第180話
その日の午後、神崎隼人――“JOKER”の、あまりにも気まぐれな「新たな人生」の続きを、数十万人の観客たちが固唾を飲んで見守っていた。
午前中のハイスト配信を、いつものように完璧な成功で締めくくった彼は、その稼ぎである120万円をインベントリにしまい込むと、間髪入れずに新たな配信の準備を始めていた。
配信のタイトルは、彼の現在の心境を、そのまま映し出していた。
『【ネクロマンサーLv.2】F級ダンジョン冒険さんぽ』
その、あまりにもゆるいタイトル。
それに、コメント欄がいつものように温かいツッコミと期待の声で溢れかえった。
『冒険さんぽwww』
『A級探索者が、F級ダンジョンを散歩するだけの配信か!最高じゃねえか!』
『昨日のスライムの洞窟は、チュートリアルだったもんな。次のステージは、どこだ?』
「よう、お前ら」
隼人は、ARカメラの向こうの観客たちに、気だるそうに、しかしどこか楽しそうに語りかけた。
「昨日は、スライム相手にウォーミングアップさせてもらった。おかげで、この新しい体にも、少しは慣れてきたぜ」
彼は、そう言うと、インベントリから昨日フリーマーケットで買い揃えたばかりの、貧相な装備一式をその身にまとった。
100円のローブと、5000円のワンド。
そのあまりのギャップに、コメント欄が笑いに包まれる。
「今日は、別のF級ダンジョンを攻略する。SeekerNetで調べたんだが、なかなか面白いギミックがあるらしい。俺のこの死者の軍団が、どこまで通用するか、試させてもらう」
彼は、そう宣言すると、転移ゲートをくぐった。
彼がたどり着いたのは、静寂と、そして湿った土の匂いに満ちた、薄暗い空間だった。
F級ダンジョン**【胞子の洞窟】**。
壁も、床も、天井も、全てが様々な色に輝く「発光苔」と、腰の高さほどもある巨大な「発光キノコ」で覆われている。それらが放つ、ぼんやりとした幻想的な光だけが、唯一の光源だった。
空気中には、常にキラキラとした胞子が舞っている。
「…なるほどな。雰囲気は、悪くねえ」
彼は、その空気を深く吸い込んだ。
そして彼は、自らの魂に命令を下す。
「――起きろ、僕たちよ」
彼がそう念じると、彼の足元の影から、ずるりと三体のおぞましい姿が現れた。
昨日、彼がその配下に加えた、三体のゾンビスライム。
彼らは、主の命令を待っていた。
「よし。さて、行くか」
彼は、その三体のミニオンを引き連れ、洞窟のさらに奥深くへと進む。
彼が、最初の一本の巨大な発光キノコの角を曲がった、その瞬間。
彼の目の前に、それはいた。
のそのそと歩いてる、一体の奇妙なモンスター。
それは、人間の子供ほどの大きさの人型キノコだった。ずんぐりとしたキノコの傘が、そのまま頭部と胴体になっており、そこから短い手足のような根っこが生えている。
知性はなく、ゆらりゆらりと、ただ目的もなくその場を彷徨っているだけ。
【ウォンパー】。
またの名を、歩きキノコ。
その、あまりにも間の抜けた姿。
それに、隼人は思わず眉をひそめた。
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、問いかけた。
「…おい、お前ら」
「あれが敵?で、良いのか?」
その、あまりにも素直な疑問。
それに、コメント欄が爆笑の渦に包まれた。
『wwwwwwwww』
『JOKERさん、完全に油断してるwww』
『そのきのこ、ヤバいですよ!』
そして、一人の有識者が、警告のコメントを投下した。
名無しのC級ヒーラー:
そうだよ、JOKERさん!そいつが、ウォンパーです!
一見、弱そうに見えるけど、結構いやらしい敵だよ!
特に、死に際の一発が!
その、意味深な忠告。
それに、隼人のギャンブラーとしての魂が、わずかに疼いた。
「ほう、それは楽しみだ」
彼は、不敵に笑った。
「とりあえず、ひと当てして見るか」
彼は、その三体のミニオンたちに、命令を下した。
その声は、もはやただのプレイヤーではない。
死者を率いる、王のそれだった。
「――ゾンビ達、あいつを攻撃してこい」
その、絶対的な命令。
それに、三体のゾンビミニオンが、即座に反応した。
ウオオオと呻き声を上げながら、彼らは一体のウォンパーへとなだれ込むように、殺到していく。
ウォンパーは、その数の暴力の前に、なすすべもなかった。
その柔らかそうなキノコの体は、ゾンビたちの腐った爪と牙によって、いとも簡単に引き裂かれていく。
そして、数秒後。
ゾンビ達は、歩きキノコを倒す。
その、あまりにもあっけない幕切れ。
『え、弱っ!』
『なんだ、大したことねえじゃん』
コメント欄が、拍子抜けしたような空気に包まれた、その瞬間だった。
ボフンッ!という、くぐもった音と共に。
倒された歩きキノコは、その体を破裂させ、おびただしい数の緑色の胞子をバラマキ、煙幕となる。
その胞子の煙幕は、瞬く間に周囲の視界を覆い尽くした。
「――なんだ!?」
隼人は、その予期せぬ反撃に、思わず声を上げた。
彼の視界は、完全に緑色の霧に包まれ、数メートル先のミニオンたちの姿すら、確認することができない。
そして彼は、その煙幕の中から聞こえてくる、他のウォンパーたちの新たな足音を、確かに聞いていた。
(なるほどな。近づいて攻撃したら、煙幕になって視界を奪われるのか)
彼は、そのギミックの本当の意味を、瞬時に理解した。
これは、ただの目くらましではない。
指揮官である俺と、前線で戦うミニオンたちとを分断するための、巧妙な罠だ。
(近接職だと、これは致命的なデメリットだな)
彼は、冷静に分析する。
(だが、しかし、遠距離職なら比較的問題ないが、やはり視界が奪われるのは厄介だ)
(見えないと、指示も出せないしな)
そうだ。
このゲームの本質は、そこにある。
いかにしてこの視界不良の状況下で、的確な指示を出し続けるか。
彼の指揮官としての真価が、問われていた。
彼は、耳を澄ませた。
そして、その煙幕の向こう側から聞こえてくる複数の足音と、そして自らのミニオンたちの戦闘音を頼りに、その脳内で完璧な戦場の地図を、描き出していく。
(…敵は三体。俺のミニオンを、囲むように配置している)
(1号は、正面の敵と交戦中。2号と3号は、左右から挟み撃ちにされているな)
(…だが、とはいえ、F級の雑魚敵だ。弱いな)
彼は、そう判断した。
そして彼は、その見えない盤面の駒たちに、新たな命令を下した。
「1号、そのまま正面の敵を抑えろ!2号、3号、一度後退しろ!俺の方へ、誘い込め!」
彼の声が、響く。
それに、二体のゾンビが、即座に反応した。
彼らは、巧みに敵の攻撃をいなしながら、ゆっくりと煙幕の外へと後退していく。
そして、その動きに誘われるように、二体のウォンパーが、煙幕の中からその姿を現した。
「――かかったな、アホが」
彼の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
彼は、その無防備な二体のキノコへと、骨の杖から二発の火の矢を放った。
シュッシュッという音と共に、二条の炎が、闇を切り裂く。
そして、それは的確に二体のウォンパーの体を、捉えた。
ボッという音と共に、そのキノコの体は燃え上がり、そして光の粒子となって消滅した。
後に残されたのは、一体だけ。
そして、その最後の一体もまた、煙幕が晴れたその先で、ゾンビ1号によってすでに解体され尽くしていた。
完璧な、勝利だった。
彼は、その新たな戦術の手応えに、満足げに頷いた。
「…なるほどな。面白い。実に、面白いじゃねえか、このダンジョンは」
「とりあえず、進むか」
彼は、そう言うと、その三体の忠実な僕たちを引き連れ、洞窟のさらに奥深くへと進んでいく。
彼の新たな人生は、彼にこれまでにない、新たな「ゲーム」の楽しみ方を、教えてくれていた。
その事実に、彼の心は、これ以上ないほどの喜びで満たされていた。