第172話
その日の午後、神崎隼人――“JOKER”は、A級中位ダンジョン【機鋼の都クロノポリス】での、もはや日常と化した「労働」を終え、その成果を手に、新宿のギルド本部ビルへと足を運んでいた。
彼の足取りは、いつもよりわずかに軽やかだった。
その理由は、彼の心の中に新たな「テーブル」が加わったことによる、確かな高揚感があったからだ。
【ハイスト】。
知略、隠密性、そして何よりも自らの欲望をコントロールするリスク管理能力が問われる、極めて高度なギャンブル。
あの最初の強奪の成功体験は、彼の退屈な日常に、最高のスパイスを加えてくれていた。
ひんやりとした大理石の床を踏みしめ、彼は見慣れた換金所のカウンターへと向かう。
彼の姿を認め、にこやかに微笑む受付嬢たち。その誰もが、今や彼の熱心なファンだった。彼は、その視線を軽く会釈で受け流しながら、一つのカウンターの前で足を止めた。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
彼女は、隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
「JOKERさん!お待ちしておりました!今日の配信も、拝見していましたよ!もはや、クロノポリスの周回は、完全にあなたの庭ですね」
その声は、弾んでいた。彼の活躍を、自分のことのように喜んでくれているのが伝わってくる。その純粋な反応に、隼人の口元がわずかに緩んだ。
「…まあな。今日のテーブルは、可もなく不可もなく、といったところだ」
隼人は、ぶっきらぼうにそう答えながら、インベントリから今日の成果である大量の魔石と、いくつかのレアアイテムをカウンターのトレイの上に置いた。
雫は、そのアイテムの量と質に、プロの顔つきで頷くと、手慣れた様子でそれらを鑑定機へとかけていく。
その鑑定を待つ、わずかな時間。
それは、彼らにとって恒例となった、貴重な作戦会議の時間だった。
「…それと、雫さん」
隼人は、少しだけ照れくさそうに、しかし真摯な声で言った。
「この前は、助かった。ハイストを教えて貰った礼を、言う」
その、あまりにも珍しい彼からの、素直な感謝の言葉。
それに、雫は一瞬驚いたように、目を見開いた。
そして、次の瞬間、彼女の顔に、満開の花が咲いたかのような、最高の笑顔が浮かび上がった。
「いえ、とんでもないです!私の方こそ、あなたに最高のテーブルを紹介できたことを、光栄に思いますわ」
彼女は、そう言うと、悪戯っぽく片目をつぶった。
「それで?初めてのハイストは、いかがでしたか?」
「…ああ」
隼人は、その問いかけに、満足げに頷いた。
「見事、成功した。最高のギャンブルだったぜ」
その確かな勝利の報告。
それに、雫は自分のことのように、嬉しそうに手を叩いた。
「それは、良かったです!」
「ええ、知っていましたとも。あなたほどのギャンブラーなら、あのテーブルでも、必ず最高のショーを見せてくれると信じていましたから」
彼女は、そう言うと、少しだけ声を潜めて続けた。
その声には、この世界のさらに深い「常識」を、彼に授ける軍師としての響きがあった。
「JOKERさん。実は、あのハイストというコンテンツ。ただの日々の気晴らしや、金策の手段としてだけ、利用されているわけではないんですよ」
「…ほう?」
「中には、あのハイストが+(プラス)が大きいから、アジールに住んでる冒険者も、結構いるんですよ」
その、あまりにも突拍子もない情報。
それに、隼人は思わず眉をひそめた。
「…アジールに、住む?」
「ええ」
雫は、深く頷いた。
「考えてもみてください。アジールに入るための入場料が、10万円。そして、計画書が一枚、50万円。一度ハイストに挑むだけで、60万円もの経費がかかります。ですが、成功すれば150万円のリターンがある。純利益は、90万円。これを、毎日繰り返せば、どうなると思いますか?」
「…月収、2700万か」
隼人は、即座にその数字を弾き出す。
「その通りです。もちろん、毎日成功するとは限りません。ですが、腕利きの探索者であれば、その成功率は8割、9割を超えます。つまり、彼らは月収2000万円以上を、安定して稼ぎ出すことができるのです」
「それは、我々がA級ダンジョンを必死に周回して、ようやく手にする金額とほぼ同じ。いえ、リスクと時間を考えれば、それ以上の効率かもしれません」
その、あまりにも合理的で、そして説得力のある経済モデル。
隼人は、ただ黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「そして、アジールには、それを可能にする最高の環境が揃っています」
雫は、ARウィンドウを操作し、先日隼人も目にした、あの黄昏の港町の風景を映し出した。
「まず、向こうは食事も美味しいし。世界中から、最高の食材と最高の料理人が集まっています。探索者にとって、食事はただの栄養補給ではありません。次なる戦いへの、モチベーションそのものですから」
「…ああ。あのオークの串焼きは、確かに絶品だったな」
隼人が、思わず呟く。
「ふふっ、ご存知でしたか。あそこの屋台は、有名なんですよ。元S級のドワーフの料理人が、道楽でやってる店なんです」
「そして、何よりもあの街の最大の魅力」
彼女は、続けた。
「それは、あらゆる言語を理解して書けるから、という点です」
「国籍も、人種も関係ない。全ての探索者が、対等にコミュニケーションを取り、情報を交換し、そして時にはパーティを組むことができる。あの街は、世界で唯一、言葉の壁が存在しない、真の国際都市なのです」
その、あまりにも理想的で、そしてどこまでも自由な世界。
「だから、彼らは選ぶのです」
雫の声に、熱がこもる。
「現実世界での面倒な人間関係やしがらみを全て捨てて。ただ、自らの腕と頭脳だけを頼りに、生きていくというライフスタイルを」
「普段から向こうに滞在して、毎日ハイストだけをやる冒険者も、そこそこ多いんですよ」
その、あまりにもストイックで、そしてどこまでも自由な生き方。
隼人は、その光景を想像していた。
黄昏の港で目覚め、美味い飯を食い、そしてその日一日の運命を賭けたギャンブルに挑む。
勝利すれば、仲間と祝杯をあげ、そして負ければ、明日の勝利を誓う。
その、繰り返し。
それは、ある意味で、彼が理想とする生き方そのものだったのかもしれない。
「…はっ」
彼の口から、乾いた笑いが漏れた。
「ははは、確かに、魅力的な街ではあったな」
彼は、そう呟いていた。
その声には、どこか羨望と、そしてわずかな共感の色が宿っていた。
その時、鑑定の終了を告げる電子音が鳴り響いた。
雫が、モニターを確認し、笑顔で告げる。
「お待たせいたしました!素晴らしい成果ですね!魔石とレアアイテム、全て合わせまして、買い取り価格合計で、ちょうど250万円になります!」
250万円。
その、大きな金額。
それは、彼が次なるハイストへの挑戦権を得るための、十分すぎるほどの軍資金だった。
彼は、それを受け取ると、静かに立ち上がった。
彼の心は、すでに次なる一手へと向かっていた。
今夜もまた、あの黄昏の港へと、その身を投じることを、彼は決めていた。
「じゃあな」
彼は、短くそう言うと、換金所を後にした。
その背中を見送りながら、雫はそっと祈っていた。
どうか、彼の新たなギャンブルが、最高の勝利で終わりますようにと。
彼の退屈な日常は、終わりを告げた。
次なるスリルと興奮に満ちたショーの幕が、今、確かに上がったのだ。