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第198話

 その日の午後、神崎隼人――“JOKER”は、彼の人生において最も理解不能で、そして最も美しい空間に、その身を置いていた。

 鳴海詩織の隠れハイドアウト

 SSS級冒険者だけが、創造を許された自分だけの半永久的な異空間。

 目の前に広がるのは、中世ヨーロッパの古城を思わせる白亜のテラス。

 磨き上げられた大理石の床には、柔らかな午後の日差しのような光が、常に降り注いでいる。テラスの向こうには、幾何学的にデザインされた広大なフランス式庭園がどこまでも続き、その中央では、美しい女神像が立つ噴水が、キラキラと虹色の飛沫を上げていた。

 空気は澄み渡り、彼の頬を撫ぜる風は、心地よい湿度と咲き誇るバラの甘い香りを運んでくる。

 現実世界では決してありえない、完璧に設計された理想郷。


「…何度来ても、凄い場所だな」


 彼は、ARカメラの向こうに誰もいないことを知りながらも、つい、いつもの癖でそう呟いた。

 だが、その声にはいつものような棘はない。

 むしろ、そのあまりにも非現実的な光景にどこか圧倒されている自分を隠すための、照れ隠しのように聞こえた。


 彼の目の前、白いパラソルの下の優雅なテーブルセット。

 そこには、すでに二人の女性が静かに腰掛けていた。

 一人は、この城の主、鳴海詩織。

 青と白を基調とした気品のあるドレスをその身にまとい、そのウェーブのかかった長い金髪を午後の光にキラキラと輝かせながら、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。

 そしてもう一人は、水瀬雫。

 いつもの、きっちりとしたギルドの制服ではない。柔らかな素材の白いブラウスと、淡いブルーのロングスカートという清楚で、しかしどこか親しみやすい私服姿。彼女は、少しだけ緊張した面持ちで、この神々の領域の空気を楽しんでいるようだった。


「あら、JOKERさん。ようこそ、いらっしゃいました」

 詩織が、鈴を転がすような声で彼を迎える。

「さあ、どうぞ。あなたの席は、こちらですわ」

 彼女が指し示した席に、彼はどこかぎこちない動きで腰を下ろした。

 テーブルの上には、高級な陶磁器のティーセットと、見るからに美味そうな色とりどりの焼き菓子が並べられている。

「雫さんも、先ほどいらしたところですのよ」

「おお、お邪魔してます、JOKERさん!」

 雫が、少しだけ頬を赤らめながらぺこりと頭を下げた。

 そのあまりにも平和な光景。

 それに隼人は、どう振る舞っていいか分からず、ただ黙って目の前のティーカップを見つめていた。


 その少しだけ気まずい沈黙。

 それを破ったのは、彼自身だった。

 彼はおもむろに、持ってきた一つの小さな紙袋をテーブルの上に置いた。


「…これ、土産だ」

 そのあまりにも不器用な一言。

 それに、二人の女性の時間が止まった。

 彼女たちの大きな瞳が、信じられないというように大きく見開かれる。

「え…?」

「あら…?」

「どうぞ。ゴディバの、チョコです」

 彼はそう言うと、そっぽを向いた。

 そのあまりにもJOKERらしくない、健気な行動。

 それに詩織と雫は顔を見合わせ、そして同時に、くすくすと楽しそうに笑い出した。


「まあ、嬉しい!ありがとうございます、JOKERさん!」

 雫が、その紙袋をまるで宝物のように大切そうに受け取る。

「私、ゴディバのチョコ大好きなんです!まさか、あなたからこんな素敵なものをいただけるなんて…!」

「…別に。この前、世話になった礼だ」

「ふふっ。素直じゃないんですから」

 詩織が、そのやり取りを微笑ましそうに眺めている。


 その和やかな空気の中で。

 一つの影が、音もなく彼の隣の席に現れた。

 雪のように白い、姫カットの長い髪。

 黒と白を基調とした、ゴシックドレス風のローブアーマー。

 そして、その感情の読めない大きな紫色の瞳。

 冬月祈だった。

 彼女は、何の前触れもなくそこに現れると、ただ静かにテーブルの上のチョコレートをじっと見つめていた。

 そのあまりにもマイペースな登場に、雫が驚きの声を上げる。


「き、祈さん!?いつの間に!?」

「…先ほどから、おりましたけれど」

 祈は、その表情を一切変えることなく答えた。

 その手には、いつものように古びた魔導書が握られている。

「詩織から、『美味しいお茶会が始まる』と連絡がありましたので」

 彼女はそう言うと、隼人が持ってきたゴディバの箱を、その白い指先でそっと撫でた。

「…これは、何ですの?」

「…チョコレートだ」

「…なるほど」

 彼女は、こくりと頷くと、その箱の中から一つチョコレートを取り出し、その小さな口へと運んだ。

 そして数秒間、その味を確かめるように静かに咀嚼する。

 やがて彼女は、その紫色の瞳で隼人を真っ直ぐに見つめた。

 そして彼女は、その抑揚のない静かなソプラノの声で告げた。


「――なかなか、結構ですわね」


 その彼女なりの、最大級の賛辞。

 それに隼人は、思わずふっと息を吐き出した。

 そして四人は、その奇妙な、しかしどこまでも穏やかなお茶会の時間を楽しんでいた。

 詩織が淹れる、香り高い紅茶。

 雫が目を輝かせながら語る、最近のダンジョンのトレンド。

 祈が時折、その哲学的な本の内容について、誰に言うでもなく呟く。

 そして、隼人がその全てをただ黙って、しかしどこか楽しそうに聞いている。

 そのあまりにも平和な光景。


 やがて、紅茶のカップが空になる頃。

 隼人は、意を決したように口を開いた。

 彼の視線は、テーブルの向かいに座る祈ただ一人へと注がれていた。


「…なあ、祈」

 その呼び捨て。

 それに、雫と詩織の肩がピクリと動いた。

「そういえば、この前言ってたあんたの『大当たり』。あれは、例の【ヘリカルリング】の事だな?」

 そのあまりにも単刀直入な問いかけ。

 それに祈は、その紫色の瞳をわずかに細めた。

 そして彼女は、静かに、しかしはっきりと頷いた。


「ええ。そうですわ」

 彼女はそう言うと、どこか遠い目をした。

 その表情には、これまでの無表情とは違う、わずかな、しかし確かな「疲労」の色が滲んでいた。

「あのSS級の廃人グループに、火力役として協力したので。落札金額の、10%、取り分が入りますわ」

 彼女は、ふぅと小さなため息をついた。

 その声は、どこか虚ろだった。

「目を虚ろにしながら、グランドハイストを何百回と回したかいが、ありましたわ…」


 そのあまりにも生々しい、トップランカーの現実。

 それに雫が、心配そうな声をかけた。

「祈さん…。あまり、ご無理をなさらないでくださいね…」

「…ええ。ですが、これも仕事ですもの」

 祈はそう言うと、隼人へと向き直った。

「それで?その指輪が、何か?」

「いや」

 隼人は、首を横に振った。

「ただ、気になっただけだ。あんたほどの奴らが、そこまでして手に入れた最高のカード。それを、なぜ自分達で使わないのか?ってな」


 そのあまりにも本質的な問いかけ。

 それに祈は、初めてその能面のような顔に、ほんのわずかな、しかし確かな「愉悦」の色を浮かべた。

 彼女は、くすりと悪戯っぽく笑った。

 その笑顔は、どこまでも無垢で、そしてどこまでも残酷だった。


「…ふふっ。あなたは、まだ何も分かっていらっしゃらないのね」

「あのグループは、グランドハイストで大当たりを出すのが楽しいから、回してるんですの。アイテムそのものには、何の価値も見出してはいませんわ」

「彼らにとって重要なのは、結果ではない。そのプロセス。誰も見たことのない奇跡のドロップを引き当てる、その一瞬の、脳が焼き切れるほどの快感。それが、一番楽しいし、興奮するんだとか」

「普段は、ドロップしたアイテムも知り合いのSS級に安く直売しているみたいですけど。今回は、大当たりだったから市場に流して、次のグランドハイストを周回するための資金源にするそうですわ」


 そのあまりにも常人離れした価値観。

 それに、隼人の口から感嘆のため息が漏れた。

「……神々の世界の、話はスケールが違うな」

 彼は、心の底からそう思った。

 だが、彼はそこで終わらなかった。

 彼の瞳に、再びあのギャンブラーの光が宿る。

 彼は、その神々の領域をただ見上げているだけの男ではない。

 いつか必ず、そのテーブルに自らの足でたどり着いてみせると、誓った男だ。


「しかし、いつか俺もあんな装備を手に入れて、S級ダンジョンに挑むぜ?」


 その力強い宣言。

 それに、詩織と雫が最高の笑顔で応えた。


「ええ!その意気ですよ、JOKERさん!」

「あなたなら、必ずできますわ!」


 その温かい声援。

 それに隼人は、少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。

 そして、その場の空気を変えるように、詩織が悪戯っぽく笑った。

 その視線は、隼人と、そしてその隣で静かに紅茶を飲んでいる祈へと向けられていた。


「さてと。アイテムの話は、これくらいにして」

「聞きましたよ、隼人さん、祈さん。お二人、最近夜な夜な『寝落ちもちもち』してるとか?」


 そのあまりにも唐突な、そして破壊力のある一言。

 それに、隼人が飲んでいた紅茶を盛大に噴き出した。

「ぶっ…!ゲホッ、ゲホッ…!な、何を言い出すんだ、あんたは!」

 彼の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。

 だが、祈はその表情を一切変えることなく、こくりと頷いた。

「ええ。しておりますけれど。それが、何か?」

 そのあまりにも堂々とした肯定。

 それに隼人は、もはや言葉もなかった。

 詩織は、その光景を心の底から楽しそうに眺めていた。

 そして彼女は、その美しい顔に最高の笑みを浮かべて、隼人へとその身を乗り出した。

 その声は、甘く、そしてどこまでも挑発的だった。


「ぜひ、私ともして欲しいですね。私も、こう見えて世界を救ってる日頃の疲れが貯まって、寝付きが悪いですので」


 そのSSS級のあまりにも壮大な、そしてどこかズレたおねだり。

 それに便乗するかのように、隣で全てを理解した雫が、キラキラとした瞳で叫んだ。


「じゃあ、私もお願いしますね、隼人さん!私も、毎日ギルドの仕事で疲れてるんです!」


 その二人の女神からの、あまりにも無慈悲な挟み撃ち。

 それに隼人は、もはやなすすべもなかった。

 彼はその場で頭を抱え、そして心の底からの、悲鳴を上げた。


「――勘弁してくれ!」


 そのあまりにも人間的な、魂の叫び。

 それに、三人の美しい女神たちは顔を見合わせ、そして腹を抱えて笑い転げるのだった。

 彼の孤独だった戦いは、終わりを告げた。

 ここから始まるのは、三人のあまりにも強力で、そしてどこまでも面倒な女神たちと共に歩む、新たな、そしてより騒がしい物語。

 その確かな予感が、彼の胸を熱くさせていた。



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