第178話
その日の午後、神崎隼人――“JOKER”は、A級中位ダンジョン【機鋼の都クロノポリス】での、もはや日常と化した「労働」を終え、その成果を手に、新宿のギルド本部ビルへと足を運んでいた。
彼の足取りは、いつもよりわずかに軽やかだった。
その理由は、彼の心の中に新たな「テーブル」が加わったことによる、確かな高揚感があったからだ。
ネクロマンサー。
死者を率いる、王の道。
その、あまりにも異質で、そしてどこまでも奥深い新たなゲーム。
彼のギャンブラーとしての魂は、その未知なる可能性に、これ以上ないほど惹きつけられていた。
ひんやりとした大理石の床を踏みしめ、彼は見慣れた換金所のカウンターへと向かう。
彼の姿を認め、にこやかに微笑む受付嬢たち。その誰もが、今や彼の熱心なファンであり、彼のチャンネルの熱心な視聴者だった。
彼は、その視線を軽く会釈で受け流しながら、一つのカウンターの前で足を止めた。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
彼女は、隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
「JOKERさん!お待ちしておりました!昨日の『新たな人生』配信、拝見しましたよ!」
その声は、弾んでいた。彼の新たな挑戦を、自分のことのように喜んでくれているのが伝わってくる。その純粋な反応に、隼人の口元がわずかに緩んだ。
「いやー、本当に驚きました!まさか、あの最強の戦士ビルドを一旦お休みして、ネクロマンサーを始められるなんて!でも、すごくあなたらしいな、とも思いました」
彼女は、そう言ってくすくすと楽しそうに笑った。
「最初のボス戦も、見事でした。あの巨大スライムの分裂ギミックを、たった3体のミニオンで、あんなに鮮やかに攻略してしまうなんて。あなたの指揮官としての才能には、本当に驚かされます」
「…まあな」
隼人は、その手放しの賞賛に少しだけ照れくさそうに答えながら、インベントリからこの数時間、彼の「新たな人生」で稼ぎ出した、ささやかな戦利品を、カウンターのトレイの上に置いた。
それは、おびただしい数のぬめりを帯びたスライムの核と、いくつかの低級の魔石だった。
雫は、そのF級ダンジョン特有のどこか懐かしいドロップ品の山を一瞥すると、プロの顔つきで頷いた。
「では、こちらのF級の換金を行いますね」
彼女は、手慣れた様子でそれらを鑑定機へとかけていく。
数秒後。
鑑定の終了を告げる、軽やかな電子音が鳴り響いた。
雫がモニターを確認し、そして少しだけ驚いたような表情を浮かべた。
「お待たせいたしました。買い取り価格合計で、5万円になります」
「…ほう?」
その金額に、今度は隼人の方が眉をひそめた。
彼は、自らの最初の冒険を思い返す。
あの時、F級ダンジョンで一日中命からがら戦って手にした金額は、わずか三万数千円だったはずだ。
それが、たった数時間の、しかもレベル2のキャラクターでの周回で、5万円。
明らかに、計算が合わない。
「なんか、最初のF級より高くなってないか?」
彼のその素朴な疑問。
それに、雫は待っていましたとばかりに、深く頷いた。
その瞳には、もはやただのファンではない。この世界の巨大な経済のうねりを、その最前線で見つめてきた、プロのアナリストとしての鋭い光が宿っていた。
「そうですね」
彼女の声のトーンが、変わる。
「JOKERさん、お気づきになりましたか。ここ数ヶ月、特に顕著なのですが…。F級ダンジョンの魔石も、東京での魔石の消費が激しくて、値上がりしているんです。そして、その影響で、買い取り価格も高くなってますね」
「…どういうことだ?」
「理由は、いくつか考えられます。ですが、最大の要因は、あの『海外勢』の存在です」
彼女は、ARウィンドウを操作し、一枚の世界地図と、いくつかのグラフを表示させた。
そこには、各国の探索者人口の推移と、魔石の消費量のデータが、リアルタイムでプロットされていた。
「JOKERさんもご存知の通り、東京は今や、世界で最も探索者が集まる、冒険者の首都です。ですが、その結果、一つの深刻な問題が生まれつつあります。それは、魔石の絶対的な供給不足です」
「東京というこの巨大な都市を維持するためには、膨大な魔力エネルギーが必要です。交通機関、インフラ、そして我々ギルドが提供する様々なサービス。その全てが、ダンジョンから産出される魔石によって、賄われています」
「ですが、ここ数ヶ月で、その需要と供給のバランスが、完全に崩壊し始めているんです」
彼女は、グラフの一点を指し示した。
そこには、海外からの探索者の流入数が、異常なまでの右肩上がりで表示されていた。
「海外勢の皆さんも、魔石を消費するので。彼らが、自国に持ち帰るためのお土産として。あるいは、自らの装備を強化するためのクラフトの材料として。彼らは、驚くほどの量の魔石を、この東京のマーケットで買い占めていきます」
「その結果、どうなるか。もはや、安い魔石も持ち込み次第、品切れになる。常に、市場は品薄状態なんです。だから、ギルドも買い取り価格を上げざるを得ない。そうしなければ、都市機能を維持するための最低限の魔石すら、確保できなくなってしまうからです」
その、あまりにもグローバルで、そしてリアルな経済の仕組み。
隼人は、ただ黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「…なるほどな。つまり、インフレか」
「はい。その通りです。そして、この状況は、一長一短と言えるかもしれません」
雫は、少しだけ複雑な表情を浮かべた。
「まあ、今のところはF級冒険者は喜んでますけど。彼らにとって、収入が倍近くになったのですから。ですが、長期的にはどうなるか…。物価も、少しずつ上がり始めています。このままでは、いずれ格差は、さらに広がっていくでしょうね…」
彼女は、そう言って深いため息をついた。
その瞳には、この世界の未来を憂う、一人の市民としての色が浮かんでいた。
その、少しだけ重くなった空気。
それを断ち切るかのように、彼女はプロの笑顔に戻った。
「…と、すみません。少し、難しい話をしすぎましたね」
「この後、装備を買いにいくので?」
彼女は、話題を変えた。
「ああ。ネクロマンサー用の装備を、いくつか揃えようかと」
「それなら、安い装備はフリマが早いですからね。公式マーケットは、手数料もかかりますし」
雫の、そのあまりにも的確なアドバイス。
それに、隼人の口元に再びいつもの不敵な笑みが戻ってきた。
「ああ。久しぶりに、フリマで装備あさりだ。楽しみだよ」
そうだ。
この混沌とした市場で、自らの「眼」だけを頼りに、最高のお宝を探し出す。
それもまた、彼にとっては最高のギャンブルなのだ。
彼は、換金した5万円をポケットにねじ込むと、雫に向き直った。
「じゃあな。また、来る」
「はい!じゃあ、いってらっしゃい!」
雫のその温かい声援を背中に感じながら。
ああ、と言って換金所を出る主人公。
彼の足は、自然と上野へと向かっていた。
彼の新たな人生のための、最初の「仕入れ」。
その、最高の宝探しが、今、始まろうとしていた。
彼の心は、これ以上ないほどの期待感で満たされていた。