第166話
タワマンの最上階から見える夜景が、彼の部屋を照らしていた。
神崎隼人 "JOKER" は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された情報の海を、静かに、そしてどこか目的もなく漂っていた。
彼の新たな相棒、【静寂の王】と名付けられた漆黒のPCは、その名の通り、絶対的な静寂の中で、主の退屈な時間をただ見守っている。
A級ダンジョン、【古代遺跡アルテミス】。
その白亜の神殿も、彼にとってはもはや見慣れた通勤路の一部と化していた。
レベルは、45に到達。
資産は、先日売却したユニークガントレット【ヘモフィリア】の売却益2375万円も加わり、再び4000万円の大台を突破している。
妹・美咲の当面の治療費と、新しいタワーマンションの家賃を支払っても、まだ十分に余りある金額。
彼のビルドは、A級下位というテーブルにおいては、もはや敵なしの完成度を誇っていた。
全てが、順調だった。
あまりにも、順調すぎた。
そして、その順調さこそが、彼のギャンブラーとしての魂に、新たな渇きを生じさせていた。
勝てると分かっているテーブルで、ただチップを積み上げるだけの作業。
それは、ギャンブルではない。ただの、労働だ。
彼は、自らのビルドがあまりにも美しく、そして効率的に完成してしまったが故の、奇妙な「停滞感」に囚われていた。
何か、新しい刺激が欲しい。
この、完成されすぎた日常を打ち破るような、新たな発見が。
彼は、特に目的もなく、日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』のトップページを開いた。
彼の目にまず飛び込んできたのは、人気スレッドランキングの上位に、未だに居座り続ける、あの忌々しい文字列だった。
『【朗報】JOKERさん、ついに自分のwikiの存在に気付く』
「…チッ」
彼は、そのタイトルを一瞥すると、ふんと興味なさげに鼻を鳴らした。
どうせ、ネタにされてるだけだからな。
彼は、そのリンクを決してクリックしようとはしなかった。あの日の自分のあまりにも滑稽な姿を、自らの意思で再確認するなど、彼のプライドが許さなかった。
彼は、そのお祭り騒ぎのスレッドを意図的に無視し、だらだらと情報収集を始めることにした。
彼のマウスカーソルが、一つのスレッドの上で止まる。
それは、彼と同じA級の探索者たちが、日々の鬱憤と自慢を垂れ流す巨大なコミュニティだった。
『【A級】今日のドロップ自慢&愚痴スレ Part. 82』
「…まあ、たまには同業者たちのテーブルを覗いてみるのも、悪くねえか」
彼はそう呟くと、そのスレッドをクリックした。
そこは、彼の想像通り、A級という過酷なテーブルで戦う者たちの、リアルな悲喜こもごもが渦巻いていた。
311: 名無しのA級魔術師
はぁ…。今日のクロノポリス周回、ドロップ渋すぎ…。
魔石とガラクタレアしか出ねえ。時給換算したら、B級上位と大して変わらんかったわ。
マジで、やってらんねえ。
315: 名無しのA級タンク
311
分かる。俺も、アルテミス遺跡で一日中ゴーレム殴ってたけど、レアブーツ一つ拾っただけだったわ。
しかも、MODがクソすぎて店売り確定。
その、あまりにもリアルな愚痴の応酬。
隼人は、それに静かに頷いた。
そうだ、A級といえども、常に大当たりを引けるわけではない。
そのほとんどは、地道な、そして報われない作業の繰り返しなのだ。
その共感の空気を断ち切るかのように、一つの書き込みが投下された。
それは、圧倒的なまでの勝利の報告だった。
322: 名無しのA級剣士
お前ら、文句ばっか言ってんじゃねえよ!
A級はな、夢があるんだよ!
見ろ、これ!
その書き込みと共に、一枚のスクリーンショットがアップロードされた。
そこに映し出されていたのは、ギルドの公式オークションハウスの、落札通知画面。
落札されたアイテムの名は、【高貴のオーブ】。
そして、その落札価格は。
『2000万円』
その、あまりにも暴力的な数字。
それに、スレッドが一瞬にして静まり返った。
そして、次の瞬間、爆発した。
『うおおおおおお!マジかよ!』
『高貴のオーブ、ドロップしたのか!おめでとう!』
『2000万ポッチかよ!うらやましすぎる!』
『あっ、自慢です』
スレッドの主の、そのあまりにも潔い自慢。
それに、他のA級探索者たちも、嫉妬と賞賛の声を上げる。
『くそっ!俺も、いつか拾ってみてえ!』
『2000万あれば、俺の剣、更新できるんだがなあ…』
その熱狂の中で、また一人、別の成功者が現れた。
338: 名無しのA級盗賊
いやいや、オーブだけがA級の夢じゃねえぜ?
俺も、今日、良いのが売れた。
彼がアップロードしたのは、同じくオークションハウスの落札通知。
アイテム名は、【影縫いのダガー】。
そして、その落札価格は。
『1500万円』
『またかよ!』
『A級、夢ありすぎだろ!』
『俺も、早くA級になりてえ…』
スレッドは、もはや成功者たちの自慢大会と、それに羨望の声を上げる者たちの、欲望の坩堝と化していた。
隼人は、その光景をどこか他人事のように眺めていた。
(…なるほどな。A級のテーブルじゃ、これくらいの勝ち負けは日常茶飯事ってわけか)
彼は、自らの立ち位置を改めて確認する。
だが、そのお祭り騒ぎも長くは続かなかった。
一人の現実主義者の書き込みが、その熱狂に冷や水を浴びせかけたのだ。
351: 名無しのA級ヒーラー
皆さん、盛り上がってるところ申し訳ないんですけど…。
確かに、ドロップは美味しいです。それは、否定しません。
でも、その分、このごろの装備の高騰に対する愚痴も言いたくなりませんか?
私、新しい杖を買おうと思ってマーケットを覗いてみたんですけど、ちょっと良いMODが付いてるだけで、平気で3000万とかするんですよ?
これじゃ、ドロップで稼いだ金なんて、一瞬で消えちゃいますよ…。
どうにかしてくれませんかね、このインフレ…。
その、あまりにも切実な魂の叫び。
それに、スレッドの空気が一変した。
先ほどまでのお祭り騒ぎは嘘のように消え去り、代わりにリアルな生活感の漂う愚痴と、諦観の空気が、その場を支配し始めた。
『分かる…!マジで、分かる!』
『装備、高すぎるよな!特に、海外勢が買い漁り始めてから、異常だろ!』
『俺も、新しい鎧が欲しくて金貯めてるけど、貯めてる間にどんどん相場が上がっていくんだよな…。もう、イタチごっこだよ…』
その、あまりにもリアルなインフレ地獄。
隼人もまた、その言葉に深く頷いた。彼自身、あの【原初の調和】の価格高騰に、頭を悩ませていた一人なのだから。
だが、その絶望的な空気の中に、一つの冷静な分析が投下された。
365: 名無しのA級(情報屋)
まあ、落ち着けよ、お前ら。
確かに、装備の値段は上がってる。それは、事実だ。
だがな、よく考えてみろ。
その分、俺たちの収入も増えてるからなぁ?しょうがないんじゃないか?
その、あまりにも本質的な指摘。
スレッドの空気が、再び変わる。
『…言われてみれば、確かに』
『俺たちが、今こうやって数千万の装備に文句を言えてるのも、A級ダンジョンで日給数十万を安定して稼げるようになったからだもんな…』
『C級の頃なんて、100万の装備ですら、夢のまた夢だったしな…』
そうだ。
彼らは、気づいていなかった。
自分たちが、いつの間にか、かつて夢見た「成功者」の側に立っているという事実に。
そして、スレッドの空気が、少しだけ前向きなものへと変わっていく。
378: 名無しのA級剣士
だよな。
それに、まあお古もそれなりに高騰してるから、実質プラスになるから良いんだけどな。
俺が今まで使ってた剣も、買った時の倍近い値段で売れたし。
結局、損はしてないんだよな。
『それな!』
『分かる。買い替えのタイミングさえ間違えなければ、むしろ資産は増えていくよな』
『これが、A級の経済圏ってやつか…。奥が、深いぜ…』
スレッドは、もはやただの愚痴スレではない。
A級という、過酷な、しかしやりがいのあるテーブルで戦うプロフェッショナルたちの、高度な情報交換の場へと、その姿を変えていた。
隼人は、その光景を興味深く眺めていた。
そして、彼はそのスレッドの最後に、一つの、彼の心を強く打つ書き込みを見つけた。
それは、最近A級に昇格したばかりであろう一人の若者の、素直な独白だった。
421: 名無しの新人A級
先輩方の話、すごく勉強になります。
俺も、最近ようやくA級に上がれて、毎日必死に金策してます。
正直、まだ装備更新の欲がすごくて、インベントリに金が貯まると、すぐに何か買いたくなっちゃうんですよね。
不要なのに、装備更新したい欲が凄い。
A級になったら、高級車や高級時計買うぞって、F級の時は思ってたが…
彼はそこで一度言葉を切った。
そして、彼は自らの本当の気持ちを、そこに綴った。
422: 名無しの新人A級
…でも、最近思うんです。
確かに、金は欲しい。良い暮らしも、したい。
でも、それ以上に。
昨日まで倒せなかった敵を、工夫して倒せるようになった瞬間とか。
新しいスキルコンボを思いついて、それが完璧にハマった時の、あの快感とか。
そういう、今は強くなるのが嬉しいから、高級車や高級時計は、おまけだわ。草
その、あまりにも青臭く、そしてどこまでも純粋な魂の叫び。
それに、スレッドの空気が、一瞬にして温かいもので満たされた。
これまで金や効率の話ばかりしていた百戦錬磨の猛者たちが、一斉にその書き込みに反応したのだ。
『…分かる』
『ああ、分かるぜ、新人。その気持ち、俺たちも忘れてねえよ』
『そうだ。結局、これなんだよな。俺たちが、このクソみてえな世界で戦い続ける、本当の理由は』
『強くなるのが、楽しい。ただ、それだけなんだよな』
その、温かい共感の連鎖。
それに、隼人はただ黙って見入っていた。
そして、彼は気づいてしまった。
ここにいる、全ての人間が。
そして、おそらくはこの俺自身もまた。
同じなのだと。
金のため、名声のため、あるいは誰かのため。
戦う理由は、人それぞれだ。
だが、その根源にあるのは、ただ一つ。
この、あまりにも理不尽で、しかしどこまでも面白い「ゲーム」が、楽しくて仕方がない。
ただ、それだけなのだと。
彼は、ふっと息を吐き出した。
そして、彼はブラウザを閉じた。
彼の心の中に巣食っていた、あの停滞感と焦燥感。
それが、嘘のように晴れていくのを感じていた。
そうだ。
焦る必要など、ないのだ。
俺は、俺のペースで、この最高のゲームを楽しめばいい。
その、あまりにもシンプルで、そして力強い答え。
それに、彼はようやくたどり着いた。
彼の新たな、そしてより自由な冒険が、今、始まろうとしていた。