第164話
土曜日の早朝。午前6時51分。
西新宿の空は、まだ眠りから覚めきらない人々の営みを映し出すかのように、深い藍色と東の地平線から差し込む淡いオレンジ色が混じり合う、幻想的なグラデーションを描いていた。
だが、神崎隼人――“JOKER”の世界に、週末の安息などという概念は存在しない。
彼の新たな戦場、A級下位ダンジョン【古代遺跡アルテミス】。その内部は、外界の時間など意にも介さず、常に夜空に浮かぶ満月のような、静かで厳かな魔力の光に照らされている。
「…さてと。仕事の時間だ」
彼は、ARカメラの向こう側にいる彼と同じように、昼夜の感覚が麻痺したであろう十数万人の観客たちに、気だるそうに告げた。
彼の耳に装着されたワイヤレスイヤホンからは、彼が最近「思考を無にして作業に集中するためのBGM」と称して好んで聴いているブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックが、静かに、そして無限に流れていた。
今日の配信タイトルは、シンプルに『【金策配信】家賃400万への道』。その、あまりにも俗物的なタイトルが、逆に視聴者たちの心を掴み、彼のチャンネルは、早朝にもかかわらず、過去最高の同時接続者数を記録していた。
『うおおおお!早朝から、お疲れ様です、JOKERさん!』
『家賃400万…!数字が、デカすぎる!』
『もはや、俺たちが応援することでJOKERさんの生活を支えてる感あるなw』
『この無敵の王者が、生活のために必死に金策してるっていうギャップが、たまんねえんだよな』
「…うるせえよ。好きで、やってるわけじゃねえ」
彼は、コメント欄の温かい(あるいはからかっている)声援に、悪態をついた。
通路の先で、別のパーティが派手なスキルをぶっ放しているのが見える。彼は、彼らとは逆のルートを選び、遺跡のより人のいない深部へと足を進めた。しばらく歩くと、巨大な円形の広間に出た。そこは、他の探索者の気配がなかった。どうやら、良い狩場を見つけられたらしい。
彼がそう思い、息をついた、その瞬間だった。
広間の中央で、起動音と共に数体の【機械仕掛けのゴーレム】が、その石の体勢を起こした。
彼は、その群れへと流れるような動きで肉薄する。
そして、ただ剣を振るうだけ。
「アンビエントってのはな、環境音楽だ。主張しない。ただ、そこにあるだけ。だが、その存在が、空間の質そのものを変える。…分かるか?この、禅問答みてえな芸術が」
彼が音楽談義を続ける、その裏側で。
長剣【憎悪の残響】が、青黒い冷気のオーラを迸らせる。
【無限斬撃】。
神速の、連撃。
それは、ゴーレムたちの硬い装甲をまるでバターのように切り裂き、その動きを完全に停止させた。
戦闘というより、ただの解体ショー。
数秒後には、そこにはおびただしい数の魔石だけが残されていた。
『うわ、また一瞬で終わったw』
『この雑談しながら敵を瞬殺していくスタイル、マジで神がかってる』
『家賃400万、一日で稼げそうだなw』
彼は、ドロップしたアイテムを手早く回収すると、また次の獲物を求めて歩き出した。
その、あまりにも平和で、退屈な、しかし確実な「作業」の時間。
A級下位ダンジョンというテーブルもまた、彼の日常の一部と化してしまった。
その事実に、彼は、わずかな達成感と、それ以上に大きな「停滞感」を感じていた。
何か、新しい刺激が欲しい。
この、完成されすぎた日常を打ち破るような、新たな発見が。
彼は、戦闘の合間にふと自らのステータスウィンドウを開いた。
そして、何気なく自らの装備の一覧を眺め始めた。
(…【不動の王冠】、こいつは文句なしの最強だ。HPも、MPも、物理防御も、これ一つで解決した)
(胴の【鋼鉄の炉心】も、当分はこれでいいだろう。耐性の穴は、これで完全に埋まった)
(ベルトの【宿命の腰帯】も、代わりは利かねえ。HPと耐性の塊。これ以上のものは、そうそうない)
彼の視線が、一つ一つの装備の性能を確認していく。
そして、彼の目がある一点で、ぴたりと止まった。
足: 【影歩きのブーツ】 (レア)
効果: HP+38, MP+45, 移動速度+12%, 雷耐性+15% / ソケットx1(砂漠のルーン)
「…足、そろそろ更新するか?」
彼は、思わず呟いた。
確かに、このブーツは優秀だ。HP、MP、移動速度、そして耐性。どれも、高いレベルでまとまっている。
だが、それはあくまで「優秀なレア」の範疇を出ない。
彼の他の部位を固める神がかったユニーク装備に比べれば、その輝きは、どうしても見劣りする。
このスロットを更新すれば、俺のビルドは、さらに高みへと至れるのではないか。
彼の、ゲーマーとしての探求心が疼き始める。
だが、彼はすぐにその考えを打ち消した。
「…まあ、でも困ってないしな…」
そうだ。
今の彼のビルドに、明確な弱点はない。
移動速度も、現状で十分すぎるほど速い。
何千万円、あるいは億という金を払ってまで、今すぐ更新する必要性は感じられない。
無理に、動く必要はない。
それが、ギャンブラーとしての彼の冷静な判断だった。
彼は、その思考を切り替えるように、視線を別の部位へと移した。
そして、彼はそれを見た瞬間。
彼の思考が、止まった。
手: 【万象の守り】 (ユニーク)
効果: 攻撃速度+15%, 全属性耐性+25% / ソケットx1(氷河のルーン)
彼の、全ての始まり。
彼が初めて自らの手で、世界の理を捻じ曲げて創造した、奇跡の産物。
彼は、その性能を改めて見つめ直す。
攻撃速度+15%。全属性耐性+25%。
どちらも、今なお彼のビルドの根幹を支える、最強クラスの性能だ。
だが、彼の心を捉えたのは、その性能ではなかった。
彼は、そのアイテムの詳細情報…その最も基本的な部分を、初めて意識的にその目に焼き付けたのだ。
『装備条件: レベル 1』
「…………」
静寂。
彼の頭の中が、真っ白になった。
レベル1。
そうだ。
このガントレットは、彼がまだレベル1の、何も知らないひよっこだったあの日に生まれたのだ。
そして今、彼のレベルは41。
A級のエリート探索者。
だというのに。
この、レベル1から装備できるガントレットが、今もなお彼の最終装備候補として、その左腕に輝き続けている。
その、あまりにも異常な事実に、彼は今更ながら気づいてしまった。
彼の口から、素直な、そしてどこか間の抜けた疑問の声が漏れた。
それは、ARカメラの向こうの十数万人の観客たちにはっきりと届いていた。
「……なあ、お前ら」
「今更だけど、レベル1から装備出来るこれって、おかしくないか?」
その、あまりにも今更すぎる問いかけ。
それに、それまで彼の音楽談義に和やかに相槌を打っていたコメント欄の空気が、一変した。
全ての雑談がぴたりと止み、代わりに画面を埋め尽くしたのは、驚愕と、そして爆笑の渦だった。
『えっ』
『は!?』
『今、気づいたのかよ、JOKERさん!?』
『うそだろwwwwwwwwwwww』
『天然記念物か、この人はwwwww』
コメント欄が、この日一番の熱狂に包まれる。
彼の、そのあまりにも天然な、そして純粋な疑問。
それが、視聴者たちのツボに完璧にはまったのだ。
その熱狂の中で、いち早く冷静さを取り戻したのは、やはりあの百戦錬磨のベテランたちだった。
彼らは、呆れ果てたような、しかしどこか楽しそうな声で、その「世界の常識」を、彼に叩き込んでいく。
元ギルドマン@戦士一筋:
…JOKERよ。お前、本当に今まで気づいてなかったのか…?
その【万象の守り】が、どれほど異常な存在なのかを。
ハクスラ廃人:
当たり前だろうが!おかしいに、決まってんだろ!
レベル1で装備できて、攻撃速度15%と全耐性25%だぞ!?
そんなもん、A級どころかS級のエンドゲーム級のレア装備でも、そうそうお目にかかれねえ性能だ!
それをお前は、初日にガラクタから錬成しやがったんだぞ!
正気か!
ベテランシーカ―:
ええ。JOKERさん、落ち着いて聞いてください。
あなたのそのガントレットは、もはやただのユニークアイテムではありません。
それは、この世界のアイテム生成の法則そのものを完全に無視した、「バグアイテム」、あるいは「アーティファクト」と呼ぶべき代物なんです。
wikiでも、その異常性は、『JOKERの七不思議』の一つとして、しつこく言及されていますよ。
その、あまりにも的確で、そして辛辣なツッコミの嵐。
それに、隼人はただ呆然としていた。
だが、彼の思考に引っかかったのは、そのガントレットの異常性ではなかった。
彼が、その議論の中で初めて耳にした、一つの単語だった。
「…………え?」
彼の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
その声は、震えていた。
それは、A級のボスと対峙した時よりも、遥かに大きな衝撃を受けている証拠だった。
「俺のwiki、なんてあるのか?」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
配信画面のコメント欄の動きが、完全に止まった。
十数万人の視聴者たちが、一斉に同じことを思った。
(――この男、マジか…?)
そして、次の瞬間。
コメント欄は、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の「爆発」を起こした。
もはや、それは賞賛でも驚愕でもない。
ただの純粋な、腹を抱えての大爆笑の嵐だった。
『wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww』
『嘘だろwwwwwwwww』
『トッププレイヤーが、自分のwikiを知らない世界線wwwwwwwww』
『JOKERさん、あんた最高だよwwwwwwwwww』
『今まで、どうやって情報収集してたんだよ!SeekerNetの掲示板だけで、ここまで来たのかよ!』
その、腹筋崩壊のコメント欄。
それを、呆然と見つめる隼人。
その、彼のあまりにも純粋な、そして絶望的なまでの情報格差。
それに、あのベテランたちも、もはやため息をつくしかなかった。
元ギルドマン@戦士一筋:
…JOKERよ。
お前、本当に知らなかったのか…。
お前のファンたちが、お前の伝説を後世に伝えるために、日夜編集を続けている、あの愛に満ちたデータベースを…。
ハクスラ廃人:
マジかよ…。
お前の今までのドロップ品も、スキル構成も、そして数々の名言も、全部網羅されてる、あの神のデータベースを…?
ベテランシーカ―:
とっくの昔に、ありますよ…。
というか、あなたほどの有名人が、自分のwikiの存在を知らない方が、おかしいレベルです…。
もはや、ギルドの新人研修では、あなたのwikiを読んでおくことが、必修科目になっているくらいですから…。
その、あまりにも優しく、そしてどこまでも残酷な事実。
それに、隼人の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
彼は、気づいてしまった。
自らが、どれほど愚かで、そして滑稽なピエロであったのかを。
(…だから、雫さんも詩織さんも、あんなに俺のこと詳しかったのか…)
彼の脳内で、全てのピースが今はまった。
「………………」
彼は、もう何も言えなかった。
ただ、その場で頭を抱え、うずくまりたい衝動に駆られていた。
彼の、そのあまりにも人間的な、そして滑稽な姿。
それに、十数万人の観客たちは、腹を抱えて笑いながらも、同時にこう思っていた。
(――だから、こいつは面白いんだ)
(だから、俺たちはこいつから目が離せないんだ)
常識を知らない、規格外の怪物。
そのアンバランスさこそが、神崎隼人 "JOKER" という、最高のエンターテイナーの真の魅力なのだから。
彼は、ややあってようやく顔を上げた。
その表情は、羞恥と、そしてそれ以上に、新たな情報の海を発見したことへの抑えきれない好奇心で、満ち溢れていた。
彼はおもむろに、その場にポータルを開いた。
「…今日の配信は、終わりだ」
彼の声は、ぶっきらぼうだった。
「急用ができた。…調べ物が、ある」
その言葉を最後に、彼は光の渦の中へと消えていった。
彼の新たな、そして最も奇妙なダンジョン攻略が、始まろうとしていた。
そのダンジョンの名は、『JOKER Wiki』。
彼自身という、巨大な謎に、彼が初めて向き合う時が来たのだ。