第182話
その日の午後、神崎隼人――“JOKER”は、F級ダンジョン【胞子の洞窟】での、短い、しかし実りある「冒険さんぽ」を終え、その成果を手に、新宿のギルド本部ビルへと足を運んでいた。
彼の足取りは、いつもよりわずかに軽やかだった。
その理由は、彼の心の中に新たな「テーブル」が加わったことによる、確かな高揚感があったからだ。
ネクロマンサー。
死者を率いる、王の道。
その、あまりにも異質で、そしてどこまでも奥深い新たなゲーム。
彼のギャンブラーとしての魂は、その未知なる可能性に、これ以上ないほど惹きつけられていた。
ひんやりとした大理石の床を踏みしめ、彼は見慣れた換金所のカウンターへと向かう。
彼の姿を認め、にこやかに微笑む受付嬢たち。その誰もが、今や彼の熱心なファンであり、彼のチャンネルの熱心な視聴者だった。
彼は、その視線を軽く会釈で受け流しながら、一つのカウンターの前で足を止めた。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
彼女は、隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
「JOKERさん!お待ちしておりました!」
雫は、そのF級ダンジョン特有のどこか懐かしいドロップ品の山を一瞥すると、プロの顔つきで頷いた。
「では、こちらのF級の換金を行いますね」
彼女は、手慣れた様子でそれらを鑑定機へとかけていく。
その鑑定を待つ、わずかな時間。
それは、彼らにとって恒例となった、貴重な作戦会議の時間だった。
鑑定機のモニターには、彼の現在のネクロマンサービルドのステータスが、表示されている。
雫は、その数字を一瞥すると、心からの祝福の言葉を口にした。
「レベル5、おめでとうございます!」
「ああ」
「素晴らしいです。順調な、滑り出しですね」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、プロの軍師の顔に戻り、その大きな瞳で隼人を真っ直ぐに見つめた。
「ですが、JOKERさん。分かってると思いますが、ゾンビ召喚にも、サポートをして強化が必要です」
その、あまりにも的確で、そして彼の次なる一手を見透かしたかのような指摘。
それに、隼人は静かに頷いた。
「ああ、だろうな」
彼は、認めた。
今の彼のゾンビミニオンたちは、確かに彼の命令に忠実に従う。
だが、その一体一体の戦闘能力は、あまりにも低い。
F級相手なら、まだいい。
だが、この先、E級、D級と、テーブルのレートを上げていくためには、この貧弱な軍団を本物の「死者の軍団」へと昇華させる必要がある。
「オススメは、あるのか?」
彼は、素直に尋ねた。
目の前の、この信頼できる軍師に。
その彼からの、問いかけ。
それを待っていましたとばかりに、雫の瞳がキラキラと輝き始めた。
彼女のゲーマーとしての魂に、火がついた瞬間だった。
「はいっ!もちろんです!」
彼女は、弾むような声でそう答えると、ARウィンドウを操作し、三つの異なる色のスキルジェムの情報を表示させた。
それはいずれも、彼の主力スキル【ゾンビ召喚】をサポートするための、補助的なジェムだった。
「JOKERさんのその少数精鋭のミニオン軍団を、最強の殺戮部隊へと変えるための、最も効率的で、そして古典的な組み合わせ。それは、この三つですね」
彼女は、そう言うと、一つ一つのジェムの効果を、丁寧に解説し始めた。
その声は、もはやただの受付嬢ではない。
何千、何万というビルドの可能性を、その頭脳に叩き込んだ、一流のビルド構築家のそれだった。
「まず一つ目。この、赤いジェムです」
彼女が指し示したのは、【近接物理ダメージサポート】。
「効果は、至ってシンプルです。このジェムを、【ゾンビ召喚】とリンクさせることで、あなたのミニオンたちの近接物理ダメージが、そのまま上昇します。レベル1の時点で、約20%のダメージ増加が見込めるでしょう。単純ですが、最も確実な火力アップの手段です」
「そして二つ目。これが、あなたの戦い方を根底から変えるかもしれません」
彼女が次に指し示したのは、同じく赤い、しかしその形状が少しだけ複雑なジェムだった。
【近接スプラッシュサポート】。
「JOKERさん、スプラッシュという言葉の意味は、ご存知ですか?」
「…水しぶきだろ」
「はい、その通りです。そして、この世界の戦闘におけるスプラッシュとは、単体攻撃を範囲攻撃に変えるという意味を持ちます」
「…なんだと?」
隼人は、目を見張った。
「ええ。このサポートジェムをリンクさせたあなたのミニオンの攻撃は、一体の敵にヒットしたその瞬間、その周囲に小さな衝撃波を発生させるようになります。つまり、彼らの全ての攻撃が、スプラッシュダメージを持つようになるのです。一体を殴ったはずなのに、その隣にいる敵にもダメージが入る。これこそが、このジェムの本当の恐ろしさです」
その、あまりにも画期的な効果。
隼人の脳内で、高速のシミュレーションが開始される。
そして、雫は最後の、そして最もピーキーなジェムを提示した。
それは、緑色に輝く宝石だった。
【ミニオンダメージサポート】。
「そして三つ目。これが、あなたの火力を極限まで引き上げるための、最後の歯車です」
「その名の通り、このジェムは、ミニオンのダメージが上昇します。レベル1の時点でおよそ30%近く。近接物理ダメージサポートと合わせれば、あなたのミニオンの火力は、倍近くにまで跳ね上がるでしょう」
「ですが」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「この、あまりにも強力な力には、当然その代わりとして、大きなデメリットも存在します」
「それは、リンクさせたミニオンのライフ…HPですね。が、下がるデメリットもあります」
「確か、10%ほど減少したはずです。つまり、あなたのミニオンたちは、圧倒的な火力を手に入れるその代償として、その身をより脆くしてしまう。まさに、諸刃の剣ですね」
その三つの、サポートジェム。
攻撃力、範囲、そしてさらなる攻撃力と引き換えの脆さ。
その、あまりにも完成された、そしてどこまでもギャンブル性の高い組み合わせ。
隼人は、その三つの歯車が、自らの頭の中で、完璧な形で噛み合っていくのを感じていた。
「なるほど」
彼の口から、感嘆と、そして確信に満ちた声が漏れた。
「ゾンビ召喚の3体だけだと少ないが、攻撃力を上げて、さらにスプラッシュ範囲攻撃にすることで、同時に複数の敵を処理出来る。まさに、少数精鋭の一点突破。強いじゃないか」
彼は、その新たな戦術の可能性に、心の底から興奮していた。
その彼の、あまりにも早い理解力。
それに、雫は満足げに、そしてどこか誇らしげに頷いた。
「はい。ミニオンの強化は、容易なので、どんどん強くなりますね」
「あなたのその指揮官としての才能があれば、きっとこの三つの歯車を、完璧に乗りこなすことができるでしょう」
「その変わり、本体の攻撃性能は低いので、立ち回りと防御が重要ですが」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、悪戯っぽく笑った。
「――まあ、貴方の場合、心配は不要ですね。その世界でただ一つの、ガントレットと首飾りと指輪のコンボがある限りは」
その彼女からの、絶対的な信頼。
それに、隼人は少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。
その時、鑑定の終了を告げる電子音が鳴り響いた。
雫が、モニターを確認し、笑顔で告げる。
「そして、はい、換金終了です。8万円です。どうぞ」
8万円。
F級ダンジョンでの数時間の稼ぎとしては、破格の金額。
だが、今の隼人にとっては、それはもはやただの軍資金の一部でしかなかった。
彼は、その現金が入った封筒を受け取ると、静かに立ち上がった。
彼の心は、すでに次なる一手へと向かっていた。
上野、アメ横。
あの混沌の市場で、この三つの歯車を手に入れる。
そして、自らの死者の軍団を、最強の殺戮機械へと変貌させる。
その新たな目標が、彼を突き動かしていた。
その日の夜。
隼人は、再びあのJRの高架下へと舞い戻っていた。
彼の目的は、ただ一つ。
雫に教えられた、三つの歯車を手に入れること。
彼は、マーケットの喧騒の中を、一直線に進んでいく。そして、ひときわ多くのスキルジェムを扱う一つの露店の前で、足を止めた。
店主は、人の良さそうな、しかしその目は確かな鑑定眼を持つ、中年男性だった。
「よう、兄ちゃん。何か、お探しで?」
「ああ」
隼人は、単刀直入に言った。
「ネクロマンサーの、スターターセットを貰おうか」
「ほう?」
「近接物理ダメージサポート、近接スプラッシュサポート、ミニオンダメージサポート。この3つを、注文する」
その、あまりにも的確で、そしてセオリー通りの注文。
それに、店主の目が、キラリと光った。
「…へっ。兄ちゃん、分かってるねえ。そいつは、どんなネクロマンサーも最初に通る道だ。最高の、組み合わせだよ」
彼は、そう言うと、ショーケースの中から三つの異なる輝きを放つ、宝石を取り出した。
「あいよ。3つで、3万円ね」
その、あまりにも手頃な価格。
それに、隼人は静かに頷いた。
彼は、3万円を支払い、その三つの力を手に入れた。
彼は、その場でマーケットの喧騒から少しだけ離れた、路地裏へと入る。
そして彼は、自らの魂に、近接物理ダメージサポート、近接スプラッシュサポート、ミニオンダメージサポートに入れて、ゾンビ召喚とリンクさせる。
彼の脳内で、イメージが加速する。
スキルジェムとサポートジェムが、光の線…「リンク」によって、結ばれていく。
一つのスキルが、もう一つのスキルを増幅させ、その性質を変えていく。
足し算ではない。掛け算。いや、指数関数的な力の奔流。
彼の目の前で、四つの宝石が一つに溶け合い、そして新たな一つのスキルとして、再構築されていく。
彼の精神とリンクした、三体のミニオンたち。
その腐った肉体が、内側から力強く脈打つのを。
その骨の一本一本が、鋼鉄のように硬質化していくのを。
そして、その空虚な瞳に、純粋な破壊の衝動が宿るのを。
「…なるほど、こりゃ強いな」
彼は、その確かな手応えに、満足げに頷いた。
だが、彼はそこで思考を止めない。
彼は、一つの重要なことを思い出していた。
「おっと、そうだった」
ゾンビ召喚のレベルを、上げる。
レベル2から、3へ。
彼のインベントリから、F級の魔石が光となって消えていく。
そして、彼の目の前に、新たな情報が表示された。
これで、ゾンビ召喚レベル3に上がる。
ミニオンの最大ライフが4%上昇するという、新たな力が付与された。
「…ふむ」
彼は、その地味な、しかし確実な成長を噛みしめていた。
そして彼は、その新たな力を手に、この混沌とした市場を後にした。
彼の心は、これ以上ないほどの高揚感で満たされていた。
彼は、空を見上げた。
上野の、灰色の空。
だが、今の彼の目には、そのさらに上に広がる、無限の可能性の星空が見えていた。
「さて。この力を試せる明日が、楽しみだ」
彼の二つ目の、人生。
その本当の「蹂躙」が、今、始まろうとしていた。