第185話
その日の午後、韓国・ソウル。
国内最大手ギルド『青龍』が運営する探索者育成アカデミー。その近未来的なガラス張りの校舎の一室は、異様な熱気に包まれていた。
教壇に立つのは、一人のどこまでも気だるそうな青年だった。
色素の薄い銀髪は、重力に逆らうように無造作に跳ね、その目の下には何日も眠っていないかのような深い、深い隈が刻まれている。
その身を包んでいるのは、講師らしいジャケットやシャツではない。黒を基調とした、機能的なロングコート。その立ち姿は、教師というよりは夜の闇に紛れる孤独な暗殺者のようだった。
彼の名は、パク・ジフン。
A級のネクロマンサー。
そしてその二つ名は、【静かなる軍団】。
彼が、その眠たげな瞳で目の前の十数人の生徒たちを見渡す。
彼らは皆、15歳から18歳までの夢と希望に満ち溢れた若者たちだった。
その瞳はキラキラと輝き、これから始まる偉大な冒険者への道に、胸を躍らせている。
そして、そのあまりにも眩しい光。
それにジフンの疲弊した精神は、じりじりと焼かれていた。
(…はぁ。面倒くさい…)
彼の心の声が漏れ出る。
なぜ俺が、こんなことを。
A級の俺が。
日給最低でも200万円は稼ぎ出すこの俺が、なぜこんなガキどものお守りをしなければならない。
全ての元凶は、ただ一人。
あの日本のイカれたギャンブラー。
“JOKER”。
あいつが気まぐれに始めたネクロマンサー配信。
それが今、アジア全土の若者たちの間で一大ムーブメントを巻き起こしていた。
『安全に戦える』
『クレバーでクール』
『何よりJOKERさんみたいで格好良い』
そんな甘い幻想に踊らされた無数のひよこたちが、次々とこの茨の道へと足を踏み入れている。
そして、その尻拭いをさせられているのが俺というわけだ。
「……」
彼は深く、そして重いため息をつくと、観念してその重い口を開いた。
その声は低く、そしてどこまでも気だるかった。
「…えー、皆さんこんにちは」
「本日、皆さんに探索者としてのイロハを叩き込むことになった、パク・ジフンです」
「早速だが、本題に入る」
彼は教壇のARパネルを操作し、目の前の空間に一枚の画像を投影した。
そこに映し出されていたのは、一体の醜いゴブリンと、そして一本の赤い液体が満たされたフラスコの画像だった。
「まず、A級ネクロマンサーがダンジョンスクールで講師をしてるという、この異常な状況を理解しろ」
「俺は、お前たちに夢を語りに来たんじゃねえ。ダンジョンでは、戦士や盗賊や魔術師の講師も言ってるように、死なないための最低限の現実を教えに来た」
彼は、その赤いフラスコを指し示した。
「いいか、よく聞け」
「お前たちがダンジョンで一番最初に覚えるべきスキル。それは、ゾンビ召喚でも脆弱の呪いでもない」
「――HPが減ったら、ライフフラスコを飲む。ただ、それだけだ」
そのあまりにも基本的で、そして当たり前すぎる一言。
それに、生徒たちがわずかにざわついた。
「何を当たり前のことを、と言っているんだと思っただろ」
ジフンは、その空気を見透かしたように続けた。
「だがな、お前たちひよっこの死因の9割以上がこれだ。フラスコを飲み忘れる。あるいは、ケチる」
「それか、HP自動回復を装備で積む! それができないうちは、常にこの赤い聖水を手元から離すな」
「これが基本ね」
彼は次に、青白い光を放つポータルの画像を表示させた。
「そして、もう一つ」
「危ないと少しでも思ったら、ポータルで一旦ダンジョンの外に出る!」
「いいか、絶対に無理はするな。イキがるな。調子に乗るな」
「お前たちが相手にしているのは、ゲームのキャラクターじゃねえ。お前たちの命を本気で奪いに来てるモンスターだ」
「死んだら終わりだ。コンティニューは、ねえ」
「これが基本ね!」
彼は教壇をドンと叩き、強く言った。
その普段の気だるそうな彼からは、想像もできないほどの迫力。
それに生徒たちは、ゴクリと喉を鳴らした。
だが、その張り詰めた空気を破壊する一人の少年がいた。
彼は、教室の一番前の席でつまらなそうに頬杖をついていた。
そして彼は、手を挙げることもなく言った。
その声は生意気で、そしてどこまでも無邪気だった。
「せんせー」
「せんせいたち、みんなその話は何回もしてるから、別の話をしてよー」
そのあまりにも空気を読まない一言。
それに、ジフンの額に青筋が浮かんだ。
(…この、クソガキが…)
「…はぁ」
彼は天を仰いだ。
「全くもー。ええ、じゃあ別の話をしましょう」
彼は、観念したように言った。
そして彼は、ARパネルを切り替えた。
次に表示されたのは、おびただしい数のユニーク装備とスキルジェムの画像だった。
「分かった。お前らが聞きたいのは、こういう話だろ」
彼の声のトーンが変わる。
それは、もはや教師ではない。
A級のプロフェッショナルとしてのそれだった。
「いいか、よく聞け」
「ダンジョンは、基本的に金でぶん殴る場所だ」
「良い装備、良い武器、良いスキルで安全に戦う事。それが、この世界の絶対的な真理だ」
「お前らネクロマンサー志望は、特にそうだ。魔法の場合、レベルとクオリティを重視する事!」
彼は、一つのスキルジェムの画像を拡大した。
【ゾンビ召喚】。
「例えば、これだ。お前らがこれから一生付き合っていくことになる相棒だ」
「こいつのレベルを上げれば、ミニオンの耐久力と火力が上がる。だが、その分魔石の収入は減るけど、火力も上がるからね。そのトレードオフを、常に考えろ」
「そしてクオリティ。こいつを20%まで上げればどうなるか。クオリティでゾンビ召喚なら、20でゾンビ召喚の最大数が+1されます。」
「つまり、お前の軍団が一体増える。たかが一体と思うなよ。その一体が、お前の生存率を劇的に引き上げる」
「そして、そのクオリティを上げるために必要なアイテム…【宝石職人のプリズム】。あれがいくらするか知ってるか?一つ5万円だ。20個で、たった100万円で火力が上がるのよ?」
「安いと思っただろ?そう思うなら、お前には素質がある」
彼は次に、ギルドの紋章を表示させた。
「あと、ギルドパッシブポイントは早めに取る事!」
「レベルでしか手に入らないパッシブポイントが、300万円で2ポイントとも取れるからね。忘れないように!」
「そのために、どうするか」
彼は、生徒たちの目を一人一人見つめた。
「そのために、バイトをする事!」
「コンビニでも、ファミレスでも、何でもいい。ダンジョンに潜らない時間に働け。そして、金を稼げ」
「それか、素直に親に頼る事!」
「恥ずかしい事じゃない。親御さんも、子が死ぬ事の方が辛いからね」
「そして、A級まで上がれ。A級になれば、100万円なんて1日で稼げる!」
そのあまりにもリアルで、そしてどこまでも力強い言葉。
それに、生徒たちの目がキラキラと輝き始めた。
「すげーよな!」
「早くダンジョンに入りびたい!」
「一回お試しで行ったきりじゃん!」
「中卒で冒険者入りしてる奴もいるし!」
「早くPvPスタープレイヤーに成りたい!」
そのあまりにも無邪気で、そしてどこまでも危険な憧れの言葉。
それにジフンは、深くそして重いため息をついた。
そして彼は、独り言のように呟いた。
その声は、誰にも聞こえなかったかもしれない。
だが、そこにはこの世界の未来を憂う一人の大人の本音が滲んでいた。
「……まあ、ダンジョンに入るのは早い程良いけど」
「これは、社会問題にいつかなりそうだな…」
彼の面倒くさい一日は、まだ始まったばかりだった。