第179話
JRの高架下。
太陽の光が、ほとんど届かない、薄暗い一角。
そこは、相変わらず混沌としたエネルギーに満ち溢れていた。
ベンダーたちの、怒号。
探索者たちの、真剣な値切り交渉の声。
そして、そこかしこから漂ってくる、得体のしれない食べ物の匂い。
隼人は、その胡散臭い空気に、むしろ心が落ち着くのを感じていた。
ここは、騙される方が悪い、自己責任の世界。
彼のギャンブラーとしての本能が、研ぎ澄まされていくのを感じた。
彼が、フリマにいく入口へと足を踏み入れた、その瞬間。
彼の目に、一つのあまりにも見慣れた、そしてどこか懐かしい光景が飛び込んできた。
一つの露店の前に、ひときわ大きな人だかりができていた。
その中心で、一人の威勢のいい、しかしその目の奥が全く笑っていない商人が、声を張り上げている。
「さあ、来たよ、来たよ!本日、大量入荷したぜ!初心者御用達の、あの黄金のコンビが、今ならなんと、セールセットで3万円!3万円だ!」
その、あまりにも安っぽい、しかし力強い口上。
その彼の目の前に、山のように積まれているのは、二つの小さな箱。
その中身を、隼人は誰よりもよく知っていた。
【清純の元素】と、【元素の円環】。
「さあ、買った、買った! これさえあれば、あんたも今日から一人前の冒険者だ!さあ、悩んでるそこの兄ちゃん!あんたも、どうだい!」
その商人の声に、誘われるように。
F級初心者達が、それにむらがり、買ってる。
彼らは皆、希望に満ちた目をしていた。
このたった3万円の投資が、自らの未来を変えてくれると信じて。
その、あまりにも微笑ましく、そしてどこか切ない光景。
それを、隼人は少しだけ離れた場所から眺めていた。
(…凄い、便利だからな、これ)
彼は思う。
(全属性耐性+26%。MP予約コスト、ゼロ。今更だけど、凄いな、この性能)
彼は、マーケットのさらに奥深く。
いかにも怪しげな空気が漂う、一角へと足を踏み入れた。
そして彼は、初心者向けの魔術師店を探す。
数分後。
彼は、ついに一つの店を見つける。
そこは、他の店のような派手な装飾は、一切ない。
ただ、古びた長机の上に、無数のガラクタ同然のローブやワンドが、山のように積まれているだけ。
店主は、カウンターの奥でうたた寝をしている、一人の親父だった。
その顔には、深い皺が刻まれ、その手は、長年何かを作り続けてきたであろう、職人のそれだった。
隼人は、その親父の前に立つと、静かに声をかけた。
「…オヤジ、起きてるか」
「…んあ?」
親父は、眠たげな目をこすりながら、顔を上げた。
そして、目の前の貧相なローブをまとった若者を一瞥すると、面倒くさそうに言った。
「…なんだい、兄ちゃん。冷やかしかい?」
「いや、買い物だ」
隼人は、単刀直入に言った。
「レベル2向け、魔法使い。まあ、正確にいうとネクロマンサービルドだが。全身の装備を、揃えたい」
「ほう?」
親父の目に、わずかに興味の色が浮かんだ。
「ES+20、耐性+5%が5000円と聞いたが、合ってるか?」
隼人の、そのあまりにも的確な相場の知識。
それに、親父は驚いたように、目を見開いた。
そして彼は、ニヤリと笑った。
その顔は、もはやただの眠たげな老人ではなかった。
この市場で、何十年も生き抜いてきた、プロの商人の顔だった。
「…へっ。兄ちゃん、なかなか分かってるじゃねえか」
「ああ。そのクラスの装備なら、かなり産出するから、安定してその値段だ。うちみてえな専門店じゃなきゃ、もっと高くふっかけられるだろうがな」
「で?一式を、買うのかい?」
「ああ」
隼人は、頷いた。
「頭、胴、手、足、指輪1個、ベルト。その6点で、頼む」
「おう、分かった。ちょっと、待ってな」
親父は、そう言うと、店の奥のガラクタの山を漁り始めた。
そして彼は、数分後、いくつかのみすぼらしい、しかし確かな魔力を秘めた装備を、カウンターの上に並べた。
「ほらよ。これで、どうだい?」
隼人は、その一つ一つを手に取り、その性能を鑑定していく。
どれも、彼が求めていた条件を、完璧に満たしていた。
「…いいだろう。これで、3万円だな」
「ああ、そうだ。…ん?」
隼人は、そこでふと気づいた。
「あと、魔法使いなんだが、使うのは盾になるのか?」
彼の、その素朴な疑問。
それに、親父は心底楽しそうに笑った。
「はっはっは!兄ちゃん、面白いこと聞くな!」
「そうだね。魔法使い用の盾が、あるのさ。ES向けの、やつがね」
彼は、そう言うと、カウンターの下から一つの小さな円形の盾を取り出した。
それは木製だったが、その表面には、魔力を増幅させるためのルーン文字が、刻み込まれていた。
「ほらよ。こいつも、おまけでつけてやる」
「…いいのか?」
「ああ、構わねえよ。どうせ、売れ残りだ」
「7個で3万5000円だが、まけて3万4000円だ。どうだ?」
その、あまりにも絶妙な値引き。
それに、隼人は思わず笑みを漏らした。
「…あんた、商売がうまいな」
「はっ、伊達にこの市場で、10年生きてねえからな」
「買った」
隼人は、そう言うと、ポケットから3万4000円をカウンターの上に置いた。
「まいどあり」
彼は、手に入れた7つの装備を、インベントリへと収納した。
そして彼は、その親父に向き直った。
「…次も、世話になるかもしれないな」
その、彼からの思いがけない言葉。
それに、親父は満足げに頷いた。
「あいよ。その時も、まけてやるよ」
隼人は、その店を後にした。
彼の心は、これ以上ないほどの満足感で満たされていた。
(…良い、買い物だった)
彼は、そう思った。
この混沌とした市場での、人間臭い駆け引き。
それもまた、彼にとっては最高のエンターテイメントなのだ。
彼の新たな人生のための準備は、整った。
彼の本当の冒険が、今、ここから始まる。




