第18話
翌日、神崎隼人は再びあの「ゴブリンの洞窟」の前に立っていた。
数日前、なけなしの金と一本の安物ナイフだけを手に、人生最大のギャンブルに挑むために訪れた場所。その時とは何もかもが、違っていた。
彼の身を包むのは、もはや薄汚れたフリーターの普段着ではない。
頭にはHPを補強する、歴戦の傷跡が刻まれた鉄兜。胴には火の耐性を与えてくれる、焼け焦げた革の胸当て。足には彼の命綱となる、移動速度を確保した古びた革のブーツ。そして二つの指と首には、彼の弱点を的確に塞ぐ三つの地味なアクセサリー。
客観的に見れば、それはお世辞にも格好良いとは言えない、統一感のないちぐはぐな装備の寄せ集めだった。まるで戦場のスクラップ置き場から使えそうなものをかき集めてきたかのような、貧しい駆け出しの冒険者。
だが今の隼人にとって、この装備はどんな高級なブランド品よりも頼もしく、そして誇らしかった。
これは彼が自らの頭脳と才覚と、そしてなけなしの軍資金を全て注ぎ込んで組み上げた、勝利のための「最適解」。彼の全身を覆う、機能美の鎧だった。
彼の左手には相変わらず、神の御業としか思えない【万象の守り】が静かなオーラを放っている。そして腰に差された無銘の長剣。その確かな重みが、彼にこれまでにないほどの揺るぎない自信を与えていた。
もう不安はない。恐怖もない。
あるのは、これから始まるショーへの高揚感だけ。
隼人はARコンタクトレンズ型カメラを目に装着すると、静かに配信アプリを起動させた。
前回の配信の衝撃は、凄まじかったらしい。彼が配信を開始した瞬間、視聴者数はゼロから一気に四桁へと跳ね上がった。『JOKERが配信を開始しました』という通知を待ち構えていたファンたちが、殺到してきたのだ。
彼は配信のタイトルを、新たに打ち込んだ。
『【ボス討伐RTA】ゴブリン・シャーマンを狩りに行こうか』
そのあまりにも挑戦的なタイトルに、コメント欄が即座に熱狂の渦に包まれる。
視聴者A: きたあああああああああああああ!
視聴者B: JOKERさん!待ってたぞ!
視聴者C: ってタイトル!いきなりボス討伐RTAかよ!
そして隼人がカメラの前にその新しい姿を現した瞬間、コメント欄の熱狂はさらに一段階上のステージへと突入した。
視聴者D: うおおおおお!装備変わってる!
視聴者E: ガチ装備じゃん!あのボロボロの服じゃない!
視聴者F: うわ、その剣かっこいい!どこのユニーク!?
視聴者G: いや、あれはノーブランド品だ。だがあの構え…JOKERさん、完全に自分の物にしてるな
視聴者H: 全スロット埋まってるじゃん!SeekerNetのセオリー通りだ!この短時間で、よく揃えたな…!
視聴者たちは彼のそのちぐはぐだが、しかし明らかに「本物」の空気をまとった姿に、賞賛と驚愕の声を上げた。彼がただの幸運だけの男ではなく、勝利のために貪欲に、そして的確に努力をすることができる本物のプレイヤーであることを、誰もが理解したのだ。
隼人はその熱狂のコメント欄を満足げに眺めると、カメラの向こうの数千人の観客に向かって、堂々と、そして不敵に宣言した。
「ああ、見ての通り、少しだけデッキを組み直してきた。なにせ今回の相手は、ただの雑魚じゃないんでな」
彼は腰の長剣の柄を、ゆっくりと撫でた。
「今回の配信の目的は、ただ一つ。先日、このダンジョンの奥で出会ったあの忌々しいボス――【ゴブリン・シャーマン】の討伐だ。この手で、あいつが持つ全てのチップを根こそぎ奪い取ってやる」
その宣戦布告に、コメント欄はこの日最高の盛り上がりを見せた。
もはや彼を、ただの新人だと侮る者は一人もいない。
誰もが、これから始まる伝説の第二ラウンドの目撃者となるべく、固唾を飲んでその瞬間を待ち構えていた。
隼人は洞窟の入り口から吹き出す生暖かく湿った風を一度深く吸い込むと、迷いなくその闇の中へと再びその身を投じた。
ダンジョン内部の空気は、変わらない。
だが、そこを進む隼人自身が、全くの別物へと進化していた。
彼の一歩一歩は力強く、そして速い。アメ横で手に入れた「移動速度+8%」のブーツは、彼の体感では世界そのものを0.9倍速にしたかのような、圧倒的なアドバンテージをもたらしていた。敵から距離を取るのも、詰めるのも、全てが彼の思いのまま。
もはや以前のように、敵の攻撃に後手に回ることはない。常に、彼が主導権を握っていた。
その進化を実感する機会は、すぐに訪れた。
最初の広間を抜けた狭い通路。そこで一体のゴブリンが、壁の向こうから奇声を上げて飛び出してきた。
数日前、彼が死闘の末に、なんとか倒したあのシチュエーション。
だが今の隼人にとっては、ただの絶好の「試金石」でしかなかった。
「グルァッ!」
ゴブリンが棍棒を振りかぶり、突進してくる。
以前の隼人であれば、そのリーチの短さゆえに、懐に潜り込まれる前にどうにかして攻撃を叩き込む必要があった。
だが今の彼には、その必要はない。
彼は腰に差した無銘の長剣を抜き放った。
シュイン、という心地よい金属音。その長さは、ナイフの倍以上はある。
隼人はゴブリンの棍棒が自分に届く遥か手前の間合いから、冷静に剣の切っ先をその眉間へと突き出した。
「ギ…?」
ゴブリンは、自分の攻撃が届かないのに、なぜ相手の攻撃だけが届くのか理解できないという顔で、その場に立ち尽くす。そしてその眉間を、鋭い切っ先が寸分の狂いもなく貫いた。
一撃。
あまりにも一方的な、戦闘とも呼べないただの「処理」だった。
視聴者I: つっよ…
視聴者J: リーチは正義!はっきりわかんだね
視聴者K: ナイフの時とは、安心感が段違いだ
隼人はその圧倒的なアドバンテージを、自らの肌で感じていた。
そして彼は、さらに自らの進化を確かめるために、あえて次の行動に出た。
次に遭遇したゴブリン。彼はその攻撃を、避けなかったのだ。
ゴブリンが振り下ろす渾身の棍棒。それを彼は、自らの胴体であえて受け止めてみせた。
視聴者L: おい!避けないのか!
視聴者M: JOKERさん!?
視聴者たちが、悲鳴に近いコメントを上げる。
ゴンッ、という鈍い音が洞窟に響いた。
確かな衝撃が隼人の体を襲う。だがそれは、彼が想像していたよりも、遥かに軽かった。
【焼け焦げた胸当て】と【傷だらけの鉄兜】、そして【獣の牙の首輪】。それらのガラクタ同然の装備たちが、彼のHPを確かに守っていた。以前なら肋骨にヒビが入っていてもおかしくなかった一撃が、今はただの「少し痛い打撃」程度にしか感じられない。
彼の視界に表示されたHPバーは、ほんのわずか、数ミリ減少しただけだった。
「…なるほどな」
隼人はその確かな防御力を実感し、満足げに頷いた。
そして彼は、怯むことなく前に出て、長剣の一振りで目の前のゴブリンをたやすく光の粒子へと変えた。
リーチによる攻撃の有利。
防御力による生存性の向上。
そして、移動速度による立ち回りの自由。
彼はSeekerNetで学んだ「セオリー」が、いかに正しく、そして重要であったかを、その身をもって痛感していた。
情報と、準備。
それこそが、運否天賦のギャンブルを、勝つべくして勝つ知的なゲームへと昇華させる唯一の方法なのだと。
彼の進軍は、もはや誰にも止められなかった。
以前は一体一体が命のやり取りだったゴブリンの群れが、今では彼の経験値を、そして懐を潤してくれる、ただの「ボーナスステージ」と化していた。
彼はもはや、ただの新人探索者ではない。
このF級ダンジョン「ゴブリンの洞窟」において、彼はまごうことなき「捕食者」であり、「王」だった。
彼の目はただ一点、あの忌々しいゴブリンの巣の主の首だけを捉えていた。
彼の本当の「第二ラウンド」は、もうすぐそこまで迫っていた。
神崎隼人が再びあの広大な地下空洞――ゴブリンの巣へとたどり着いた時、その空気は前回訪れた時とはまるで違って感じられた。
以前は、未知の脅威に対する肌を刺すような緊張感と、圧倒的な数の暴力に対するわずかな恐怖があった。
だが今の彼には、ない。
彼の心にあるのは、これから始まる極上のギャンブルに対する、純粋な高揚感だけだった。彼はもはや、この場所の「侵入者」ではない。彼は、このテーブルのルールを学び、チップを揃え、そしてディーラーの首を取りに来た「プレイヤー」なのだから。
彼はもう、岩陰に身を潜めるような姑息な真似はしなかった。
堂々と、通路から広間の中央へと歩を進める。
そのたった一人の侵入者の登場に、巣で生活していたゴブリンたちの騒がしい日常が、ぴたりと止まった。キーキーと走り回っていた子供ゴブリンが、母親の足元に隠れる。何かを煮込んでいた鍋の番をしていたゴブリンが、しゃもじを落とす。全ての憎悪と驚愕に満ちた視線が、隼人ただ一人へと集中した。
そして空洞の奥、粗末な玉座の上に鎮座していたあの知性的な瞳を持つゴブリンが、ゆっくりとその顔を上げた。
【ゴブリン・シャーマン】。
その瞳には最初、驚きの色が浮かんでいた。まさかあの尻尾を巻いて逃げ出した脆弱な人間が、再びこの場所へ、しかもたった一人で戻ってくるとは思ってもいなかったのだろう。
だがその驚きは、すぐに燃え盛るような屈辱と怒りの色へと変わった。
格下の存在に、一度は逃亡を許してしまった。その事実が、この巣の王としての彼のプライドを、いたく傷つけたのだ。
「ギシャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
甲高い耳障りな絶叫が、洞窟全体に響き渡った。それは前回よりもさらに強く、激しい総攻撃の号令。
シャーマンが骨の杖を天に掲げ、再びあの不気味な呪文を唱え始める。杖の先端の頭蓋骨が禍々しい赤い光を放ち、その光が周囲の戦闘員ゴブリンたちへと降り注いだ。
グルルル…と、ゴブリンたちの喉から獣のような唸り声が漏れる。彼らの筋肉はみるみるうちに膨れ上がり、その瞳は血のような狂気の赤色に染まっていく。
強化魔法。前回と全く同じ光景。
そしてシャーマンは、その憎悪に満ちた瞳で隼人を真っ直ぐに睨みつけ、指先を彼へと向けた。
指先に小さな、しかし極めて高密度な炎の玉が、再び生成される。
「――【火球】」
視聴者A: また魔法攻撃だ!
視聴者B: でも今のJOKERさんなら…!
小さな火の玉が、銃弾のような速度で隼人へと放たれた。
だが今の隼人は、その攻撃をもはや脅威だとは感じていなかった。
彼は左腕の【万象の守り】を、盾のようにゆっくりと構えた。
ジュッ、という音と共に火の玉がガントレットの甲に直撃し、弾け飛んだ。
【万象の守り】が持つ全属性耐性+25%。そして【焼け焦げた胸当て】が持つ火耐性+5%。合計30%もの耐性が、シャーマンの未熟な魔法を完全に無力化していた。彼のHPバーは、ピクリとも動かない。
シャーマンの知性的な瞳が、わずかに見開かれた。
自分の魔法が、全く効いていない。その事実に、ほんの少しだけ動揺の色が浮かんだ。
隼人は、その王者のほんのわずかな隙を、見逃さなかった。
彼は長剣の切っ先をシャーマンへと向け、その口元に最高の不敵な笑みを浮かべた。
「お望み通り、第二ラウンドと行こうぜ」
その言葉が、開戦の合図だった。
隼人は長剣を構え、正面から強化されたゴブリンの群れへと、真っ直ぐに突撃していった。
彼の復讐と蹂躙のショーが、今、始まる。
【結】ボス戦、その始まり
それはもはや、戦闘というより嵐だった。
神崎隼人という一人の男が巻き起こす、鋼と暴力と、そして圧倒的な意志の嵐。
「グギャアアッ!」
「ギギッ!」
四方八方から強化されたゴブリンたちが殺到してくる。槍の穂先が、棍棒の先端が、彼の命を刈り取らんと迫り来る。
だがそれらはもはや、彼には届かない。
シュインッ!
隼人が振るう無銘の長剣が、銀色の残像を描く。
これまで彼を苦しめてきたリーチの短さは、もはやない。ゴブリンたちの攻撃が届く遥か手前の間合いから、彼は一方的に斬撃を叩き込むことができた。
長剣の一振りは、一体のゴブリンの首を刎ね、返す刃で隣のゴブリンの胴体を深々と切り裂く。
それでも、数が多すぎた。
捌ききれない攻撃が、彼の体に叩き込まれる。
ゴンッ!と兜が鈍い音を立てる。ガキンッ!と胸当てが、悲鳴を上げる。
だがその度に、隼人は笑っていた。
(効かねえな!)
アメ横のガラクタ市で執念でかき集めた、HPと耐性を補強する数々の「保険」。それらが、確かに彼の命を守っていた。以前なら致命傷になっていたであろう一撃が、今では彼のHPバーをわずかに削るだけの、許容範囲内の「コスト」へと変わっていた。
視聴者C: すげえええええ!
視聴者D: 乱戦を、一人でさばいてるぞ!
視聴者E: これが、セオリー通りに装備を揃えた戦士の力か…!
だが、ただ群れをさばいているだけでは、いずれジリ貧になる。
彼の目標はただ一点、後方で忌々しげに次の魔法の準備をしている、あのシャーマンの首だ。
「――道を開けろ、雑魚が!」
隼人は雄叫びを上げた。
そして彼の切り札を、切る。
「――【パワーアタック】!」
右腕に、力が集中する。彼の前方を塞いでいたひときわ体格の良いゴブリンへと、彼は全ての力を込めた長剣を叩き込んだ。
ドッゴオオオオンッ!!
もはやそれは、斬撃ではなかった。ただの、純粋な質量の暴力。
パワーアタックを受けたゴブリンは、胸骨を粉砕され、後ろにいた仲間たちを巻き込みながら、まるでボウリングのピンのように派手に吹き飛んでいった。
ゴブリンたちの壁に、一瞬だけ道が開かれた。
隼人はその好機を逃さない。
彼は、新たに手に入れた【使い古された革のブーツ】の移動速度+8%の恩恵を最大限に活かし、その道を一気に駆け抜けた。
それは彼のこれまでの人生の中で最も過酷で、そして最もエキサイティングな数分間だった。
アドレナリンが、脳を焼き切るほど分泌される。
心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打つ。
だが不思議と、彼の思考はどこまでも冷静だった。
彼は、ギャンブラーだった。
リスクとリターン。そのギリギリの境界線の上で踊り続ける、道化師。
この死と隣り合わせの状況こそが、彼の魂が最も輝く最高の舞台だった。
そして、ついに。
彼は無数の光となって消えていくゴブリンたちの死体を乗り越え、目的の場所へとたどり着いた。
玉座の前。
ゴブリン・シャーマンの、間合い。
彼の体は傷つき、消耗していた。鉄兜は歪み、胸当てには深い亀裂が入っている。HPバーも、残り半分を切っていた。
だがその瞳は、少しも光を失ってはいなかった。
むしろその輝きは、これまで以上に強く、鋭く、目の前のたった一体の獲物だけを捉えていた。
後方のゴブリンたちが、再び彼を囲もうと動き出す。
だが、もう遅い。
隼人は長剣の切っ先を、玉座の上で驚愕と屈辱に顔を歪ませるゴブリン・シャーマンへと、真っ直ぐに向けた。
そして、言った。
その声は静かだったが、洞窟の隅々まで響き渡った。
「ようやく一対一だな、ボス」
ゴブリン・シャーマンとの本格的なボス戦が、今、始まろうとしていた。
彼の伝説の、本当の始まりが。