第170話
その日の夜、神崎隼人――“JOKER”は、珍しくダンジョンにはいなかった。
彼がいたのは、西新宿の夜景を一望する、自らが契約したばかりのタワーマンションの一室。その広すぎるリビングの中央で、彼は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された情報の海を、静かに、そしてどこか目的もなく漂っていた。
彼の新たな相棒、【静寂の王】と名付けられた漆黒のPCは、その名の通り、絶対的な静寂の中で、主の退屈な時間をただ見守っている。
A級ダンジョンというテーブルもまた、彼の日常の一部と化してしまった。
火力、耐久、速度。彼のビルドは、A級下位というステージにおいては、もはや敵なしの完成度を誇る。
全てが、順調だった。
あまりにも、順調すぎた。
そして、その順調さこそが、彼のギャンブラーとしての魂に、新たな渇きを生じさせていた。
勝てると分かっているテーブルで、ただチップを積み上げるだけの作業。
それは、ギャンブルではない。ただの、労働だ。
彼は、自らのビルドがあまりにも美しく、そして効率的に完成してしまったが故の、奇妙な「停滞感」に囚われていた。
何か、新しい刺激が欲しい。
この、完成されすぎた日常を打ち破るような、新たな発見が。
彼の思考は、自然と一つのキーワードへとたどり着いた。
「ハイスト」。
先日、水瀬雫が教えてくれた新たな「テーブル」。
知略、隠密性、そして何よりも自らの欲望をコントロールするリスク管理能力が問われる、極めて高度なギャンブル。
それこそが、今の彼の渇きを癒す、唯一の水源であるように思えた。
「…試してみるか」
彼は、呟いた。
善は、急げ。ギャンブルの鉄則だ。
最高のカードが見えたなら、迷わずそれに乗る。
彼は、その足で再び夜の街へと繰り出すつもりだった。
だが、その必要はなかった。
彼は、SeekerNetの公式マーケットにアクセスする。
そして、彼の次なる戦場への「鍵」を、その豊富な軍資金で、いとも簡単に手に入れた。
まず、【盗賊の証】。
盗賊の証 (Mark of the Robber)
外見:
片面に鍵とダガーが交差する奇妙な紋様が、もう片面には常に黄昏に染まる港町の風景が刻まれた、古びた銀貨。手に取ると、ひんやりとした感触と共に、遠い潮騒と様々な人々のざわめきが聞こえてくるような、不思議な感覚を覚える。
レアリティ:
特殊 / フラグメント (Special / Fragment)
種別:
ポータル生成アイテム / キーアイテム (Portal-generating Item / Key Item)
要求レベル: 46
効果:
この証を街や隠れ家で使用すると、一定時間、異空間**【黄昏の港町アジール】**へのポータルを生成する。
**【黄昏の港町アジール】**にいる間は、あらゆる言語を理解し、読み書きできるようになる。
このアイテムは、使用すると消費される。
フレーバーテキスト:
価値が分かる者にしか、その扉は見えぬ。
さあ、黄昏の港で、新たなゲームを始めようか。
レベル46以上の探索者だけが、その真の価値を理解できるという、古びた銀貨。
マーケットでの価格は、10万円。
次に、その証を使うための具体的な「地図」。
彼は、無数に出品されているリストの中から、最も難易度が低く、そして彼の現在のスキルセットと相性の良さそうな一枚を選び出した。
【計画書:錠前破りレベル1】。
価格は、50万円。
合計、60万円。
A級探索者である彼の、丸一日分の稼ぎに匹敵する、決して安くはない「経費」。
だが、彼の心には、何の躊躇もなかった。
これは、未来への投資だ。
彼は、インベントリに転送されてきた二つのアイテムを確認する。
そして、彼は自室の広々としたリビングの中央で、その古びた銀貨…【盗賊の証】を使ってみた。
彼は、そのひんやりとした感触を確かめながら、そのフレーバーテキストを、ゆっくりと口の中で反芻する。
価値が分かる者にしか、その扉は見えぬ。
さあ、黄昏の港で、新たなゲームを始めようか。
彼がそう呟いた、その瞬間。
彼の手の中の銀貨が、まばゆい光を放った。
そして、彼の目の前の何もない空間が、ぐにゃりと歪み始めた。
まるで、水面に投じられた小石が作り出す、波紋のように。
空間そのものが引き裂かれ、そしてそこに一つの黄昏色のポータルが生成される。
渦巻くオレンジと、紫と、深い藍色。
その向こう側からは、遠い潮騒と様々な人々のざわめきが、微かに聞こえてくる。
「…なるほどな。これが、アジールへの扉か」
彼は、ゴクリと喉を鳴らした。
未知なるテーブルへの、入り口。
彼のギャンブラーとしての好奇心が、その躊躇を打ち破る。
彼は、意を決すると、その光の渦の中へと、恐る恐るその一歩を踏み出した。
ぐにゃり。
視界が、空間が、そして時間そのものが歪む。
ゼリー状の冷たい膜を通り抜けるような、不快な感覚。
そして、次の瞬間。
彼の五感を支配したのは、圧倒的なまでの情報の洪水だった。
そこは、異世界風の港街だった。
彼が立っていたのは、濡れた石畳の路地。
見上げれば、空は常に太陽が沈む直前の、美しい黄昏色の光に包まれている。そしてそこには、赤、青、緑と、三つの異なる色の月が、妖しく輝いていた。
海の潮の香りと、東洋から持ち込まれたであろうスパイスの匂い、そして機械の整備工場から漂ってくるオイルの匂いが、複雑に混じり合っている。
ゴシック様式の尖塔の隣には、東洋風の提灯が並ぶ酒場があり、その向かいの路地裏では、サイバーパンクなネオンサインが明滅していた。
世界中のあらゆる文化が、無秩序に、しかし不思議な調和をもって、この一つの街に凝縮されている。
そして、何よりも彼を驚かせたのは、その「音」だった。
彼の耳に、様々な言語が、同時に、そして洪水のように流れ込んでくる。
屈強な北欧系の戦士が仲間と交わす、荒々しい言語。
フードを目深に被ったエルフの魔術師が静かに詠唱する、古の呪文。
露店で客引きをする、中東系の商人の陽気な声。
だが、その全ての言葉が、彼の脳内で寸分の狂いもなく、完璧な日本語へと自動的に翻訳されていく。
看板に書かれた不可解なルーン文字も、ごく自然に日本語として、その意味を理解することができた。
これが、アジールの祝福。
共鳴の、翻訳。
そして、この街は、様々な人種の冒険者で溢れていた。
A級、S級、あるいはそれ以上の「格」を持つであろう、本物の強者たち。
彼らは皆、それぞれの目的を持って、この黄昏の港を行き交っている。
その圧倒的な光景に、彼は呆然としていた。
これまで、自分が戦ってきた世界がいかに小さく、そして閉じたものであったかを、思い知らされた。
ここは、世界の裏側。
本物の、プロフェッショナルたちが集う場所。
彼が、その情報の洪水の中で立ち尽くしていた、その時だった。
「――あれ?もしかして、JOKERさんじゃん!」
背後から不意に、明るく、そしてどこか人懐っこい声がかけられた。
彼が振り返ると、そこにはあの時の青年がいた。
軽装の、しかし機能的で洗練されたデザインの革鎧。
その両手には、まるで踊るかのように、二本の美しいダガーが握られている。
先日、【古代遺跡アルテミス】で即席のコンビを組んだ、あのハイテンションな盗賊の青年…風間颯太だった。
彼は、隣にいた外国人の青年と雑談してるのを止め、その大きな瞳を子供のようにキラキラと輝かせ、彼に駆け寄ってきた。
その外国人の青年もまた、隼人に見覚えがあった。ウェスタンスタイルの革のコートに、二丁の魔導銃を腰に下げた、いかにもなガンマン。先日の、星晶の巨像戦でも見かけた顔だ。
「うわー、マジでJOKERさんだ!こんなとこで会うなんて、奇遇っすね!」
颯太は、その人懐っこい笑顔で言った。
「JOKERさんも、日課をこなしに来たんすか?」
その、あまりにも慣れた口調。
それに、隼人は少しだけ眉をひそめた。
「…いや」
「初めてで、とりあえず来てみたんだ」
彼の、その答え。
それに、颯太は信じられないというように、目を見開いた。
「え!?マジすか!?JOKERさんほどの人が、ハイスト初めてとか、嘘でしょ!?」
「…本当だ」
「うわー、まじかー!じゃあ、今日は記念すべきデビュー戦ってことじゃないすか!それは、応援しないと!」
颯太が一人で興奮している、その隣で。
それまで黙っていた外国人の青年が、口を開いた。
彼の口から発せられたのは、流暢な英語だった。だが、隼人の脳内では、それが完璧な日本語へと変換されていく。
「Hey, man. You're that JOKER guy, right?」
「――日本のメジャー配信者と聞いてるぜ? 俺も、あんたのクリップいくつか見たことある。あの腐敗のボス戦の最後のクリティカル。マジで、イカれてたな」
彼は、そう言うと、ニッと白い歯を見せて笑った。
その笑顔には、警戒心はない。ただ、同じテーブルに着くプレイヤーへの、純粋なリスペクトがあった。
「俺は、ジェイクだ。よろしくな」
「…ああ」
隼人は、短く頷いた。
ジェイクは、隼人の手元にある【計画書】を一瞥すると、経験者としてのアドバイスを彼に授けた。
「初めてなら、一つだけ言っておくことがある」
「ハイストは、欲深いとよく失敗するからなぁ」
彼は、そう言うと、遠い目をした。
「俺も、昔、それで何度も痛い目を見た。あと一つ、あと一つだけ宝箱を開けても大丈夫だろうってな。そのわずかな欲が、全てを台無しにする。このゲームは、そういう風にできてる」
「だから、忘れるなよ。一番大事なのは、生きて帰ることだ。生きて帰りゃ、次の日もまたこのテーブルに着けるんだからな」
その、あまりにも本質的な、ギャンブラーとしてのアドバイス。
それに、隼人は静かに頷いた。
「…感謝する」
「へへっ、どういたしまして!」
ジェイクは、そう言うと、隣の颯太の肩を叩いた。
「さあ、俺たちは今日の稼ぎで、美味い飯でも食いに行くとするか!」
「っすね!JOKERさんも、終わったら合流します?」
颯太が、尋ねる。
「いや、俺はいい。一人で、やる」
「そっすか。まあ、それがJOKERさんらしいっすね」
颯太は、少しだけ残念そうに、しかし、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「初めてなんでしょ?じゃあ、頑張って下さい! 応援してます!」
「ああ」
二人は、また近くのオープンカフェへと戻り、食事を再開している。その、賑やかな光景。
それを、隼人は少しだけ離れた場所から見つめていた。
そして、彼はふっと息を吐き出した。
彼の心に、これまで感じたことのない、不思議な、温かい感情が芽生えていた。
(…まあ、たまには悪くねえか)
彼は、そう呟いていた。
彼の、孤独だった戦いのスタイル。
それが、ほんの少しだけ変わり始めた瞬間だった。
それをみつつ、さて行くかと、彼は自らの魂に語りかけた。
彼の視線は、もはやカフェの二人にはない。
ただ、目の前にあるハイストミッションへの入り口だけを、見据えていた。
彼の人生で、最も高くつくかもしれない、新たなギャンブルの幕が、静かに上がった。