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第199話

 神崎隼人――“JOKER”の日常は、ここ数週間で一つの完璧な、しかしどこか奇妙な「二重生活」の様相を呈していた。


 まず、彼の「仕事」としての時間。

 それは、彼の魂に刻み込まれた最初の、そして今や絶対的な力となった「戦士ビルド」が、その舞台となる。彼は、配信のスイッチを入れることなく、ただ一人黙々と【黄昏の港町アジール】へとその身を投じる。そこで、高価な【計画書】を買い付け、ハイリスク・ハイリターンの強奪計画ハイストに挑む。

 レベル46のA級探索者として完成された彼のビルドの前では、ハイストの警備兵たちなどもはや敵ではない。彼は、その圧倒的な力で日給にして平均150万円以上という、常識では考えられないほどの資産を、安定して稼ぎ出していた。


 そして、彼の「遊び」としての時間。

 戦士としての「仕事」を終えた後、彼は自らの魂を切り替え、もう一つの人生を歩む。

 レベル1から始まった、か弱い【ネクロマンサービルド】。

 彼は、この新たな人生の全てを、彼のショーの観客たちへと晒け出していた。

 F級、D級、そしてC級ダンジョン。

 かつて彼が戦士として蹂躙してきたその場所を、今度は指揮官として、その知略と戦術の限りを尽くして攻略していく。

 ミニオンが一体倒されるたびに、コメント欄が悲鳴を上げる。

 彼が一つのギミックを鮮やかに打ち破るたびに、賞賛の嵐が巻き起こる。

 そのあまりにもスリリングで、そしてどこまでも人間的な成長物語。

 それに、数十万人の観客たちは熱狂し、彼のチャンネルは今や、世界で最も注目を集めるコンテンツの一つとなっていた。


 仕事と、遊び。

 戦士と、ネクロマンサー。

 圧倒的な力と、か弱い知略。

 その二つの人生を、彼は完璧に両立させていた。

 そして、その地道な、しかし確実な日々の果てに。

 ついに、その「時」が訪れた。


 ◇


 その日の午後、彼のスマートフォンが静かに震えた。

 表示されたのは、西新宿の大学病院からの着信を告げる通知だった。

 彼の心臓が、ドクンと大きく脈打つ。

 彼は、ハイストの金策配信をその場で中断すると、ARカメラの向こうで困惑する観客たちに、一言だけ告げた。


「…すまん、お前ら。急用ができた」


 彼は、その言葉を最後に配信を強制的に終了させた。

 そして彼は、震える指で通話ボタンを押した。

 電話の向こうから聞こえてきたのは、美咲の主治医である初老の男性医師の、穏やかな、しかしどこか興奮を抑えきれない声だった。


『――JOKER君、いや、神崎君。信じられない知らせだよ』


 その声色だけで、隼人は全てを察した。

 彼の脳内に、これまでの人生で感じたことのない、熱い何かがこみ上げてくる。


『美咲さんの容態が、劇的に改善した。君が毎月送ってくれる、あの新薬のおかげだ。病気の進行は、完全に停止した。それどころか、彼女の体はゆっくりと、しかし確実に回復へと向かっている』

『もちろん、無理はいけませんが、だいぶ改善したので、一時退院の許可が出ましたよ。期間は、3日程度ですが』


 そのあまりにも待ち望んでいた言葉。

 それに隼人は、何も言い返すことができなかった。

 ただ、その場で立ち尽くすことしかできなかった。


 ◇


 西新宿の大学病院。

 その、無機質な白い廊下。

 神崎隼人は、場違いなほど静かにその場所に立っていた。

 彼のインベントリには、B級ダンジョンを蹂躙するには十分すぎるほどの、完成された装備が眠っている。

 だが、彼がその手に提げているのは、何の変哲もない小さなデパートの紙袋。

 中に入っているのは、彼が昨日の夜、必死にSeekerNetで調べ上げ、そしてギルドのコンシェルジュに頼んで手に入れてもらった、美咲が好きだったという絶品のフルーツゼリーと、彼女が今一番読みたがっているという海外の絵本作家の最新作。

 彼は、その紙袋をまるで世界で最も尊い宝物のように、強く握りしめていた。


 彼は、主治医の診察室の前で深呼吸を繰り返す。

 心臓が、うるさい。

 B級のボスと対峙した時よりも、遥かに激しく脈打っている。

 やがて、診察室のドアが開き、白衣を着た主治医が、穏やかな笑みを浮かべて彼を手招きした。

「さあ、神崎君。入りなさい。君のヒーローの帰還を、彼女も待ちわびているよ」

 その言葉に、背中を押されるように。

 彼は、その診察室へと一歩足を踏み入れた。


 そして彼は、見た。

 診察用の簡素なベッドの、その上に。

 ちょこんと座っている、一人の少女の姿を。

 ショートカットの黒髪。

 写真で見たよりも、少しだけまだ痩せている頬。

 だが、その顔色は驚くほど良く、そして何よりも。

 その大きな瞳が、これまでにないほどの力強い生命の輝きを宿していた。

 彼女は、隼人の姿を認めると、その顔をぱっと輝かせた。

 そして彼女は、叫んだ。

 その声は、これまで彼が聞いてきたどの声よりも元気で、そして嬉しさに満ち溢れていた。


「――お兄ちゃん!」


 彼女は、ベッドから飛び降りると、一直線に彼へと駆け寄ってきた。

 そして、その小さな体で彼の胸へと力いっぱい飛び込んできた。

 元気いっぱいになって、病院で抱きついてくる妹。

 そのあまりにも温かい感触。

 そのあまりにも軽い重み。

 それに、隼人のこれまでずっと鋼鉄の鎧で覆われていたはずの心の最後の城壁が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

 彼は、その小さな体を不器用な手つきで、しかしどこまでも優しく抱きしめ返した。

 彼の肩が、かすかに震えていた。


「…美咲…」

 彼が、ようやく絞り出したのは、そんなか細い声だけだった。

「…うん」

 美咲は、彼の胸に顔を埋めたまま、何度も何度も頷いた。

 その温かい涙が、彼のよれたTシャツをじんわりと濡らしていく。

 そのあまりにも尊い光景。

 それを、主治医の先生はただ静かに、そしてどこまでも優しい目で見守っていた。


 ◇


 退院の手続きは、つつがなく進んだ。

 美咲は、看護師たちに何度も何度もお礼を言い、そして別れを惜しんでいた。

 その間に、隼人は主治医の先生と二人きりで話をする時間を設けてもらっていた。

 院長室の、重厚な革張りのソファ。

 彼は、そのあまりにも場違いな空間で、目の前の白髪の紳士に、深々と頭を下げた。


「…先生。この一年間、本当にお世話になりました」

 その声は、これまでのどの言葉よりも真摯だった。

「美咲を救ってくれて、本当にありがとうございます」

「…顔を上げなさい、神崎君」

 主治一人は、穏やかに言った。

「礼を言うのは、こちらの方だ。君が諦めずに、戦い続けてくれたおかげだ」


「先生」

 隼人は、意を決したように言った。

「美咲の**治療費も、ギルドのプログラムが適用されたとはいえ、かなり譲歩していただいたと聞いています。**俺にできることは少ないですが、せめてもの恩返しとして。病院に、少しでも返せるように寄付をさせてもらえませんか」

 彼はそう言うと、インベントリから数百万の現金が入った封筒を取り出そうとした。

 だが、主治医はそれを静かに手で制した。


「…いいえ」

 彼の声は、どこまでも穏やかだった。

「そのお気持ちだけで、十分です」

「神崎君。確かに、我々もギリギリのラインでした。美咲さんの病気は、あまりにも特殊で、そして治療には莫大な費用がかかる。だが、**治療費だけで毎月200万円という大金を、君は一度も遅れることなく用意してくれた。**病院としては、それだけで充分ですよ」

「君が稼いでくれたあのお金があったからこそ、我々は海外の最新の論文を取り寄せ、そしてあの高価な新薬を試すことができた。君のその戦いこそが、美咲さんを救い、そして我々医療の未来をも切り開いてくれたんだ」

「だから、君が寄付などする必要は一切ない。君は、もう充分すぎるほどこの病院に、そしてこの世界に貢献してくれている」


 そのあまりにも温かい、そして力強い言葉。

 それに、隼人の瞳がわずかに潤んだ。

 彼は、その溢れ出しそうな感情を、奥歯をギリと噛みしめることで必死にこらえた。

 そして彼は、もう一度、深く、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 その、たった一言。

 その中には、彼の全ての感謝の想いが込められていた。

 彼の長い、長い孤独な戦いが、確かに報われた瞬間だった。



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