第174話
土曜日の午前7時。
西新宿の空を貫くかのような、タワーマンションの最上階。その一室で、神崎隼人――“JOKER”は、ゆっくりとその身を起こした。
遮光カーテンの隙間から差し込む、朝の柔らかな光が、彼の顔を照らし出す。
部屋は、静かだった。
かつて彼が住んでいた壁の薄いボロアパートの隣人の生活音も、外を走る車の騒音も、ここには届かない。ただ、彼が先日250万円を投じて購入した新たな相棒であるPC、【静寂の王】の、ごく微かな駆動音だけが、この広大な空間の静寂を、優しく満たしていた。
彼は、キングサイズのベッドから気だるそうに起き上がると、バスルームへと向かった。
大理石の、冷たい床。
曇り一つない、巨大な鏡。
その鏡に映る自分の顔を、彼はどこか他人事のように眺めた。
少し癖のある黒髪に、どこか眠たげな切れ長の瞳。
数ヶ月前と、何も変わらないはずのその顔。
だが、その奥に宿る光の質は、明らかに変わっていた。
かつての、明日をも知れぬギャンブラーの、乾いた光ではない。
絶対的な強者だけが持つことのできる揺るぎない自信と、そしてその先に広がる無限の可能性への、静かな渇望。
彼は、その顔を冷たい水で洗い流した。
そして、洗面台に並べられた彼がこれまで一度も使ったことのないような、高級なメンズコスメのボトルを手に取る。
これもまた、彼がこの新しい生活を始めるにあたって、水瀬雫に「A級探索者ともあろう方が、身だしなみは大切ですよ!」と、半ば強引に買い揃えさせられたものだった。
彼は、その使い方をまだよく分かっていない。
だが、その爽やかな柑橘系の香りが、彼の眠っていた思考を、クリアに覚醒させていくのを感じていた。
朝は起きて、顔を洗い、メンズケアをしてから、彼はリビングへと戻った。
今日の予定は、決まっている。
まず、小手調べ。
そして、本番。
最高のテーブルに着く前には、常に最高のコンディションを整えておく。
それが、彼の流儀だった。
彼は、リビングの中央、何もない空間で、一つの古びた銀貨を取り出した。
【盗賊の証】。
彼は、その証を静かに天へと掲げると、念じた。
「――開け」
その言葉に呼応するかのように、彼の目の前の空間がぐにゃりと歪み、【黄昏の港町アジール】へのポータルが開かれた。
彼は、その黄昏色の渦の中へと、躊躇なくその身を投じた。
◇
彼が次に目を開けた時、そこに広がっていたのは、いつもの混沌と活気に満ちた、港町の風景だった。
三つの月が浮かぶ、永遠の黄昏の空。
石畳の路地を、様々な国の、そして様々な種族の探索者たちが行き交っている。
海の潮の香りと、屋台から漂ってくる香ばしいスパイスの匂い。
彼は、その空気を深く吸い込んだ。
そして、彼の足は自然と一軒のオープンカフェへと向かっていた。
テラス席に、一つだけ空いている席を見つけ、そこに腰を下ろす。
「マスター、いつもの」
彼がそう言うと、店の奥から屈強なドワーフの店主が、無言で頷き、一杯の黒い液体を彼の前に置いた。
苦味の強い、しかし彼の思考をクリアにする、特別なブレンドコーヒー。
彼がそのコーヒーを一口味わっていた、その時だった。
「Yo, JOKER!」
背後から、陽気な声がした。
彼が振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
ウェスタンスタイルの革のコートに、二丁の魔導銃を腰に下げた、アメリカ人のガンマン、ジェイクだった。
彼は、隼人の向かいの席に、どかりと腰を下ろす。
「今日も、早いな。日本は、もう朝だっけか?」
「ああ、7時過ぎだ」
「マジかよ。こっちは、これから盛り上がってくるってのによ」
ジェイクは、そう言って豪快に笑った。
「俺は、今から現実世界に帰って寝るわ。夜一日の最後に、夜飯をアジールで食べてから、ハイストするのが日課でな」
その、あまりにも自由なライフスタイル。
それに、隼人は少しだけ羨ましさを感じていた。
「今日の稼ぎは、どうだった?」
隼人が、尋ねる。
「まあ、まあってとこだな。宝箱を二つ開けて、80万円のプラス。悪くないが、大当たりってわけでもねえ」
ジェイクは、そう言うと、テーブルの上に一枚の新しい【計画書】を置いた。
「次は、こいつに挑戦する。難易度は、少し上がるが、その分リターンもでかいはずだ」
「…お前も好きだな。ギャンブルが」
「はっ、お前にだけは言われたくねえよ」
二人は、顔を見合わせ、不敵に笑った。
国籍も、言語も違う。
だが、彼らの魂は、同じギャンブラーとして、確かに共鳴していた。
「じゃあな、JOKER。良い一日を」
ジェイクは、そう言うと、会計を済ませ、自らの家へと帰るためのポータルを開き、その中へと消えていった。
後に残された、隼人。
彼は、残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、静かに立ち上がった。
他愛もない話をしながら、朝飯を食べる。
その穏やかな時間も、終わりだ。
ここからが、彼の本当の「仕事」の時間だった。
彼は、アジールの中心にあるポータルステーションへと向かった。
そして、空いている転移装置に、昨日購入しておいた【計画書】をセットする。
緑色の、ポータルが開かれる。
その向こう側には、古びた石造りの地下へと続く階段が見えた。
彼は、配信のスイッチを入れた。
今日の最初のショーの、始まりだ。
「よう、お前ら。今日のハイストの時間だ」
その一言に、彼のチャンネルに待機していた十数万人の観客たちが、一斉に沸き立った。
彼は、ポータルをくぐり、その薄暗い地下回廊へと足を踏み入れる。
彼の後ろから、音もなく一人の男が現れた。
無精髭を生やした錠前師、ギデオン。
もはや、彼にとっては見慣れた相棒だった。
「よう、新人。今日も、稼がせてもらうぜ」
「…ああ。頼む」
二人は、短い挨拶を交わすと、ダンジョンを隠れながら、その奥深くへと進んでいった。
巡回する警備兵のルートを、読む。
音を殺し、影から影へと移動する。
そのスリリングな、潜入。
しばらく進んだ、その先。
彼らは、一つの脇道を見つけた。
その突き当たりには、古びた木製の宝箱が、静かに置かれている。
「…おい、新人」
ギデオンが、その宝箱を顎でしゃくった。
「どうする?開けるか?」
隼人は、その宝箱と、自らのARウィンドウに表示された警戒レベルのゲージを見比べた。
『警戒レベル: 0/100』
まだ、余裕はある。
だが、ここで欲をかけば、その後の選択肢が狭まる。
悩ましい、選択。
だが、彼の答えは決まっていた。
「…いや、開ける」
彼の、その決断。
それに、ギデオンはニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「はっ、それでこそギャンブラーだ」
ギデオンが、その専門技術で、宝箱の罠を解除していく。
そして、中から現れたのは、いくつかの高価なオーブと魔石だった。
宝箱一個開けて、+20万円分のドロップ。
警戒レベルは、20%上昇した。
だが、それに見合うだけのリターンは得た。
彼らは、さらに奥へと進む。
そして、ついに最深部の宝物庫へとたどり着いた。
ギデオンが、その巨大な金庫の最後の錠前を開けた、その瞬間。
最後、宝箱を開けて、中からまばゆい光と共に、+150万円相当のドロップ品が溢れ出した。
だが、それと同時に。
施設全体に、けたたましい警報音が鳴り響く。
ロックダウンモード。
「――行くぞ、新人!」
「おう!」
二人は、アイテムを回収するのもそこそこに、来た道を全力で引き返し始めた。
彼らの後ろから、無限に湧いてくる警備兵たち。
その、命からがらの脱出。
視聴者は、毎回ハラハラするとコメントする。
『うおおおおお!きたきたきた!』
『このロックダウンからの脱出劇が、一番面白いんだよな!』
『JOKERさん、頑張れ!捕まるなよ!』
その声援を背に、彼らはひたすらに駆け抜ける。
そして、ついに出口へと続く最後の扉の前にたどり着いた。
だが、そこはすでに数十体の屈強な警備兵たちによって、封鎖されていた。
「…チッ、面倒くせえ」
隼人は、舌打ちした。
「ギデオン、下がってろ」
「おう!」
隼人は、その警備兵たちの壁へと、正面から突撃した。
そして、彼は叫んだ。
「――じゃまだ!」
彼の必殺技、4連撃が炸裂する。
【衝撃波の一撃】。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
その、圧倒的な質量の暴力。
それに、警備兵たちの壁は、まるで紙切れのように一掃され、吹き飛ばされた。
そして、開かれた一本の道。
彼らは、その道を一気に駆け抜けていく。
そして、ついに地上へとその身を躍り出た。
「…はぁ、はぁ。今日の仕事も、終わりだな」
彼は、安堵の息を吐いた。
そして、彼はその日の最初のショーを締めくくった。
ハイストを終えて、彼は配信を一旦オフにする。
◇
A級中位ダンジョン、【機鋼の都クロノポリス】。
その、黒曜石の道。
隼人は、電車でアジールから30分ほどかけて、この場所へと移動していた。
そして、彼は再び配信をオンにする。
タイトルは、『【金策&雑談】家賃400万への道 Part.12』。
「よう、お前ら。午後の部、開始だ」
彼のその声に、視聴者たちが再び集まってくる。
彼はその日も、敵を楽々倒しながら、視聴者と最近みたドラマについて会話しながら、ダンジョンを周回する。
その、あまりにも安定しきった光景。
それが、夜の22時まで続いた。
「…さてと。今日の稼ぎは、こんなもんか」
彼は、インベントリにずっしりと溜まった魔石を確認し、満足げに頷いた。
「じゃあな、お前ら。見てくれて、ありがとう」
彼は、そう声をかけて配信をオフにする。
彼は、ポータルを使い、一瞬で自らのタワマンへと帰還した。
リビングの巨大な窓からは、宝石箱のような夜景が広がっている。
彼は、その光景を一瞥すると、そのままバスルームへと向かった。
風呂に入り、一日の汗と戦いの匂いを洗い流す。
そして彼は、キングサイズのベッドへと、その身を沈めた。
目を閉じれば、すぐに深い眠りが訪れるだろう。
朝7時に起き、ハイストに挑み、そして夜までダンジョンを周回する。
その、繰り返し。
これが、A級冒険者JOKERの一日だった。
そして、その地道な、しかし確実な一日一日が、彼をさらなる高みへと導いていく。
そのことを、彼はまだ知らなかった。