第169話
その日の午後、神崎隼人――“JOKER”は、A級中位ダンジョン【機鋼の都クロノポリス】の攻略で得た新たな「賭け金」を手に、もはや彼の第二のホームとも言えるあの場所へと向かっていた。
新宿のギルド本部ビル。
その一階にある、関東探索者統括ギルド公認新宿第一換金所。
ひんやりとした大理石の床を踏みしめ、彼は見慣れたカウンターへと向かう。彼の姿を認め、にこやかに微笑む受付嬢たち。その誰もが、今や彼の熱心なファンだった。彼は、その視線を軽く会釈で受け流しながら、一つのカウンターの前で足を止めた。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
彼女は、隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
「JOKERさん!お待ちしておりました!今日の配信も、拝見していましたよ!」
その声は、弾んでいた。彼の無事を、自分のことのように喜んでくれているのが伝わってくる。その純粋な反応に、隼人の口元がわずかに緩んだ。
「昨日の腐敗領域での戦いは、本当に危機一髪でしたね。あの最初の一撃を受けた時、こちらもヒヤリとしました。心臓が、止まるかと思いましたよ…」
彼女は、そう言って大げさに胸を撫で下ろした。そのあまりにも人間的な反応に、隼人は少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。
「…まあな。あれは、少しだけ肝が冷えた」
隼人は、ぶっきらぼうにそう答えながら、インベントリから今日の成果である大量の魔石と、いくつかのレアアイテムをカウンターのトレイの上に置いた。
雫は、そのアイテムの量と質に、プロの顔つきで頷くと、手慣れた様子でそれらを鑑定機へとかけていく。
その鑑定を待つ、わずかな時間。
それは、彼らにとって恒例となった、貴重な作戦会議の時間だった。
「ですが、あの死闘を乗り越えたおかげで、また大きく成長されましたね」
雫は、鑑定機のモニターに表示された彼のステータスを、どこか誇らしげに見つめながら言った。
「ついにレベル46に到達。でも、これで46になりましたね」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、悪戯っぽく微笑んだ。
「これでJOKERさんにも、新たな『テーブル』への挑戦権が与えられたということ、ご存知でしたか?」
「…ほう?」
隼人の眉が、わずかに動いた。
「これで、【ハイスト】が解禁されますので、そちらもやって見てはどうですか?」
その、聞き慣れない単語。
それに、隼人は思わず首を傾げた。
「ハイスト?なんだ、そりゃ」
彼のそのあまりにも素直な、そして無知な反応。
それに、雫は楽しそうにくすくすと笑った。
その笑い声は、まるで「だからあなたは面白いんです」とでも言っているかのようだった。
彼女は、ARウィンドウを操作すると、彼の目の前に一枚の美しい風景画のようなホログラムを投影した。
そこに映し出されていたのは、常に黄昏色の光に包まれた、異国情緒あふれる港町の姿だった。
「【ハイスト】とは、我々探索者の間では、半ば公然の秘密となっている、特殊なダンジョン攻略のことです」
彼女は、プロの軍師の顔に戻り、その詳細な解説を始めた。
「目的は、モンスターを倒すことではありません。ただ一つ。ギルドや古代の組織が管理する、敵が警備する施設の宝を奪うという、特殊なダンジョンです」
「そして、その全てのハイストミッションの拠点となるのが、この**異空間【黄昏の港町アジール】**です」
「…異空間?」
「はい。ここは、現実世界のどこにも存在しない、選ばれた探索者だけが足を踏み入れることを許された、中立の港。レベル46以上の冒険者のみがドロップさせることが出来る【盗賊の証】を使うことで、初めてその門をくぐることができると言われています」
その、あまりにもロマンに溢れた設定。
隼人のギャンブラーとしての魂が、わずかに疼くのを感じた。
「JOKERさんのように、A級以上のテーブルで戦う探索者の方々は、日々の単調な周回に飽きた時の最高の刺激として、このハイストに挑むんです。現実時間で1日1回実施出来るので、46レベル以上の冒険者は、みんなやってますね」
「なるほどな。A級探索者の、日課みたいなもんか」
「ええ。ですが、それはただの気晴らしではありません。ハイストは、極めてハイリスク・ハイリターンな、本物のギャンブルですから」
彼女は、そう言うと、今度は二つのアイテムの画像をホログラムに表示させた。
一つは、古びた羊皮紙に特殊な紋様が刻まれた【盗賊の証】。
もう一つは、より詳細な施設の設計図が描かれた【計画書】。
「このテーブルに着くためには、二つのコストが必要になります」
「まず、アジールに入るための入場券…【盗賊の証】。これは、消耗品で、1枚10万円で取引されてます」
「そして、アジールの中で取引されている具体的なミッションの受注アイテム…【計画書】。これが、1枚50万円で取引されてます」
「…つまり、一度挑むのに、経費が60万か」
隼人は、冷静にそのコストを計算する。
「そうだ。その元手で、どれだけのリターンが見込める?」
彼のその問いかけに、雫は待っていましたとばかりに、にっこりと微笑んだ。
「はい。そこが、このギャンブルの最も美味しいところです」
「ハイストを成功させた場合。リターンも、確実に150万円分の魔石やオーブもドロップする。まさに、破格の利益率です」
「ですが…」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、その表情をわずかに引き締めた。
「…もちろん、うまい話には裏があります。しかし、失敗すると得たアイテムを没収されてダンジョンから追い出される。つまり、計画書代の50万円分を損をするという、ハイリスク・ハイリターンのダンジョンです」
元手60万円。
成功すれば、純利益90万円。
失敗すれば、60万円の損失。
その、あまりにもシンプルで、そして残酷なまでのルール。
隼人は、その数字を聞いただけで、このゲームの本質を完全に理解した。
これは、ただのダンジョン攻略ではない。
知略、隠密性、そして何よりも自らの「欲」をコントロールする、高度な心理戦。
「…面白い」
彼の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「最高のテーブルじゃねえか」
彼は、決めた。
この新たなギャンブルに、自らの全てを賭けることを。
その彼の闘志に満ちた表情。
それに、雫は満足げに、そして深く頷いた。
「ええ。きっと、あなたならこのテーブルでも、最高のショーを見せてくれると信じていますわ」
その時、鑑定の終了を告げる電子音が鳴り響いた。
雫が、モニターを確認し、笑顔で告げる。
「お待たせいたしました!素晴らしい成果ですね!魔石とレアアイテム、全て合わせまして、買い取り価格合計で、ちょうど200万円になります!」
200万円。
その、大きな金額。
それは、彼が新たなテーブルに着くための、十分すぎるほどの軍資金だった。
彼は、それを受け取ると、静かに立ち上がった。
彼の心は、すでに次なる一手へと向かっていた。
新たな目標。
【盗賊の証】。
その、未知なる異空間への鍵を手に入れること。
「じゃあな」
彼は、短くそう言うと、換金所を後にした。
その背中を見送りながら、雫はそっと祈っていた。
どうか、彼の新たなギャンブルが、最高の勝利で終わりますようにと。
彼の退屈な日常は、終わりを告げた。
次なるスリルと興奮に満ちたショーの幕が、今、確かに上がったのだ。