。

 そのあまりにも殺風景な光景。

 それに美咲は、呆れたように振り返った。


「…お兄ちゃん。食材、何もないんだけど」

「…あ」

 彼は、忘れていた。

 この新しい家には、まだ生活の匂いが一切なかったのだ。

 その彼のあまりの生活能力のなさに、美咲は深く、そして大きなため息をついた。

 そして彼女は、最高の笑顔で提案した。

 その声は、これから始まる新しい日常への期待に満ち溢れていた。


「じゃあ、買い物に行こう!」


「――ああ、行こう」


 隼人は、力強く頷いた。

 そして二人は一緒に、その新しい家のドアを開けた。

 スーパーマーケットへと向かう、そのありふれた道程。

 それが、彼らにとっては何よりも尊く、そして輝かしい冒険の始まりだった。



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