第165話
その日の午後、神崎隼人――“JOKER”は、珍しく世間で「人気」と呼ばれる狩場にいた。
A級下位ダンジョン【古代遺跡アルテミス】。
白亜の大理石で構成された、美しい神殿遺跡。天井は崩れ落ち、そこから差し込むのは太陽の光ではなく、常に夜空に浮かぶ満月のような、幻想的な魔力の光が、静かに、そして厳かに堂内を照らしている。
彼の配信チャンネルには、今日もまた十数万という、もはや彼にとっては日常となった数の観客たちが、彼の次なる一手を固唾を飲んで見守っていた。
だが、今日の彼は、少しだけ機嫌が良かった。
その理由は、彼が耳に装着したワイヤレスイヤホンから流れる、壮大なオーケストラの旋律にあった。
「…よう、お前ら」
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、いつもより少しだけ弾んだ声で語りかけた。
「昨日、ようやく例のアニメ映画を見てきたんだが、あれはヤバいな。完全に、傑作だ」
彼のそのあまりにも唐突な、オタク特有の早口な語りに、コメント欄がいつものように和やかなツッコミと笑いに包まれる。
『出たwwwww JOKERさんのアニメ語りwwwww』
『この人、本当にA級探索者なのかよw』
『でも、そのギャップがいい』
「いや、マジで。特に、IMAXシアターで見たんだが、音響が半端じゃねえ。戦闘シーンの、地響きみてえな重低音。そして、何よりもだ」
彼はそこで一度言葉を切ると、熱っぽく続けた。
「――エンディングで流れる、あの主題歌が滅茶苦茶良い」
「あの壮大なストリングスと、どこか切ないピアノのメロディー。それが、IMAXの完璧な音響で全身を包み込んでくるんだよ。物語の最後のあの感動的なシーンと相まって、俺、マジでちょっと泣きそうになったからな」
その、あまりにも人間的で、そしてピュアな告白。
それに、コメント欄がこの日一番の温かい笑いに包まれた。
『うおおおお!JOKERさんが、泣きそうに!?』
『可愛いところあるじゃんwww』
『分かる!あの曲は、反則だよな!』
『よし、俺も今日IMAXで見てくるわ!』
その和やかな、しかしどこまでもシュールな光景。
A級のトップランカーが、アニメの主題歌について熱弁しながら、片手間に遺跡を守護する【機械仕掛けのゴーレム】たちを、ただの鉄クズへと変えていく。
彼の長剣【憎悪の残響】が、青黒い冷気のオーラを迸らせる。
【無限斬撃】。
神速の、連撃。
それは、ゴーレムたちの硬い装甲をまるでバターのように切り裂き、その動きを完全に停止させた。
戦闘というより、ただの解体ショー。
その、あまりにも平和で、退屈な、しかし確実な「作業」の時間。
それが永遠に続くかと思われた、その時だった。
彼が、遺跡の最も広大な中央広間へと足を踏み入れた、その瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…!
広間全体が、地響きを立てて揺れ始めた。
彼と、そして彼の周囲で同じように狩りをしていた他のA級探索者たちが、一斉に顔を見合わせる。
広間の中央の床。
その巨大な円形のパネルが、まばゆい光と共にせり上がってきたのだ。
そして、その光の中から、一体のひときわ巨大なモンスターが、その威圧的な姿を現した。
それは、これまでのゴーレムとは、明らかに「格」が違う。
身長は、10メートルはあろうか。
その全身は、まるで夜空の星々をそのまま固めて結晶化させたかのような、半透明の美しい水晶で構成されている。その内部では、銀河のように無数の光の粒子が渦巻き、その巨体そのものが一つの小宇宙のように見えた。
その顔には、目も口もない。ただ、滑らかな水晶の仮面があるだけ。
だが、その存在そのものから放たれるプレッシャーは、これまでのどの敵とも比較にならないほど、濃密で、そして神聖だった。
ARシステムが、その脅威の名を表示する。
【星晶の巨像】
エリア・ボス。
このダンジョンに、ごく稀に出現するという、伝説のレアモンスター。
「――なんだ、あれは…」
隼人の口から、素直な驚愕の声が漏れた。
その、あまりにも神々しく、そして美しい敵の姿。
それに、彼だけではなく、この広間にいた全てのA級探索者たちが、息を呑んでいた。
だが、その硬直は長くは続かなかった。
「うおおおおお!レアボスだ!」
「総員、攻撃開始!絶対に、逃がすな!」
「ワンパンでもいい!一発でも、当てろ!」
一人の探索者の叫びを、皮切りに。
広間にいた数十人のA級探索者たちが、一斉にその星晶の巨像へとなだれ込むように殺到した。
彼らの顔には、恐怖の色はない。
ただ、目の前の千載一遇のチャンスを決して逃すものかという、剥き出しの欲望だけが燃え盛っていた。
彼らのありったけのスキルが、巨像へと叩き込まれる。
炎の槍、氷の嵐、雷の矢。
そして、物理的な斬撃と打撃の奔流。
そのA級探索者たちの集中砲火を受けて。
星晶の巨像の巨大なHPバーが、みるみるうちにその輝きを失っていく。
急激に、HPが減っていく。
その、あまりにも異様な光景。
それに、隼人はただ呆然と立ち尽くすだけだった。
(なんだこれ…?祭りか…?)
その彼の困惑を、見透かしたかのように。
彼の隣に、ふわりと一つの人影が、音もなく現れた。
「――よう、JOKERさん!」
その、あまりにも人懐っこく快活な声。
彼が振り返ると、そこにはあの時の青年がいた。
軽装の、しかし機能的で洗練されたデザインの革鎧。
その両手には、まるで踊るかのように、二本の美しいダガーが握られている。
先日、この同じダンジョンで即席のコンビを組んだ、あのハイテンションな盗賊の青年だった。
「いやー、すごいっすね、このお祭り!俺も、今、別の回廊で狩りしてたんですけど、この地響きに気づいて飛んできたんですよ!」
青年は、興奮したように早口でまくし立てる。
そして彼は、その絶望的な、しかしどこか滑稽な光景を楽しむかのように、隼人へとにやりと笑いかけた。
その顔は、もはやただのファンではない。
一人の、プロの探索者の顔だった。
「JOKERさんも、早くワンパン入れた方が良いですよ!」
その、あまりにも唐突なアドバイス。
それに、隼人は眉をひそめた。
「…どういうことだ?」
「へへっ、知らないんすか?」
青年は、少しだけ得意げに、その秘密を明かした。
「あいつ、ドロップなしの代わりに、経験値がバカみたいに多くて。A級でも、レベルが2~5は上がるんですよ! いわば、経験値のボーナスステージみたいなもんです!だから、みんな必死に一発でも当てようとしてるんすよ!攻撃を当てたプレイヤー全員に、経験値が分配されるんで!」
その、あまりにも魅力的な情報。
それに、隼人の眠たげだった瞳が、わずかに見開かれた。
「…レベルが、2~5だと…?」
「ええ!だから、早く!」
青年に、急かされる。
隼人は、その言葉に深く頷いた。
そして彼は、言った。
その声には、確かなギャンブラーとしての欲の色が滲んでいた。
「――それは、美味しい」
彼は、動いた。
ターゲットは、星晶の巨像。
彼は、一直線にその巨像へと突撃していく。
そして彼は、そのありったけの魔力と魂を込めて、長剣を叩き込んだ。
【必殺技】衝撃波の一撃。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
その彼の一撃が、この長い戦いの最後の一押しとなった。
彼の渾身の一撃を受けて。
星晶の巨像の巨大なHPバーが、完全にゼロになる。
巨像は、断末魔の悲鳴を上げることもなく、ただその美しい水晶の体を内側からまばゆい光に変え、そして静かに砕け散っていった。
おびただしい光の粒子が、アリーナ全体に降り注ぐ。
まるで、星々の葬列のようだった。
そして、その光の粒子が隼人の体を包み込んだ、その瞬間。
彼の全身を、これまでに経験したことのない、ひときわ強く、そして荘厳な黄金の光が、包み込んだ。
ボス討伐の、莫大な経験値。
それが、彼の魂と肉体を、一気に次のステージへと引き上げたのだ。
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
祝福のウィンドウが、彼の視界に立て続けに四度ポップアップする。
彼のレベルは、41から45へと、一気に四つ上昇した。
「……………マジかよ」
彼は、自らのステータスウィンドウに表示されたその数字に、ただ呆然としていた。
そんな彼に、隣の青年が、興奮したように声をかけてくる。
「やりましたね、JOKERさん!4レベルアップとか、ヤバすぎる!いやー、運が良いな。JOKERさんの、おかげかもね!」
青年は、そう言ってにっと笑った。
「これでまた、新たなJOKOKER伝説誕生か? なんてな!」
その、あまりにも軽やかな冗談。
それに、隼人ははっと我に返った。
そして彼は、顔を真っ赤にしながら叫んだ。
その声は、心の底からの悲鳴だった。
「――勘弁してくれ!」
「え、どうしたんすか?」
きょとんとする青年に。
隼人は、頭を抱えながら答えた。
その声は、もはや泣きそうだった。
「…俺は、この前ようやく自分のwikiの存在を知ったんだよ…。そして、興味本位で見てしまった。そこに書かれてた、『JOKER名言(迷言)集』ってページをな…」
「『ウォーミングアップにはちょうどいい』だの、『最高のテーブルじゃねえか』だの…。俺が、調子に乗って口走った数々のクソみてえに恥ずかしい台詞が、全部記録されてやがったんだよ…!」
「俺は、過去の発言を俺のwikiで見返して、恥ずかしくなったばかりなんだ! もう、これ以上俺の黒歴史を増やさないでくれ…!頼むから!」
その、あまりにも切実な魂の叫び。
それに、青年は腹を抱えて笑い転げた。
「ぶはははははは!マジすか!最高じゃないすか、それ!」
コメント欄もまた、そのあまりにも人間的な彼の姿に、この日一番の温かい笑いに包まれるのだった。
彼の新たな伝説(あるいは黒歴史)は、まだ始まったばかりだ。
そのことを、彼自身だけが、まだ気づいていなかった。